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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十三) [三十六歌仙]

その十三 大蔵卿有家と具親朝臣

藤原有家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(大蔵卿有家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056415

源具親.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(具親朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://image.tnm.jp/image/1024/C0056416.jpg

左方十三・藤原有家朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010700000.html

 あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる

右方十三・源具親朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010701000.html

 はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-13


有家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十三・藤原有家朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009406

具親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十三・源具親朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009424


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原有家二.jpg

源具親二.jpg

(周辺メモ)

 藤原有家と源具親との番いは、前回の「家隆=定家/隆祐=為家」のものに続けると、次のようになる。

藤原家隆(保元三~嘉禎三/1158~1237)→藤原隆祐(生没年未詳/1190以前~1251以後)
藤原定家(応保二~仁治二/1162~1241)→藤原為家(建久九~建治元/1198~1275)
藤原良経(嘉応元~建永元/(1169~1206)→藤原基家(建仁三~弘安三/1203~1280)
後鳥羽院(治承四~延応元/1180~1239)→順徳院(建久八~仁治三/1197~1242)
(続き)
藤原有家(久寿二~建保四/1155~1216)
源具親(生没年未詳/宮内卿の同母兄)

 藤原有家は、藤原定家・為家の「御子左家」に対抗する「六条藤家」の出で、その六条藤家を代表する『新古今集』の撰者の一人にもなっている。
 ここで、『新古今集』の入首数の多い歌人を序列すると、「西行・九四首、慈円・九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四六首、家隆四三首、寂蓮三五、後鳥羽院三四首、貫之三二首、俊成卿女二九首、人麿二三首、雅経二二首、経信・有家各一九首、通具・秀能各一七首、道真・好忠・実定・讃岐各一六首、伊勢・宮内卿各一五首」の順となってくる(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-13

 これを上の「家隆・定家・良経・後鳥羽院・有家・具親(関連)」と合体して、『新古今集』の入首数などを併記すると次のとおりとなる。

 藤原(九条)良経 → 七九首 (摂政太政大臣・『新古今集』「仮名序」執筆)
 藤原定家     → 四六首 (藤原定家朝臣・『新古今集』撰者) 
 藤原家隆     → 四三首 (藤原家隆朝臣・『新古今集』撰者)
 後鳥羽院    → 三四首 (太上天皇・『新古今和歌集』撰集下命・精選)
 有家      → 一九首 (藤原有家朝臣・『新古今集』撰者)
 (具親の妹・宮内卿)→ 一五首 
 具親        →  七首 (和歌所寄人)

(参考)源具親 七首

源師光の次男。母は巨勢宗成の娘 - 後白河院安芸と言われている。妻は姫の前で比企朝宗の娘。具親との再婚前は北条義時の正室。兄は泰光。官位は従四位下・左近衛少将。小野宮少将と号す。新三十六歌仙の1人。弘長二年(1262年)『三十六人大歌合』に出詠しているが、既に80余歳の高齢だったという。

   春歌上
 百首歌奉りし時
難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に
正治二年後鳥羽院後度百首

   春歌下
 百首歌めしし時春の歌
時しもあれたのむの雁のわかれさへ花散るころのみ吉野の里
正治二年後鳥羽院後度百首

   秋歌上
 千五百番歌合に
しきたへの枕のうへに過ぎぬなり露を尋ぬる秋のはつかぜ
千五百番歌合

   冬歌
 千五百番歌合に冬歌
今はまた散らでもながふ時雨かなひとりふりゆく庭の松風
千五百番歌合

 千五百番歌合に
今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月
千五百番歌合

 題知らず
晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月
千五百番歌合

   雑歌上
熊野にまうで侍りしついでに切目宿にて、海辺眺望といへる心をゝのこどもつかうまつりしに
ながめよと思はでしもやかへるらむ月待つ波の海人の釣舟
元久元年十二月三日切目王子歌会

(周辺メモ)

【『正治初度百首』からわずか一年後、後鳥羽院は建仁元年(一二〇一)七月、仙洞御所の二条殿の弘御所に、和歌所(和歌を掌る役所)を設置し、寄人(よりうど・職員)として、良経、通親、慈円、俊成、通具、有家、定家、家隆、雅経、具親、寂蓮の十一人を任命し、藤原隆信・鴨長明・藤原秀能ら三人を追加任命した。寄人には当時の歌壇の中心的なメンバーが任命され、六条家の旧派歌人たちは当然のごとく任命されていない。(中略)
(和歌所の性格)、
 設置された和歌所では、『新古今集』の編纂実務が行われるとともに、頻繁に歌合、和歌会などが催された。(中略)『名月記』に図が描かれているが、和歌所には、後鳥羽院の座まである。公卿の座は母屋に、上皇の座は母屋の上手の御簾の中に常設されていた。殿上人の座は二間の落座敷に作られており、地下の座は平板敷で、はっきり分けられていた。寄人の秀能と長明は地下であった。 】(『新古今集 後鳥羽院と定家の時代(田渕句美子著)』)
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