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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その二) [三十六歌仙]

その二 土御門院と俊成卿女

永納・土御門院.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(土御門院)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056393

俊成女.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(俊成卿女)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056394

左方二 土御門院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010678000.html

 伊勢の海や(の)あまの原なる朝がすみ/空にしほやく煙とぞ見る

右方二 皇太后宮大夫俊成女
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010679000.html

 下もえにおもひ消えなん(む)煙だに/跡なき雲のはてぞかなしき(『新古』1081)

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-24

土御門院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方二・土御門院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009395

俊成女.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方二・皇太后宮大夫俊成女)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009413

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【永納のやまと絵作品に最も多いのが、和歌に纏わるものである。《三十六歌仙扁額》 (菅原神社蔵)、《三十六歌仙図》 、《新三十六歌仙図帖》(東京国立博物館蔵)などの本展出品作以外にも、三十六歌仙を扱ったものがいくつか知られている。ちなみに、《新三十六歌仙図帖》(東京国立博物館蔵)は、詞書が九条幸家との極め書きがついている。九条幸家は、山楽・山雪を遇し、寛文五年(1665)に没するまで、永納の作画活動を支えていた。】

「京狩野派」は、「山楽(1559-1651)→山雪(1590-1651)→永納(1631-1697)」と続く、永納は、その三代目となる。「江戸狩野派」は、「探幽(守信1602-1674)・尚信(1607-1650)・安信(1613-1685)」の三兄弟が、相次いで幕府の御用絵師として江戸に呼び寄せられ、江戸を本拠地とするに対して、「京狩野派」は、京都御所を中心として、九条家や上層町衆との繋がりを緊密にして行く。なかでも、九条家との関係は深く、上記の「京狩野のやまと絵について(日並彩乃)」によると、「新三十六歌仙図帖」(東京国立博物館蔵)の「詞書」は「九条幸家」の極め書きがついているということは、特記して置く必要があろう。

(参考)

京狩野派(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

豊臣秀吉没後、狩野家の大部分は徳川に仕え、徳川幕府を頼って江戸に下った。狩野宗家を含めてこの一派を江戸狩野という。しかし、秀吉の寵愛を受けた狩野山楽は、そのまま秀頼に仕えた。このため豊臣氏滅亡後、幕府から嫌疑を掛けられてしまうが、松花堂昭乗、九条幸家のとりなしによって恩赦を受け、そののちは九条家や本願寺の御用絵師として京都を中心に活躍する。 2代山雪以降、装飾的な桃山の画風を代々受け継ぎ公卿衆や寺社に仕えるも、幕府の手厚い庇護を受けた江戸狩野と比べるとその勢いに大きな隔たりがあった。また宮廷の御用を得ていたものの、土佐家、鶴沢家に続く家柄でその境遇には大きな格差があった。 3代永納は山雪の遺稿を元に日本初の画伝書『本朝画史』を著したが、これは室町時代以来の狩野家の正系を主張する目的もあったようだ。 4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。 流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。

九条幸家(くじょう ゆきいえ)(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

正室には豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)を娶り、武家とも良好な関係を持つ。なお、この高度に政治的な婚姻を仕立てたのは豊臣秀吉の未亡人の淀殿である[1]。さらに岳母・江が徳川秀忠の正室として再嫁したことから、徳川将軍家御台所の婿という姻戚関係となり、朝廷と幕府の仲介役としても貴重な存在となる。幕府の後援もあり、慶長13年(1608年)には藤氏長者となり関白職に任ぜられた。同18年(1613年)にいったん辞職するが、元和5年(1619年)再び関白となり、義妹・徳川和子の入内に尽力した。寛永8年(1631年)閏10月21日46歳の時に、名を幸家と改めた。また、東西両本願寺に娘を嫁がせており、両統の並立を後ろ盾とした。寛文5年(1665年)薨去。享年80。法名は惟忖院。

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

土御門院.jpg

俊成卿娘.jpg
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