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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その六) [三十六歌仙]

その六 後京極摂政前太政大臣と前大僧正慈鎮

藤原義経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後京極摂政前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056401

慈円.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大僧正慈鎮)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056402

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原義経二.jpg

慈円二.jpg

(参考)

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/e434372ddc09e9456ac1cde27516a770

【 藤原良経のこと(その一)
このところ一カ月ばかり佐竹本「三十六歌仙絵巻」詞書・和歌の執筆者、藤原良経についてなぜかこだわり続けている。小倉百人一首の一人、後京極摂政前太政大臣(1169~1206・37歳で没)のことである。
 関心を持ち始めたのは昨年、秋田市建都四百年事業の一環として佐竹本「三十六歌仙絵巻」についての講演や絵巻の展示が開催されたことである。
 確か20数年前NHKで絵巻が切断されたエピソードが放映され、それを見た記憶がある。しかし大正時代のことであり、秋田にあまり関係がないこととしていつの間にか忘れていたのだ。
 それが身近に感じられたのは明治・大正時代活躍した秋田の画人土屋秀禾(1867~1929・62歳で没)が制作した模写の版画絵巻を秋田市在住の斉藤真造氏が所有されていてそれを見る機会があったことである。
 本物は鎌倉時代の制作とされ美術価値は高いとされるが色はかすれ当時の色彩ではなくなっている。秀禾の作品では制作当時を再現、八百年前の鮮やかな世界に誘ってくれて、しばし感動の時間を過ごしたことだった。
 その絵巻を眺めているうち、何ゆえ制作されたのだろう。誰が何の為に、と次第、次第に疑問が自分の心にこびりついて離れないようになってきたのである。
 まず当時の時代背景を知りたいと思った。学校時代での記憶だけでは覚束無い。図書館より「日本の歴史」網野善彦他編集シリーズより(頼朝と天下草創)(道長と宮廷社会)(武士の成長と院政)、「日本の時代史」シリーズ(京・鎌倉の王権)を借受し読破した。
 また、巻末にある鎌倉時代の年表をコピーし継ぎ張りにして分かりやすく一枚ものにしたり、手持ちの最新国語便覧(浜島書店出版)から藤原氏の系図、律令官制など関係する箇所をコピーするなど史実の基本情報を集めたりした。
 折りからNHK大河ドラマ「源義経」が放映されている。これらの史実と組み合わすと概略、次のようなことが分る。
 6月5日第22週で平家は西国へ都落ちするのが決まった。やがて平家(鶴見辰吾の宗盛等)は義経(滝沢秀明)によって追討されるがそのとき義経は27歳。良経はその時17歳で従三位となり公卿に列したとある。この時代、二人の「よしつね」がいたのだ。
 また、この年、良経の父兼実は頼朝(中井貴一)の力を背景に義経追討の宣旨後、義経与党の公卿を解官、翌年摂政の地位を獲得したこと。
 ちなみに義経は平家を壇ノ浦で攻め滅ぼしてから自分が追討されることになるのはわずか八カ月後のことである。三年後の30歳で泰衝(渡辺いっけい)に討たれることになる。この時、良経は20歳。
 良経21歳の時、頼朝の姪、京都守護一条能保の女を娶ったこと。また後年、この血縁関係から鎌倉三代将軍実朝が暗殺された後、将軍となった藤原頼経は良経の孫にあたること。また、良経24歳の時、後白河法皇(平幹二朗)崩御。これに合わせたように頼朝は将軍となった。
 良経28歳の時、頼朝は良経の父兼実の政敵、土御門通親と通じ合うようになり皇子(後の土御門帝)誕生を機会に兼実は関白の座を追われることに、一門も同様の処遇となる。などなど、めまぐるしい。
 大河ドラマ「源義経」の別の側面のドラマを知り、史実と重なり合い立体的につながって、さらに興味深くなってくる。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7?fm=entry_awp_sleep

 藤原良経のこと(二) 
 良経37歳の死に様は衝撃的なものだった。それは現代の詞華集というべき講談社学術文庫「現代の短歌」(1992/6/10発行)に載っている歌人の一人、塚本邦雄氏(1922~)の評論「藤原良経」(昭和50年6月20日初出)の一節を読んでいた時だった。
 次にその一文を記す。氏の名文と共にその衝撃を味わって頂きたい。
 「良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。」
  *()内及び段落は筆者。塚本邦雄全集第14集586頁より
 この文を読んで良経の死に様の衝撃さもさることながら、この曲水の宴に「三十六歌仙絵巻」を披露するはずではなかったか、そんな想像を膨らます。
 当時は和歌・絵巻などの文化は政治権力、権威の象徴でもあったから、政敵にとって暗殺するにたる十分な要因になると思うのである。
(*申し訳ありませんが以下追加します)
 良経の死は九条流藤原家にとって大きな痛手であった。
 良経の父、兼実の嘆きはいかばかりであったか。長男を22歳で失っているから尚更であったろう。兼実は良経の死から翌年、58歳で亡くなっている。
 その時、良経の長男道家は13歳、摂関の地位についたのは15年後のことであった。 この間、いかに摂関の地位を望んでいたか道家の日記「玉蘂(ぎょくずい)」にのこされているそうだ。
 ある女房が道家が摂関の地位につく吉夢を二度(建歴二年二月七日と承久二年五月二十三日)見たので喜び、念誦し八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとある。 道家が摂関(摂政)の地位についたのは翌年、承久三年のことである。しかし間もなく退き(承久の変)、再び摂関(関白)になったのは七年後のことであった。
 これらの時期のどこかで、絵巻は下鴨神社に奉納されたのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/b02beda70188fefa63d92726744ae279

藤原良経のこと(三)

良経はどういう作品を残しているだろうか。

 小倉百人一首にある
  
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣かたしきひとりかも寝む

 は一般には知られているだろう。 

 しかし、余程の良経通でなければほかの歌は知られていないのではとの思い込みで前掲の塚本邦雄氏の著書「雪月花」雪の巻、良経百首の中から筆者好みの数首を選び作歌年齢と若干の註釈を氏の文章を参考にして付けてみた。

① 散る花も世を浮雲となりにけり
    むなしき空をうつす池水(「花月百首」花五十首22歳)

*「むなしき空」は「虚空」
 「世を浮雲」の「浮」は「憂き」の懸詞・「浮世」の倒置

② 明け方の深山の春の風さびて
    心くだけと散る櫻かな(「花月百首」花五十首22歳)

*「心くだけ」はさまざまに思ひ煩ふの意
 「さびて」は「寂びて」
       
③ ただ今ぞか(帰)へると告げてゆく雁を
    こころにおくる春の曙(「二夜百首」「帰雁」五首22歳)

④ 夢の世に月日はかなく明け暮れて
    または得がたき身をいかにせむ(「十題百首」「釈教」十首「人」23歳)

⑤ 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
    昔に霞む春の曙(「六百番歌合」春曙25歳)

*「見ぬ世」とは前世、未生以前の時間、「昔」とは生まれてから現在までの舊い日月、曙の春霞はこの昏い、不可視の空間にたなびき渡る。

⑥ 帰る雁今はの心有明に
    月と花との名こそ惜しけれ(「院初度百首」春二十首 新古今・春上32歳)
*今は限り、いざ帰る時と消えて行く雁、下には名残の桜、上には細り傾く晩春の月、見棄てられては花月の名にかかはろう。

⑦ おしなべて思ひしことのかずかずに
    なお色まさる秋の夕暮れ(「院初度百首」春二十首 新古今・秋上32歳)

*筆者寸評
 ①②③④⑤は二十歳前半での作である。それにしてはなんと憂いに充ちた歌なのであろう。すでに人生の無常観を知っている。

 ⑥⑦は三十歳前半の作である。すでに熟成の感あり。何度も口ずさみたくなる歌である。

 良経の家集「秋篠月清集」の作歌年齢をみるとは33歳までである。それ以降は摂政として政治に勤しんでいたのかもしれない。

 この原稿を書いていた日(6月10日)、朝刊を見ていたら度々引用させて頂いた塚本邦雄氏の訃報の記事が掲載されていた。
 氏と筆者の面識などは全くないのであるが藤原良経公を介して歴史の時空間での不思議な縁しを感じている。
 そこで良経公の歌一首と塚本氏の解説の一文を両者へ畏敬を込めて次に記して追悼の意を表したいと思う。

  のちの世をこの世に見るぞあはれなる
    おのが火串(ほぐし)を待つにつけても(「二夜百首」「照射(ともし)」五首)

*標題の「照射」歌中の「火串」共に夏の歌に頻出する狩猟風景である。山深く鹿を誘き寄せるために燃やす篝火や松明が「照射」であり、「火串」は松明をつけるための篝、長い柄を狩人が腰に差す。多くは五月闇の頃行はれる。鷹狩は厳冬、桜狩、紅葉狩の原義である猟は春と秋、照射を併せて四季の猟遊となる。火串待ちは出猟時の準備儀式、居並ぶ面面が順次火種を渡される光景であらう。闇の中にぼうつと浮かび上がる人の姿に、後の世すなはち黄泉の国の死者を連想するのか。煉国の景色を現世で垣間見るとならば、何と凄まじい著想だらう。しかもうつし身の人人が次に繰展げるのは殺戮である。命に関わる沈思を誘ふのも当然ではあらう。由来この題は少数の例外を除いて鹿によせる憐憫の情、あるいは単に季節感に寄せる感懐ばかり歌はれているが、この一首はそれを踏まへた上で本質的な問題に肉薄している。古歌の「照射」すべての中においても一、二を争ふ秀作だらう。 】
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