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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十六) [三十六歌仙]

(その十六)信実朝臣(藤原信実)と寂蓮法師

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409

信実二.jpg

(左方十六・信実朝臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019795

寂蓮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十六・寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009427

(バーチャル歌合)

左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html

 あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね

右方十六・寂蓮法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010708000.html

 かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲

判詞(宗偽)

 藤原定家の日記『名月記』(天福元年(一二三三)八月十二日条)に「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということは、「新三十六歌仙絵」関連に大きな示唆を投げかけている。
 そして、この記述に登場する「九条大納言基家」については、「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」の「左方九」(「左方帖九」で既に触れている。もう一人の「似絵の名手藤原信実」が、今回の「左方十六・信実朝臣」その人なのである。
 とすれば、上記の定家の『名月記』の記載が真実とするならば、上記の「信実朝臣像」は、信実が自らを描いた「自画像」そのものの模写絵ということになり、その模写絵は、江戸狩野派の実質的な総帥・狩野探幽が模写したということになる。
 これに対する「右方十六・寂蓮法師」は、いわゆる、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」と深く関係し、俊成の猶子で、俊成の二男・定家とは従兄弟(兄=寂蓮、弟=定家)との間柄である。そして、「似絵の名手藤原信実」の父「隆信」は、俊成の再婚の妻(美福門院加賀)の子で、俊成家で育った定家の異父兄(兄=隆信、弟=定家)との間柄となる。
 こうして見てくると、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」の「歌道」の家系は、「寂蓮→定家」、「画道」の家系は「隆信→信実」の家系ということになる。
 それにしても、この「真実の堪能見えき・歌詠み人」(『後鳥羽上皇御口伝』)の寂蓮と、年恰好は親子ほどもある「似絵の名手」(『名月記』)の信実との番いは、これは、隠岐に配流されている後鳥羽院が、「九条大納言基家が三十六人を撰び」(『名月記』)の、その「新三十六歌仙」(「基家」原案)を目にして、それに手入れをしての組み合わせのような思いを深くする。

   左 持
あけてみぬたが玉章(たまづさ)もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね(信実)
(『新古今』=入撰無、『名月記』加算=後鳥羽院・基家・定家・宗偽)
   右
かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲(寂蓮)
(『新古今』、〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞
 右方は、後鳥羽院の「春・夏=ふとくおほきによむべし」「秋・冬=からびほそく読むべし」「恋・旅=ことに艶によむべし」(三体和歌)の注文付きの「ふとくおほきによむべし」(大胆にして長け高く詠むべし)に応答しての一首である。この一首に接して、後鳥羽院は「いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」(『後鳥羽院御口伝』)と記している。
 左方は、この後鳥羽院の「三体和歌」の「ことに艶によむべし」(本意に加えて優艶に詠むべし)の恋の歌として、「あけて見ぬ」「誰が」「玉章(恋文)も」「徒に」/「未だ」「夜を籠めて=まだ暗いうちに」「かえる雁がね」と「真実の堪能と見えき・恐ろしき」(『後鳥羽院御口伝』)一首と解したい。
 さらに、この歌は、「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ」(清少納言『百人一首62』『後拾遺集雑二』)の本歌取りの一首とするならば、その「鳥の空音(そらね)」(鳥の鳴き真似)を「かえる雁がね」(帰雁の季の詞)と転換し、さらに、「秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰(た)が玉づさをかけて来つらむ(紀友則『古今207』))を踏まえていることも明瞭となってくる。
 とすると、後鳥羽院が定家の歌について「いささかも事により折によるといふ事なし」(『後鳥羽院御口伝』)と評した意に関連して、後鳥羽院流(場・状況などの「制作の場」と作者の置かれている「境涯」にも配慮する)の立場でも、定家流(「歌そのもの=三十一文字で毅然として屹立(きつりつ)していなければならぬ」)の立場に立っても、和歌の伝統的な手法の「本歌取り」の一首として、ここは「持」といたしたい。

寂蓮法師の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

   和歌所にて歌つかうまつりしに、春の歌とてよめる
葛城(かづらき)や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古87)

【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。
【語釈】◇葛城や高間の 「葛城」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山。「高間の山」はその主峰である金剛山(標高1100メートル余)の古名とされる。◇立田 龍田山。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。葛城連山は龍田山の南に列なる山脈であり、京都や奈良から見ると「立田の奧」が葛城にあたるのである。◇白雲 山桜を白雲に喩える。
【補記】建仁二年(1202)三月の三体和歌六首の一。主催者の後鳥羽院より「ふとくおほきによむべし」と注文されて詠んだ春の歌。『後鳥羽院御口伝』に「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」の評がある。
【他出】三体和歌、自讃歌、定家十体(長高様)、時代不同歌合(初撰本)、歌枕名寄、六華集、心敬私語
【参考歌】紀貫之「古今集」
桜花咲きにけらしもあしびきの山のかひより見ゆる白雲

寂蓮の「三体和歌六首」(参考)

http://k-sako.hatenablog.com/entry/20180615

『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、参加した歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・長明・寂連の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。

(御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなり」とおほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおばまたもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。)
(『無名抄(鴨長明)』)

〔春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり」〕
(『無名抄(鴨長明)』)

http://k-sako.hatenablog.com/entry/20180701

  春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
(現代語訳:葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない)

  夏 太くおおきに読むべし
夏の夜の有明の空に郭公月よりおつる夜半の一声
(現代語訳:夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる夜半の一声がする)

  秋 からびほそく読むべし
軒ちかき松をはらふか秋の風月は時雨の空もかはらで
(現代語訳:時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)

  冬 からびほそく読むべし
山人のみちのたよりもおのづから思ひたえねと雪は降りつつ
(現代語訳:山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと雪は降り続いていることよ。)

 恋 ことに艶によむべし
うきながらかくてやつひにみをつくしわたらでぬるるえにこそ有りけれ
(現代語訳:せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで濡れてしまった江であることよ。〔実際には契りを交わさない浅い縁でありながら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこうしてしまいには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)

  旅 ことに艶によむべし
むさしのの露をば袖に分けわびぬ草のしげみに秋風ぞふく

(現代語訳:武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖の露(涙)は払うことのできないことよ。)

〔寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。
折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき〕(『後鳥羽院御口伝』)

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

藤原信実(ふじわらののぶざね) 治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nobuzane.html

藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。

寂蓮(じゃくれん) 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。
官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。
歌人としては出家以前から活動が見られ、仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、同年の住吉社歌合などに出詠。出家後は治承二年(1178)の別雷社歌合、同三年の右大臣兼実歌合に参加した。また文治元年(1185)頃の無題百首、同二年西行勧進の二見浦百首、同三年の殷富門院大輔百首、同年の句題百首、建久元年(1190)の花月百首、同二年の十題百首など、多くの百首歌に参加し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の六百番歌合では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、正治二年初度百首・仙洞十人歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合・院三度百首(千五百番歌合)などに出詠。建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。勅撰入集は計百十六首。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その二)

三十六歌仙.jpg

鈴木其一筆「三十六歌仙図」一幅 一九〇・〇×七〇・〇㎝ 出光美術館蔵 →A図

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酒井抱一筆「三十六歌仙図屏風」二曲一双 一六四・五×一八〇・〇㎝ ブライスコレクション(心遠館コレクション)→B図(下記のA図(歌仙名入り)と下記のメモ番号に一致)

三十六歌仙二.jpg

A図(歌人名入り)
http://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/07/06/200000

(藤原公任撰「三十六歌仙」)・(藤原公任撰「三十六歌仙」右方・左方)・(「百人一首)
 のメモ(A図=歌人名・B図番号と一致、「左・右」は「歌合」番号、「百」=『百人一首』)

  女流歌人(5)
28 伊勢:裳だけなので袖の色数が少ない、右手を顔に   右二 → 百19
15 小野小町:裳唐衣。顔を最も隠しぎみ。額に手を当てる 右六 → 百 9
36 斎宮女御:几帳に隠れる               左一〇
6 小大君:裳唐衣で左向き               左一六
33 中務:裳唐衣で右手に扇、もしくは、顔が下向き    右一八
 
  僧侶(2) 
27 僧正遍昭:赤黄色の法衣で右上を向く         右四 → 百12
12 素性法師:画面左向き                左五 → 百21

  武官(4)
2 在原業平:青衣で矢を背負い右手を顎          左四 → 百17
19 藤原高光:赤衣で矢を背負う             右八
9 壬生忠岑:黒衣か白衣。片膝付き足裏を見せた背姿    右九 → 百30
34 藤原敏行:黒衣の武官姿、文官姿の時は右手を顔に   左一二→ 百18 

  翁(5)
7 柿本人麻呂:腕を開き、くつろいだ姿勢で画面左上を向く  左一 →百3
23 山部赤人:目尻に皺。狩衣で画面右を向き両手を膝    右三 →百4
11 猿丸太夫:黒袍か狩衣で画面左向きの横顔        左六 →百5
22 源順:白狩衣か赤袍で画面右向きの横顔        右一三
24 坂上是則:立てた笏を右手で押さえ画面右を振返る     左一五 →百31

  文官(20)
  直衣・狩衣(9)
35 源重之:正面向き。左膝を立て扇を持った左手で頬杖     右一一
30 源信明:左手で頬杖をつき画面右方向に体を横に傾けて思案顔 右一二
5 藤原清正:画面右を振返る 左一三
18 藤原興風:左膝を立て手を顎に。衣冠束帯の時は左向きの横顔 左一四 →百34
17 清原元輔:赤衣もしくは画面右上を見て右手の笏を肩にかつぐ 右一四 →百42
13 藤原元真:太め。右もしくは右上を向いた横顔で萎烏帽子が前に倒れる 右一五
20 藤原仲文:右を向いた横顔で萎烏帽子が後に倒れる          右一六
14 壬生忠見:丸顔、右手に扇 右一七 →百41
8 平兼盛:太め。㉕と比べてより丸顔で体を傾ける        左一八 →百40
  衣冠束帯(11)
21 紀貫之:立てた笏を左手で押さえる             右一 →百35
4 凡河内躬恒:笏を持つ左手を顎に左膝を立てて振返る     左二 →百29
16 大伴家持:右手に笏を持ち、画面右を振返る         左三 →百 6
32 紀友則:両手を腹の前で組んで目をつぶる          右五 →百33
3 藤原兼輔:右手笏を持ち顔の前に立てる            左七 →百27
31 藤原朝忠:瓜実顔もしくは太めで笏を持つ横顔        右七 →百44
1 藤原敦忠:手をかざして画面右を振返る          左八 →百43
10 源公忠:立てた笏を右手で押さえる              左九
25 大中臣頼基:大きく太めの体。画面右向きで持ち物なし      右一〇
29 源宗于:画面左向きで丸顔                   左一一 →百28
18 大中臣能宣:画面左向き。もしくは、笏を両手で構える     左一七 → 百49

(狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」、撰者=藤原基家原案・後鳥羽院撰? ※=下記と一致

左一 ※後鳥羽院、右一※ 式子内親王、左二※土御門院、右二※俊成卿女、左三※順徳院、右三 ※源通光、左四※ 仁和寺宮(道助法親王)、右四 前大納言忠良(粟田口忠良)、左五 後後法性寺入道前関白太政大臣(藤原兼実)、右五※ 土御門内大臣(源通親)、左六※後京極摂政太政大臣良経(九条良経)、右六 前大僧正慈鎮、左七※ 西園寺入道前太政大臣(西園寺公経) 右七※ 右衛門督通具(源通具)、左八 後徳大寺左大臣(藤原実定)、右八 藤原清輔朝臣、左九 権大納言其家(藤原基家)、右九 宜秋門院丹後、左一〇※ 前中納言定家(藤原定家)、右一〇※従二位家隆(藤原家隆)、左一一※参議雅経(藤原雅経・飛鳥井雅経)、右一一 二條院讃岐、左一二※ 前大納言為家(藤原為家)、右一二 藤原隆祐朝臣、左一三
※藤原有家朝臣、右一三※ 源具親朝臣、左一四※ 宮内卿、右一四※藤原秀能、左一五 殷冨門院大輔、右一五 小侍従、左一六※ 信実朝臣、右一六 寂蓮法師、左一七※源家長、右一七 俊恵法師、左一八 皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)、右方一八西行法師

(「新三十六歌仙」撰者?)※=上記と一致

※後鳥羽院、※土御門院、※順徳院、後嵯峨院、雅成親王、宗尊親王、※源通光、※式子内親王、※九条良経、九条道家、※西園寺公経、※道助親王、西園寺実氏、源実朝、※藤原基家、九条家良、慈円、行意、※源通具、※藤原定家、八条院高倉、※俊成卿女、藤原光俊、藻壁門院少将、※藤原為家、※飛鳥井雅経、※藤原家隆、藤原知家、※宮内卿、※藤原有家、※藤原信実、※源具親、※源家長、鴨長明、※藤原隆祐、※藤原秀能。

(「女房三十六人歌合」撰者?)※=三十六歌仙 ※※=新三十六歌仙

※小野小町、※伊勢、※中務、※斎宮女御、右近、右大将道綱母、馬内侍、赤染衛門、和泉式部、三条院女御蔵人左近、紫式部、小式部内侍、伊勢大輔、清少納言、大弐三位、高内侍、一宮紀伊、相模、※※宮内卿、周防内侍、※※俊成卿女、待賢門院堀河、※※宜秋門院丹後、嘉陽門院越前、※※二条院讃岐、※※小侍従、後鳥羽院下野、弁内侍、少将内侍、※※殷富門院大輔、土御門院小宰相、八条院高倉、後嵯峨院中納言典侍、式乾門院御匣、藻壁門院少将。

(「中古三十六歌仙」=藤原範兼撰「後六々撰」)

和泉式部、相模、恵慶法師、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔、曾禰好忠、道命阿闍梨、藤原実方、藤原道信、平定文、清原深養父、大江嘉言、源道済、藤原道雅、増基法師、藤原公任、大江千里、在原元方、大中臣輔親、藤原高遠、馬内侍、藤原義孝、紫式部、藤原道綱母、藤原長能、兼賢王、上東門院中将、藤原定頼、在原棟梁、文屋康秀、藤原忠房、菅原輔昭、大江匡衡、安法法師、清少納言。

(集外三十六歌仙)

左方
1平常縁 2津守国豊 3浄通尼 4柴屋宗長 5月村斎宗碩 6永閑 7釈正徹 8釈正広 9耕閑斎兼載 10太田持資 11三好長慶 12宗羪 13伊達政宗 14兼与 15里見玄陳 16佐川田昌俊 17尚証 18木下長嘯子
右方
1種玉庵宗祇 2心敬 3基佐 4牡丹花肖柏 5蜷川親当 6安達冬康 7紹巴 8宗牧 9細川玄旨 10心前 11毛利元就 12北条氏康 13武田信玄 14北条氏政 15今川氏真 16昌叱 17小堀政一 18松永貞徳
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