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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その三) [三十六歌仙]

その三 順徳院と前内大臣(源通光)

永納・順徳院.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(順徳院)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056395

源通光.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前内大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056396

左方三 順徳院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010680000.html

 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html

 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてふく嵐かな(にほふはる風) (『雲葉集』)

右方三(源通光)の「雲のゐるとをやまひめの花かづら霞をかけてにほふはる風」の表記は、「新三十六歌仙図(土佐光成筆)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)のもの。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

【補記】出典の『雲葉集』は建長五年~六年頃藤原基家によって編まれた私撰和歌集。建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で催された歌合に出詠され、二番左勝。
(周辺メモ)
「新三十六歌仙図(土佐光成筆)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)では、「前内大臣」ではなく、「後久我前太政大臣」の表記であるが、源通光は、「順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ね、同六年十月、大納言に転じ、同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞している」。その後、「安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた」。これらのことから、「順徳院」(左方)に対する歌合としては、その号の「後久我太政大臣」よりも「前内大臣」(右方)の方が妥当との配慮によるものと思われる。

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-26

順徳院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396

源通光.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【たびたび永納の作品と関わっている後水尾法皇は、宮廷を中心とした文芸復興の機運のなか、近臣公家、禅僧による学問講や和歌、漢和聯句、立花の会を主催している。歌学にお いては智仁親王、三条西実条、烏丸光広、中院通村に師事し、寛永二年(1625)智仁親王から古今伝授を受けた。宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示していた。】

この「後水尾法王」について、『新潮日本美術文庫7狩野探幽』「年表(安村敏信)」に、次のような記述がある。
【一六六四 寛文四 六三歳(狩野探幽)
六月二日、後水尾法王に召され、堯恕(ぎょうじょ)法親王が尊顔を写した寿像の衣紋などを描く。この制作の折、法王より「筆峯大居士」の印を配慮する。(敏信補記:画家として最高位の法印に叙せられたとはいえ、所詮身分は画工であり、後水尾法王みずからのご尊顔を写すなどもつてのほかであった。『堯恕法親王日記』によると、まず堯恕が法王の尊顔を写し取り(これを紙形とよぶ)、それをもって清書して法王に持参したのがこの年の五月四日、その折法王より、衣紋などは探幽に描かせとの命が直々にあって、約一か月後探幽が召されることになった。このときも、法王は御簾のなかに顔を隠し、首から下の衣装だけを探幽に見せて写させた。)】

これらのことから、狩野探幽(当時、六十三歳)は、当時の朝廷の最大の実力者である後水尾法王から直接制作依頼などがあったことが明瞭になってくる。また、狩野永納(当時三十三歳)とも、「江戸狩野」と「京狩野」との垣根はなく、禁裏造営の関連制作などは協力関係にあったこともうかがえる。そして、天皇とか法王とかの肖像画の制作というのは、その実像を実写するということではなく、すべからく、「紙形」(側近が描いた下絵など)に基づいて行われるもので、絵師が勝手に変更を加えるなどということもタブーに属するものなのであろう。
そして、この「後水尾院と江戸幕府」との関係は、「後鳥羽院と鎌倉幕府」との関係に、その周囲の状況が酷似していて、後水尾院の「後鳥羽院四百年忌御追善」の歌も今に遺されている。これらのことと、「新三十六歌仙画帖」(探幽筆・永納筆)とは、陰に陽に結びついているような印象を深くする。

(参考)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gomizuno.html

後水尾法王(後水尾院 ごみずのおのいん(ごみのお-) 慶長元年~延宝八(1596-1680) 諱:政仁(ことひと))

後陽成天皇の第三皇子。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。後陽成院は弟八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(1617)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)。以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。慶安四年(1651)、落飾し法皇となる。延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
後鳥羽院四百年忌御追善に霞
こひつつも鳴くや四かへり百千鳥霞へだてて遠きむかしを

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

順徳院.jpg

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