SSブログ

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十八) [三十六歌仙]

(その十八)皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)と西行法師

釋阿二.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411

釋阿.jpg

(左方十八・皇太后宮大夫俊成)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019796

西行.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429

(バーチャル歌合)

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

判詞周辺(宗偽)

 「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」による「新三十六歌仙」の「歌合」は、第一回の「後鳥羽院対式子内親王」によりスタートして、その最終回(十八回)が、この「俊成(釈阿)対西行」を以て、そのゴール地点ということになる。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。姿殊にあらぬ躰なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり。西行は、おもしろくて、しかも心も殊に深く、ありがたくいできがたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の哥人とおぼゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき哥にあらず。不可説の上手なり。」」(後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』)

 この『後鳥羽院御口伝』の「(源)俊頼」(1055~1129)は『金葉集』の撰者で、次に出て来る「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」より、やや先の時代の歌人ということになる。この俊頼の子に、前回の「俊恵(1113~没年未詳)」が居り、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)・俊恵(1113~没年未詳)」が、同時代の歌人という位置づけとなってくる。
 そして、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」が、後鳥羽院歌壇、強いては、『新古今集』の基調をなすべき歌風と解することも出来よう。この二人について、「釈阿(俊成)は優艶で、心情に満ち、憐み深いところがり、ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知に富み、しかも歌心が誠に深く、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似難いようにも思われ、生れつきの歌人というべきであろう。ただし、初心の人が真似して学ぶような歌ではなく、言葉に尽くし難い名手なのである」というようなことであろう。
 これは、後鳥羽院の「釈阿(俊成)・西行」観として夙に知られているものだが、もっと具体的なこととして、西行が出家をしたのは、保延六年(1140)、二十三歳の時、以降、歌僧としての七十三歳の生涯をおくる。一方の俊成が出家して釈阿になったのは、安元二年(1176)、六十三歳の時で、以降も、九十一年の宮廷歌人の生涯を全うしている。
 西行が「生得の歌人」というのは、西行が若くして北面の武士(武官)も家族をも放下し、謂わば、「自由人・西行」として、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「褻(ケ)=私的空間」での
「歌は禅定の修業なり」(『三五記』)の、その終生の詠歌信条と深く関わりを有するものであろう。
 それに対して、釈阿(俊成)は、藤原道長の六男・正二位権代納言・長家を祖とする「御子左家」の総帥(次男・定家、甥=猶子・寂蓮、孫娘・俊成女など)として、謂わば、時の「宮廷歌人第一人者・俊成(釈阿)」での、終始、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「晴(ハレ)=公的空間」で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」(『六百番歌合』)との、その宮廷歌人としての信条を全うした歌人ということになろう。

「 『(建久四年)六百番歌合』冬・上
十三番 枯野  左勝 女房(後鳥羽院)
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
          右  隆信朝臣(藤原隆信)
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ
右方申云、「草の原」、聞きつかず。左申云、右歌、ふるめかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之條、頗るうたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝之上、「花の宴」の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌己宜、尤可為勝。(判者 入道従三位皇太后大夫藤原朝臣俊成(法名・釈阿))」(『日本古典文学大系74歌合集』所収「建久四年六百番歌合(抄)」)

許六離別の辞.jpg

芭蕉筆「許六離別の詞」(柿衞文庫蔵)縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝

「去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、今年五月の初め、深切に別れを惜しむ。その別れにのぞみて、一日草扉をたたいて、終日閑談をなす。その器(許六をさす)、画(ゑ)を好む。風雅(俳諧)を愛す。予こころみに問ふことあり。『画は何のために好むや』、『風雅のために好む』と言へり。『風雅は何のために愛すや』、『画のために愛す』と言へり。その学ぶこと二つにして、用をなすこと一なり。まことや、『君子は多能を恥づ』」といへれば、品二つにして用一なること、感ずべきにや。画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。
ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、『古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ』と、南山大師の筆の道にも見えたり、『風雅もまたこれに同じ』と言ひて、燈火をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ。元禄六孟夏末 風羅坊芭蕉 印 」
(芭蕉『風俗文選』所収「柴門の辞」・『韻塞』所収「許六離別の詞」)

 これは、芭蕉(1644~1694)が亡くなる一年前の元禄六年(一六九三・五十歳)に、江戸在勤の彦根藩士・森川許六が帰郷するに際して贈った「許六離別の詞」の全文である。
 ここに、芭蕉語録が満載している。

「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。」
「ただ、釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。」
「後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。」
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」
「風雅もまたこれに同じ。」

 これらの芭蕉語録の根底に、近世の放浪俳諧師・芭蕉の、中世の放浪歌人・西行への限りなく思慕が横たわっている。それは、天和三年(一六八三・四十歳)の、次の其角編『虚栗』跋文に表われている。

「侘(わび)と風雅のその生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗(むしくひ)也。」(其角編「虚栗」跋文)

 さらに、それは、貞享四年(一六八七・四十四歳)の、次の『笈の小文』(序文)と連なっている。

「百骸九竅の中に物有り、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(『笈の小文』序)

 ここから、冒頭の「許六離別の詞」に連なり、そこに、芭蕉は「風羅坊芭蕉」と署名するのである。この「風蘿坊」とは、西行の「浮かれいづる心」、そして、宗祇の臨終の吟の「浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

 浮かれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせむ(『山家集』)
 眺むる月に立ちぞ浮かるる(『宗祇終焉記』)

 そして、それは、「西行→宗祇→芭蕉」と連なる「漂泊の詩人」の系譜を物語るものであろう。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(『枯尾花』)

 この芭蕉の絶吟(病中の吟)の「枯野をかけ廻(めぐ)る」は、「枯野を廻(めぐ)る夢心」との二案が芭蕉の脳裏にあったことを、其角は書き取っている。この「夢心」は、西行、そして、宗祇の「浮かれいづる心・浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也」(『枯尾花』)

 そして、この芭蕉の「枯野」も、これまた、西行の、例えば、次の歌に連なっているように思われる。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る(『新古今集792』『山家集』)

「みちのくにへまかりける野中に、目にたつ様なる塚の侍りけるを問はせ侍りければ、『これなむ中将の塚と申す』と答へければ、『中将とはいづれの人ぞ』と問ひ侍りければ、『実方朝臣の事』となむ申しけるに、冬の事にて、霜枯の薄ほのぼの見えわたりて、折ふし物悲しう覚え侍りければ」(『新古今集792』「詞書(前書き)」)

   左 持
又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの(釈阿=俊成)
   右
をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも(西行法師)
   判詞
 左の歌の評の、「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長) の筆法でいくと、右の歌は、「めでたし、詞のめでたし、『やまのはごと』(山の端毎)は、「山端」と「山際」の「地と空」に、「しらくも」(「白雲」と「桜花」)が、あたかも、「大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし」を奏でているようで、いとおもしろし」と相成る。「敷島の道」の宣長が、左を「おもしろし」とするならば、右を「おもしろし」とし、「持」とす。

藤原俊成の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

  摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙(新古114)

【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。
【語釈】◇またや見む 再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問。◇交野 河内国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり。禁野があった。カタに難い意を掛ける。◇桜がり 花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。
【補記】伊勢物語八十二段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久六年(1195)二月、九条良経邸歌会での作。俊成八十二歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治六年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。
  野辺に鷹狩したる所
又もなほ人に見せばや御狩する交野の原の雪の朝を
【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、近代秀歌、詠歌大概、詠歌一体、和漢兼作集、歌枕名寄、三五記、井蛙抄、六華集、耕雲口伝
【鑑賞】「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長『美濃の家苞(いえづと)』)。
【主な派生歌】
またや見む明石の瀬戸のうき枕波間の月のあけがたの影(藤原忠良[正治初度百首])
忘れめや片野の花もかつ見ゆる淀のわたりの春の明けぼの(千種有功)

西行の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

  花の歌あまたよみけるに(七首)
おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲(64)[千載69]

【通釈】世はあまねく花の盛りになったのだ。どの山の端を見ても、白雲が掛かっている。
【補記】山桜を白雲になぞらえる旧来の趣向を用い、満目の花盛りの景をおおらかに謳い上げた。藤原俊成は西行より依頼された『御裳濯河歌合』の判詞に「うるはしく、丈高く見ゆ」と賞賛し、勝を付けている。
【他出】治承三十六人歌合、御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、定家八代抄、詠歌大概、御裳濯和歌集、詠歌一体、三百六十首和歌、井蛙抄、六華集、東野州聞書
【主な派生歌】
白雲とまがふ桜にさそはれて心ぞかかる山の端ごとに(藤原定家)
この頃は山の端ごとにゐる雲のたえぬや花のさかりなるらん(洞院公賢)

藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。

西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」としての入集であった。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝に謁した。
七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。文治四年(1188)俊成が撰し後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、十八首を採られた。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。
生涯を通じて歌壇とは距離を置き、当時盛行した歌合に参席した記録は皆無である。大原三寂と呼ばれた寂念・寂超・寂然とは若年の頃より交流があり、のち藤原俊成や慈円とも個人的に親交を持った。また、待賢門院堀河を始め待賢門院周辺の女房たちと親しく歌をやりとりしている。家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首の最多入集歌人。二十一代集に計二百六十七首を選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。

「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)。

「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。