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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十七) [三十六歌仙]

(その十七)家永朝臣(源家永)と俊恵法師

源家永.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410

俊恵.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・俊恵法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009428

(バーチャル歌合)

左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html

 春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行

右方十七・俊恵法師

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010709000.html

 故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉

判詞周辺(宗偽)

 「源家永」(?-1234))と「俊恵法師」(1113-?)との番いは全くの意表を突くものである。この俊恵法師は、『方丈記』の作者として名高い「鴨長明」の歌道の師として長明の歌論書『無名抄』に頻繁に登場する。
 時代史的には、「後鳥羽院・定家・家隆」時代よりも、その一昔前の「藤原俊成」(1114-1204))・「西行法師」(1118~1190)時代の歌人ということになろう。
 一方の家永は、「建仁元年(1201)八月には和歌所開闔(かいこう)となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果し」、「建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去」と、その生涯は、後鳥羽院の側近中の側近ということになる。
 その家永の『家永日記』に、鴨長明について、「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず」と、後鳥羽院(二十二歳)に「和歌所寄人(役人)」に抜擢された当時の長明(四十七歳)のことについて好意的に記している。
 しかし、長明は地下の一社人(鴨神社の禰宜の出)で、後鳥羽院に見出された歌人であっても、宮中の歌会などでも他の寄人とは同席は出来ず、また、禰宜の途も一族の反対で叶わず、元久元年(一二〇四)、五十歳の頃、大原へ隠遁・出家(法名=蓮胤)する。
 そして、『方丈記』が成ったのは、建暦二年(一二一二)、五十八歳、そして、建保四年(一二一六)に六十四歳で没した時に、後鳥羽院は、三十七歳で、「仙洞百首和歌」をまとめた年で、長明は、後鳥羽院の承久の乱も隠岐への配流などは知らないのである。
 ここで、後鳥羽院との関係からすると、どう見ても、「新三十六歌仙」は俊恵法師よりも鴨長明がより適役かと思うのだが、この「「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)の「新三十六歌仙」には、何故か、鴨長明の名前はない。
 しかし、『新編国歌大観』に搭載されている、一般に「新三十六歌仙」(「歌合」形式ではなく一歌仙に十首収載=「歌仙」方式)と称せられるものには、「俊恵法師」の名前はなく、「鴨長明」が、次の十首を以て、今に伝えられている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#35

鴨長明

ながむれば千千に物思ふ月に又わが身ひとつの峰の松かぜ
ながめてもあはれとおもへ大かたの空だにかなしあきの夕ぐれ
松島やしほくむあまの秋のそで月は物思ふならひのみかは
初瀬山かねのひびきにおどろけばすみける月の有明の空
夜もすがらひとりみ山の槙のはにくもるもすめる有明の月
たのめおく人もながらの山にだにさ夜更けぬればまつ風のこゑ
袖にしも月かかれとは契りおかずなみだはしるやうつの山越
見れば又いとどなみだのもろかづらいかにちぎりてかけはなれけむ
いかにせむつひの煙のすゑならで立ちのぼるべき道しなければ
住みわびぬいざさはこえんしでの山さてだに親のあとをふむやと

 そして、その「新三十六歌仙」(「歌仙(一歌仙十首)」方式)での、「源家永」の十首は、次のとおりである。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#34

前但馬守源家長朝臣

春雨に野沢の水はまさらねどもえ出づる草ぞふかくなり行く
あづさ弓いそべのうらの春の月あまのたくなはよるも引くなり
秋の月しのに宿かるかげたけてをざさが原に露ふけにけり
秋の月ながめながめて老が世も山のはちかくかたぶきにけり
紅葉葉の散りかひくもる夕しぐれいづれか道とあきのゆくらむ
今日も又しらぬ野原に行暮れていづれの山か月はいづらむ
きぬぎぬのつらきためしに誰なれて袖のわかれをゆるしそめけむ
いづくにもふりさけ今やみかさやまもろこしかけて出づる月かげ
もしほ草かくともつきじ君が代の数によみおく和かの浦なみ
生駒山よそになるをの沖に出でてめにもかからぬ峰のしら雲

 ここで、家永と俊恵法師との二首を見ていきたい。

  左 勝
春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行(家永)
  右
故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉(俊恵法師)
  判詞
 右の下の句の「月さへすまず」の「澄まず」・「住まず」の掛詞、いささか常套の感じで、左句の下の句の「もえいづるくさぞふかくなり行(く)」の「いづる」と「なりゆく」の、このリフレーン的な用言の動的な手法に一手をあげたい。

源家永の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

   春歌の中に
春雨に野沢の水はまさらねど萌え出づる草ぞふかくなりゆく(新後拾遺61)

【通釈】しとしとと降る春雨に、野沢の水が増水したようには見えないけれども、萌え出た草は、日に日に色が深くなってゆく。
【語釈】◇ふかく 「水」または「水まさる」と縁のある語。

俊恵法師の一首

   故郷月をよめる
古郷の板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな(千載1011)

【通釈】古びた里の板井の清水は水草が生えて、月さえ住まず、昔のような澄んだ光を宿さないようになってしまった。
【語釈】◇板井の清水 板で囲った井戸の清水。◇みくさゐて 水草が生えて。◇すまず 水面に映る月の光が「澄まず」、月の姿が水面に「住まず」、の掛詞。
【補記】『林葉集』の詞書は「故郷月」。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
我が門の板井の清水里遠み人しくまねば水草おひにけり

源家長(みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。歌人としても活躍し、正治二年(1200)の「院後度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合」、元久元年(1204)の「元久詩歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」などに出詠した。承久の変後は、妻の実家である近江国日吉に住むことが多く、ここでたびたび歌会を催した。また寛喜二年(1230)頃の「洞院摂政百首」、同四年の「日吉社撰歌合」などに参加。定家や家隆との親交は、晩年まで続いたようである。後鳥羽院に仕えた日々を回想し、院の威徳への賞讃を綴った日記『源家長日記』がある。新古今集初出。勅撰入集三十六首。新三十六歌仙。

俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。
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