SSブログ

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その一) [光悦・宗達・素庵]

その一 「序」(その一)

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

【本阿弥光悦の書蹟の代表作ということでも従来から著名な1巻。装飾芸術家としての俵屋宗達(活躍期、1602−1635)の真骨頂がみごとに発揮された作品である。描かれているモチーフはただ鶴のみに限られる。長大な巻物の冒頭から繰り広げられる鶴の群れは、一様に金と銀の泥で表現される。あるいは飛翔し、あるいは羽を休めて寄りつどう鶴の姿態は、単純そのものの筆使いで捉えられていながら、そのシルエットの美しさは比類がない。料紙装飾という限定された課題のなかで、ぎりぎりまで個性を表出し得た宗達の手腕を見てとることができよう。】

(周辺メモ)

一 「三十六歌仙」とは、一般的には、藤原公任(966-1041)による歌合形式の秀歌撰『三十六人撰』(以下略称「撰」)にもとづく三十六人の歌人を指す。その歌人は、「柿本人麻呂(上段①)=紀貫之(下段①)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・上段②)=伊勢(下段②)、大伴家持(上段③)=山部赤人(下段③)、在原業平(上段④)=僧正遍昭(下段④)、素性法師(上段⑤)=紀友則(下段⑤)、猿丸大夫(上段⑥)=小野小町(下段⑥)、藤原兼輔(上段⑦)=藤原朝忠(下段⑦)、藤原敦忠(上段⑧)=藤原高光(下段⑧)、源公忠(上段⑨)=壬生忠岑(下段⑨)、斎宮女御(上段⑩)=大中臣頼基(下段⑩)、藤原敏行(上段⑪)=源重之(下段⑪)、源宗于(むねゆき・上段)=源信明(下段)、藤原清正(きよただ・上段)=源順(下段)、藤原興風(上段)=清原元輔(下段)、坂上是則(上段)=藤原元真(もとざね・下段)、小大君(上段)=藤原仲文(下段)、大中臣能宣(上段)=壬生忠見(下段)、平兼盛(上段)=中務(なかつかさ・下段)」である。 この三十六人の歌人のうち、十首六人、三首三十人の、百五十首を選出している。

二 藤原俊成(1114-1204)は、この公任の『三十六人撰』に選入された歌人三十六人について、各三首を選出した歌仙歌合形式の『俊成三十六人歌合』(以下略称「俊」)を編み、そこで公任の『三十六人撰』の歌四十三首は温存し、六十五首は自己の好みにかなう歌に入れ替えをしている。また、この『俊成三十六人歌合』では、公任の『三十六人撰』の上段の歌人は「左」に、その下段の歌人は「右」に配置されている。

三 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」では、『俊成三十六人歌合』を基調として、その三十六人の各歌人の三首のうちの一首を選出しているが、歌人(例・柿本人麻呂)によっては、公任の『三十六人撰』から選出されているものがある。これは、下記のアドレスの「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」によると、公任の『三十六人撰』や『俊成三十六人歌合』をテキストとしたのではなく、別の「三十六人歌合」(藤原俊成撰・近衛尚通増補)をテキストにしていると指摘している。
 また、その「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」では、この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」の書は、本阿弥光悦の書ではなく、「角倉素庵」の書であるとの異説を展開している。

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/20131.pdf

四 この「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」は、『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』のなかで、その全貌の一端を知ることが出来る。
その展開の口火になったものが、『没後三七〇年記念 角倉素庵---光悦・宗達・尾張徳川義直との交友関係の中で(大和文華館<林進>編・2002年)』で、これらに対し、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』で、「最近では、嵯峨本のみならず、これまで光悦と考えられてきた多くの筆跡を素庵にアトリビュート(属性を書き換える)しようとする展覧会も企画された」として、その「アトリビュート」にブレーキを掛けることを意図してものと、その『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』を解することも出来よう。

五 その『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』の、その末尾の「鼎談 江戸文化をコーディネートした光悦(渡辺憲司・田中優子・河野元昭)」の、この「鼎談」の「鼎」(古代中国で使われた三本足の鉄のかま)が色々な示唆を与えてくれる。その鼎の「三本足」に因んで、「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」の探索を指向したい。
 この『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』は、今に続く『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』と『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』と相対立している。

六 ここで、上記の『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』の目次は次のようなものである。

Ⅰ 序論  「光悦私論」(河野元昭稿)
Ⅱ 光悦とその時代  
  「光悦と日蓮宗」(河内将芳稿)
   「近世初頭の京都と光悦村」(河内将芳稿)
    「光悦と寛永の文化サロン」(谷端昭夫稿)
    「光悦と蒔絵師五十嵐家」(内田篤呉稿)
   「光悦と能-能役者との交流」(天野文雄稿)
   「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(岡佳子稿)
    「光悦と茶の湯」(谷端昭夫稿)
 Ⅲ 光悦の芸術  
    「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開」(玉蟲敏子稿)
    「光悦の書」(根本知稿)
    「光悦蒔絵」(内田篤呉稿)
   「光悦の陶芸(岡佳子稿)
 Ⅳ 光悦その後  
    「フリーアと光悦-光悦茶碗の蒐集」(ルイーズ・A・コート稿)

七 この「目次」の「Ⅱ 光悦とその時代」に「光悦と嵯峨本(光悦と素庵)」の一項目を入れ、そして、この「Ⅲ 光悦の芸術」の「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」は、『日本美術のことばと絵((玉蟲敏子著・角川選書・2016年)』を経て、次のステップを期待しての、「和歌・書・画の三重奏の道―光悦・宗達・素庵らの和歌巻の展開」のようなネーミング、言わば「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」の、そんな周辺探索を指向することとしたい。 

八 この「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の組み合わせは、小説家(フランス文学者)・辻邦生著『嵯峨野明月記(新潮社・1971)』の「一の声(光悦)」「二の声(宗達)「三の声(素庵)」などが念頭にあることは言うまでもない。

「一の声(光悦)」=私が角倉与一(素庵)から私の書に対する賛辞でみちた手紙を受け取ったのもその頃のことだ。私は与一とはすでに十五年ほど前、角倉了以殿と会った折、一度会っているはずだが、むろんまだ、十二、三の少年だったわけで、直接な面識はほとんどないに等しかった。

「二の声(宗達)」=本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおのれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕の町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。

「三の声(素庵)」=わたしは史記を上梓したあと、観世黒雪(徳川家と親しい能役者・九世観世大夫)の校閲をたのんで、華麗な謡本に熱中していた。その頃は、本阿弥(光悦)がすでに装幀、体裁、版下を引きうけ、細心な指示をあたえていた。史記で用いた雲母摺りの唐草模様を、さらに華やかにするため、表紙の色を変え、題簽をあれこれと工夫した。

九 この辻邦生の『嵯峨野明月記(新潮社・1971)』が刊行された翌年(1972)、東京国立博物館創立100年を記念して、「創立百年記念特別展 琳派」が開催され、その図録が『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』が刊行されている。

 この図録(出品目録)には、「1風神雷神図屏風~50伊勢物語色紙」(「宗達」関係)・「51色紙(ベルリン美術館蔵)~104『光流四墨』」(「光悦・素庵・宗達・光広・嵯峨本」関係)・「105菊図屏風~120和歌巻」(「宗雪・相説・宗真」関係)・「121尾形宗謙草書巻~183乾山・芙蓉図扇面」(「宗謙・光琳・乾山」関係)・「184始興・耕作図~205宗理・禊図」(「始興・芦舟・光甫・何帛・芳中・宗理」関係)・「206抱一・夏秋草図屏風~240其一・菖蒲に蛾図」(「抱一・其一」関係)・「241光悦・舟橋蒔絵硯箱~259桜蒔絵螺鈿硯箱」(「光悦・光琳」関係)・「260光悦・黒楽茶碗~305乾山・色絵椿散文向付」(光悦・光甫・光琳・乾山)が収載され、「光悦・宗達・素庵・光琳・乾山・抱一・其一」関連のものとしては、その「琳派展関係略年表」と併せ、未だに、最もスタンダードな図録として、その意義はいささかも色褪せていない。

 しかし、ここには、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)は収載されていない。

 この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」が、陶芸家の文化勲章受章者・荒川豊蔵によって愛知県の旧家で発見されたのは昭和三十五年(一九六〇)の頃で(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』)、その後、京都国立博物館に寄託され、のち文化庁の所有を経て、京都国立博物館に配置換えされて、昭和五十二年(一九七七)六月に重要文化財に指定されている。

 この最初の 図版掲載は、林屋辰三郎ほか編『光悦』(第一法規出版、1964年)においてであるが、「創立百年記念特別展 琳派」が開催された昭和四十七年(一九七二)当時は、未だ展示するには時期尚早の状況であったのかも知れない。しかし、この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の先行作品のような下記の小品(参考A図・参考B図)が展示され、その作品解説は、次のとおりである。

短冊帖・千羽鶴.jpg

参考A図「四季草花下絵和歌短冊帖(千羽鶴)」一帖(山種美術館蔵)
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書) 紙本・金銀泥絵・彩色・墨書・短冊・画帖(1冊18枚のうち1枚) 37.6×5.9㎝
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/248875

【93「短冊帖・本阿弥光悦」一帖(山種美術館蔵)
  もと6曲1双の屏風に20枚貼り交ぜであったもので、現在は18枚が短冊帖に改装され、残る2枚は散佚した。金銀泥で描く装飾下絵は、桔梗に薄・波に千羽鶴・団菊・藤・つつじ・萩・朝顔ほかさまざまあり、いずれも構図に工夫が凝らされている。中に、胡粉を引いたものや金銀の砂子を撒いたものも散見する。とくに銀泥で描いた部分は墨付きの都合で、肉眼でも判然としない箇所があるが、その下絵を縫って見え隠れする豊潤な筆致がかえって立体感を生み出している。慶長年間の筆。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』)の「モノクロ図版」の解説 】

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252

【258 「群鶴蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)
 方形、削面、隅切の被蓋造で、身の左に水滴と硯を嵌め、右に筆置と刀子入を置いた形式は琳派特有のものである。総体を沃懸地に仕立て、蓋表から身の表にかけて、流水に5羽の鶴が飛翔する図を表している。水文は描割で簡単に表わし、その上に厚い鉛板を嵌めこんで鶴を配し、くちばしや脚には銅板を用いている。一見無造作で簡略化した表現のように見えるが、各材料の用法などには充分配慮がゆきとどいた優品の一つである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』) )の「モノクロ図版」の解説 】

十 そして、平成二十年(二〇〇八)に開催された「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)」になると、その図録には、「1-03俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆◎(重要文化財=◎)鶴下絵三十六和歌巻 京都国立博物館」として「P56・P57・P58」の三頁見開きで、この長大な絵巻物(「34.0×1356.0cm」)の全貌が収載されることとなる。
 さらに、「1-20本阿弥光悦筆『四季草花下絵新古今集和歌色紙帖』東京・五島美術館」・「1-22観世流謡本『藍染川・慶長十一年観世黒雪奥書』奈良・大和文華館」・「1-26光悦謡謡本(上製本)『盛久』東京・法政大学能楽研究所・法政大学鴻山文庫」などが収載され、
「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」探索の、その入り口は開放されているような、そんな思いを深くする。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。