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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十五) [三十六歌仙]

(その十五)殷富門院大輔と小侍従

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十五・殷富門院大輔」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009408

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(左方十五・殷富門院大輔)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019794

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

(バーチャル歌合)

左方十五・殷富門院大輔
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010704000.html

 春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと

右方十五・小侍従
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010705000.html

 いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ

判詞(宗偽)

 玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
  (『小倉百人一首』八九・『新古今集』「恋一」一〇四三・「右方一」 )
 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(殷富門院大輔)
 (『小倉百人一首』九〇・『千載集』「恋四」八八六・「左方一五」 )
 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む(後京極摂政前太政大臣)
  (『小倉百人一首』九一・『新古今集』「秋下」五一八・「左方六」 )
 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし(二条院讃岐)
  (『小倉百人一首』九二・『千載集』「恋二」七六〇・「右方一一」)

 この『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』は、『新古今集』の歌仙(歌人)を代表する三十六人の「肖像と和歌」とを「歌合」(左方帖・右方帖)形式に作成したものと理解して差し支えなかろう。ここに登場する「新三十六歌仙」は、『古今集』を中心としての、例えば、『佐竹本三十六歌仙(伝藤原信実筆)』の「三十六歌仙」(歌人)とはダブらない。
 そして、文暦二年(一二三五)頃に成立したとされる『小倉百人一首』(藤原定家撰)には、いわゆる「三十六歌仙」と「新三十六歌仙」とが混在しており、上記の「式子内親王から二条院讃岐」の四人は、『小倉百人一首』では、上記のとおり(八九番から九二番)に配列されている。
 しかし、その定家の撰した歌は、『古今集』(八九番・九一番)だけではなく『千載集(藤原俊成撰)』(九〇・九二)などの他の勅撰集などからも採られている。このことは、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』の歌仙の歌も同様で、『新古今集』オンリーではなく、また撰歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)も、例えば、『小倉百人一首』(上記の四首)とはダブらない。
 その上で、例えば、上記の四人の歌人の代表歌として、上記の『小倉百人一首』の四首と、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』収載の歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)とを比較して、やはり、『小倉百人一首』の方に軍配が上げられるであろう。

ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮(右方一・式子内親王)
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(左方一五・殷富門院大輔)
空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月(左方六・藤原良経)
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら(右方一一・二条院讃岐)

 ここで、今回の両首を、あらためて並列して、併せて、この両首が共に『新古今集』収載の歌なので、この両首の撰者名も『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より併記して、その上で、最終的な判詞(判定)を書き添えたい。

   左 持
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(殷富門院大輔・「新古七三」)
(〇=後鳥羽院、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰)
   右
いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ(小侍従・「新古一八三」)
(〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞(宗偽)
 この両首は、共に『隠岐本新古今集』(隠岐本)にも収載され、さらに、『新古今集』撰者(「有家・定家・家隆・雅経」の四人)のうち、左方(殷富門院大輔)は二人(二点)、右方(小侍従)は四人(四点)で選出され、右方(小侍従)を勝とするのが順当なのかも知れないが、次のことを申し添え「持」といたしたい。
(追記)
この左方の歌の二句目は、「かすみ吹(ふく)とて」ではなく「かすみ吹(ふ)きとく」の表記が正しく、この「とく」が、次の「たえまより」の「たえ」、さらに、「より(縒り)との、結句の「青柳のいと(糸)」の、その「いと(糸)」の縁語となっており、それらの『新古今集』調の技巧的な冴えを「佳(可)」とし、二点(宗偽点一+α=表記の異同)を加え、共に、満点歌(五点)とし「持」といたしたい。

殷富門院大輔の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

   百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸(新古73)

【通釈】春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。
【補記】「とく」「たえ」「より(縒り)」は糸の縁語。
【本歌】藤原元真「後拾遺集」
浅緑みだれてなびく青柳の色にぞ春の風も見えける

小侍従の一首

   葵(あふひ)をよめる
いかなればそのかみ山の葵草年はふれども二葉なるらむ(新古183)

【通釈】どういうわけだろう、その昔という名の神山の葵草は、賀茂の大神が降臨された時から、多くの年を経るのに、いま生えたばかりのように双葉のままなのは。
【語釈】◇葵 賀茂祭の日、社前などを飾るのに用いた。葉を二枚対生するので、二葉葵とも言う。◇そのかみ山 神山は賀茂神社の背後の山。「その昔」を意味する「そのかみ」を掛ける。
【補記】葵祭の飾りに用いられた葵草に寄せて、賀茂の祭が毎年華やかに繰り返されることを讃美する心を籠めている。壮麗な賀茂祭は京の人々が待ちかねた夏の一大イベントであり、それを楽しむ弾むような心がよく出ている。
【他出】続詞花集、小侍従集、玄玉集、三百六十番歌合、歌枕名寄
【主な派生歌】
たのみこしそのかみ山の葵草思へばかけぬ年のなきかな(二条院讃岐)
生ひかはる今日のあふひや神山に千代かけて見る二葉なるらむ(霊元院)
神山のみあれののちのあふひ草いつを待つとて二葉なるらむ(香川景樹)

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 生没年未詳(1130頃-1200頃)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。尊卑分脈には「道尊僧正母」とある。
若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい。
永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠している。自らもしばしば歌会を催し、文治三年(1187)には藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどした。源頼政・西行などとも親交があった。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なった(玉葉集)。
家集『殷富門院大輔集』がある。千載集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集に六十三首を採られている。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも「見せばやな…」の歌が採られている。

小侍従(こじじゅう) 生没年未詳(1121頃-1201以後) 通称:待宵(まつよいの)小侍従・八幡小侍従

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/matuyoi.html

紀氏。石清水八幡別当大僧都光清の娘。母は花園左大臣家小大進。藤原伊実の妻。法橋実賢・大宮左衛門佐の母。菅原在良は母方の祖父、殷富門院大輔は母方の従妹。
四十歳頃に夫と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。
歌人としての活躍は宮仕え以後にみられ、永万二年(1166)の中宮亮重家歌合をはじめ、太皇太后宮亮経盛歌合、住吉社歌合、広田社歌合、右大臣兼実歌合などに参加。『無名抄』には殷富門院大輔と共に「近く女歌よみの上手」と賞されている。ことに「待つ宵の…」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。後徳大寺実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人と交遊した。歌の贈答からすると平経盛・源雅定・源頼政・藤原隆信とは特に親密だったようである。
治承三年(1179)、六十歳頃に出家。その後も後鳥羽院歌壇で活躍を続け、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)頃の院三度百首(千五百番歌合)などに出詠する。また三百六十番歌合にも選ばれた。家集『小侍従集』がある。千載集初出。勅撰入集は五十五首。『歌仙落書』歌仙。女房三十六歌仙。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その一)

小侍従二.jpg

京都国立博物館の入り口。右の「小大君(こおおぎみ)」(奈良県・大和文華館・重要文化財は、2019年11月6~24日(最終日)に展示) →A図

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)→  B図
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

 上記の「小大君像」(A図)は、2019年10月12日(土)~11月24日(日)、京都国立博物館で開催された特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の入口の看板の「小大君像」である。
この「佐竹本三十六歌仙」の肖像画を描いたのは、「新三十六歌仙」の一人・藤原信実、その和歌の書は、これまた、「新三十六歌仙」の一人(『新古今集』の「仮名序」の起草者)である、後京極摂政前太政大臣(藤原良経)とされている。
 この後京極摂政前太政大臣(藤原良経)については、「左方六」で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

 また、藤原信実は、次回の「左方十六」で寂蓮法師(右方十六)との歌合が予定されている。なお、この「佐竹三十六歌仙」については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

 そして、この「佐竹本三十六歌仙」の「小大君像」(A図)と、今回の「新三十六歌仙」の「小侍従像」(B図)とが、衣装の色合いなどは異なるが、その女性の顔貌などは瓜二つといっても差し支えなかろう。
 この「小大君像」(A図)と「小侍従像」(B図)との「小大君」と「小侍従」とは、全くの別人で、この「小大君(像)」(A図)は『古今集』時代(『古今集』成立=延喜五年・九〇五)、そして、「小侍従(像)」(B図)は『新古今集』時代(『新古今集』成立=元久二年・一二〇五)で、約三世紀(三百年)の時代史的スパンがある。
 さらに、この『新古今集』時代の「小侍従像」(B図)を描いたのは狩野探幽で、落款からすると、探幽の「法印」時代(寛文二年・一六六二・六一歳以降)ということになり、ここでも、約四世紀(四百年)の時代史的な隔たりがある。
 ということは、江戸時代初期の狩野探幽は鎌倉時代初期の歴史上の歌人「小侍従(像)」(B図)を描き、鎌倉時代初期の藤原信実は、平安時代初期の歴史上の歌人「小大君(像)」(A図)を描き、結果として、『古今集』時代の「小大君(像)」(A図)と『新古今集』時代の「小侍従(像)」(B図)とが、瓜二つの女性像という形相を呈してきたということになる。
 これらの「佐竹本三十六歌仙」そして「新三十六歌仙」の「歌仙絵」は、「似絵(にせえ)」(大和絵系の肖像画)として、「細い線を重ねて顔貌を描く」描法で、「新古今時代」の、藤原隆信・信実の家系によって発展を遂げた描法とされている(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』など)。
 そして、「佐竹本三十六歌仙」は、「書=後京極摂政前太政大臣(藤原良経)、画=藤原信実」の伝承が正しいと仮定するならば、藤原(九条)良経は、建永元年(一二〇六)に三十八歳で夭逝して居り、それ以前ということになろう。そして、その背後には、藤原(九条)良経の書が正しいとするならば、当時の後鳥羽院上皇の影がちらついて来るのである。
 また、「新三十六歌仙」についても、「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が藤原定家の日記『名月記』天福元年(一二三三)八月十二日条に記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということから、これまた、後鳥羽院の影がちらちらするのである。
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