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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十六) [三十六歌仙]

その十六 信実朝臣と家長朝臣

藤原信実.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056421

源家長.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(家長朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056422

左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html

 あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね

左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html

 春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行


(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-31

信実.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409

源家永.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原信実二.jpg

源家長二.jpg

(周辺メモ)藤原信実(ふじわらののぶざね)治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nobuzane.html

 藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/fujiwarano-nobuzane/fujiwarano-nobuzane.htm

 歌人としては、鎌倉時代初期の有力歌人が世を去った後の鎌倉時代中期歌壇において相対立する御子左派と反御子左派双方と親交を持ちうる存在であった。家集に宝治2年(1248年)ごろの編纂になると思われる『信実朝臣集』がある。勅撰集には130数種の入集を見る。その他『今物語』の作者といわれる。
 画家としての事跡は同一家系の他の画家と比べると多彩である。『古今著聞集』に記される後鳥羽院の「御幸御あらまし」を描いた絹絵3巻や、似絵を好んだ後堀河院の命により描いた北面や随身(ずいじん)の影、『高野日記』に記される「みなせ殿の四季の絵四巻」などについては伝えられる作品はない。
 しかし建保6年(1218年)8月、順徳天皇の中殿御会の様を、参列した人々の面貌に興味の中心を置きつつ描いた記録絵的な『中殿御会図』は模本が現存する。また承久の乱後、隠岐配流となる直前に信実に描かせ七条院へ進ぜられたと『吾妻鏡』などの伝える「後鳥羽院像」は水無瀬神宮に現存する画像(国宝)にあたる可能性が非常に高いし、宝治元年の院随身を描いた『随身庭騎絵巻』(大倉文化財団蔵、国宝)の一部を信実筆とする説がある。

九条大納言撰三十六歌仙絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/kujyou-rokkasen/kujyou-rokkasen.htm

似絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/nisee/nisee.htm

歌仙絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/kasen-e/kasen-e.htm

肖像画

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/shouzou-ga/shouzou-ga.htm

(周辺メモ)源家長( みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

 醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
 後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。

「秋の月しのに宿かる影たけて小笹が原に露ふけにけり」(新古425)
【通釈】秋の月は、びっしりと生える篠に宿を借りて、光をとどめている。やがて夜も更け月も高くなり、小笹原に置いた露は、いっそう深くなったのだった。

「今日はまた知らぬ野原に行き暮れぬいづれの山か月は出づらむ」(新古956)
【通釈】今日は人里に辿り着けるかと期待したのだが、またも知らない野原で日が暮れてしまった。このあたりでは、いったいどの山から月が昇るのだろうか。

「藻塩草(もしほぐさ)かくともつきじ君が代の数によみおく和歌の浦波」(新古741)
【通釈】詠草はいくら集めても尽きることはないでしょう。君が代は千年も万年も続く、その数に匹敵して、ひっきりなしに詠まれる和歌――和歌の浦に打ち寄せる波のように限りなく。
【語釈】◇和歌所の開闔(かいこう) 後鳥羽院が建仁元年(1201)に復興させた和歌所の事務官。◇藻塩草 塩を採るために焼く海藻。ここでは、勅撰集撰進のため集められた和歌の詠草のこと。◇かくともつきじ 藻塩草を掻き集めても尽きないように、詠草はいくら書いても尽きないだろう。◇和歌の浦波 和歌の浦は紀伊国の歌枕。玉津島神社がある。同社の祀る玉津島姫は衣通姫と同一視され、和歌の神として尊崇されるようになった。

(家永日記)「新人女流歌人の発掘」

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/cfeef2f371af2f10dad2e8adb571f517

【 これをうけ給つめて侍おりしも、したしき女房のもとにまきものゝ侍をとりてみれば、女の手にて歌をかきたり。これをたづぬれば、七條院に候女房越前と申人なりときゝて、このうたをとりて持て參りたれば、あしからずやおぼしめしけん、行衞たづねよとおほせらるれば、まかりいでてたづぬるに、大中臣公親が女なり。さるは重代の人なりときゝて此よしを申す。範光朝臣うけ給て、くるまむかへにつかはす。いまは候めり。その歌のおくに侍し
 さぞなげに是もよしなきすさみ哉
      だれかあはれをかけてしのばん
これを御覽じいてゝごとに御めとゞめさせ給う。この歌の心を題にておの/\歌よめとおほせられて、おまへにさぶらふ人々よみあへり。いづれをさしてしるすべうもなかりしかば、かきとゞめず。この女房を心みんとおぼしめして、めしいだして秋のをはりの事にて侍しに、此比のうたよめとおほせられたりけるに、あらしをわくるさほしかのこゑなど聞えしはそのおりのとぞ。
宮内卿殿もうちつゞき參られ侍き。師光入道のむすめなり。家かぜたえずことにすぐれたるよし聞へ侍。そのゝち三位入道のむすめ歌たてまつりなどせらる。ふたい(ば)よりよのまじらひもむもれてすぎ給ひけんに、つねに歌めされなどし給を、わかきひたるさまをあはつけしと思給らんかし。されどうちあるべきことならねば、かきけちてやまんことをあたらしとおぼしめいたることばかりなり。又八條院に高倉殿と申人をはすなり。その人の歌とぞある人のかたり申ける。
 くもれかしながむるからに悲しきは
       月におぼゆる人のおもかげ
此歌きこしめして、それも歌たてまつりなどつねに侍。又七條院にこ大納言と申女房おはす。中納言宗綱卿むすめなり。しなたかき女房ははゞかりおもはるらん。されどちうだいの人はくるしからずとて、たづねいでさせ給う。中にも母はみかはの内侍なり。かた/"\の家の風いかでかむなしからん。おとこにも女はうにも、かくわかき歌よみおほくつどひて、ひるのほどは職事辨官參りこみて、萬きのまつり事共なめれば、よるぞ御うたあはせ和歌會よごとにはべる。こゝかしこのかくれにうちうめきつゝ、おのがじゝあんあへり。 】

(家永日記)「女流歌人の衰退」

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/36ea7ce34024a36c252431bb9e0d7b40

【此ころ世に女の歌よみすくなしなどつねになげかせ給。むかしより歌よみときこゆる女房せうせう侍。いんぶ門院の大輔も一とせうせにき。又さぬき、みかはの内侍、丹後、少将など申人々も今はみなよはひたけてひとへに後の世のいとなみしてこゝかしこの庵にすみなれて歌のこともすたれはてたればときどき歌めされなどするも念仏のさまたげなりとぞうちうちなげきあへるときゝ侍。此の人々のほかは又さらに聞こえず。心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なればさる人も侍らむ。又みにはぢてつゝしむ人も多かればなにのたよりにかきこゆべき。されば女の歌よみはこの古人たちなからむ後は更にたえなむずる事をくちをしき事にたびたび仰せらる。
※いんぶ門院の大輔=殷富門院大輔
※さぬき=二条院讃岐。源頼政女。正治二年後鳥羽院初度百首で久しぶりに出詠し、内裏百番歌合1216年(建保4年)が最後の出詠。
※みかはの内侍=二条院三河内侍。寂念女。七条院大納言の母。
※丹後=宜秋門院丹後。源頼行女。讃岐とは従姉妹。異浦の丹後。後鳥羽院御口伝では「故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たびたび申されき」。正治二年後鳥羽院初度百首に出詠し、住吉社歌合1208年(承元2年)まで出詠。
※少将=小侍従ではないかと言われる。正治二年後鳥羽院初度百首出詠。 】
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