SSブログ

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その六) [光悦・宗達・素庵]

その六 「A図とB-1図」(その一)

鶴下絵図和漢ーA図.jpg

(A図)「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」
柿本人丸(人麻呂) ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ(「撰」)

躬恒二.jpg

(B-1図)
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」「A図+B-1図」
凡河内躬恒   いづくとも春の光は分かなくに まだみ吉野の山は雪降る(「俊」
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

 いづくとも春のひかりはわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる(後撰19)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitune.html#VR

【通釈】どこでも春の光は分け隔てなく射すはずですのに、この吉野山ではまだ雪が降っております。
【補記】詞書の「延喜御時」は醍醐天皇代。「御厨子所(みづしどころ)」は天皇の御膳を供進したり節会での酒肴を調える所。そこに伺候していた頃、不遇の我が身を歎き、ある蔵人に陳情した歌。天皇の慈悲を春の光に、自らの境遇を雪降る吉野山に喩えている。後撰集は春歌とするが、内容からして述懐歌とするのが妥当。

躬恒・国会図書館.jpg

『三十六歌仙・上・凡河内躬恒([風俗絵巻図画刊行会)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967012/8

躬恒・宝物館.jpg

【狩野探幽画・青蓮院宮尊純親王書「三十六歌仙・凡河内躬恒」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

 この「狩野探幽画・青蓮院宮尊純親王書『三十六歌仙・凡河内躬恒』」の歌は、下記のものである。

住の江(すみよし)の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波(古今360)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitune.html#AT

【通釈】住の江の松を秋風が吹くにつれて、その松風の声に唱和するかのような沖の白波よ。
(初句を「すみよしの」として載せる本も少なくない。)
【鑑賞】「此の如きさはやかなる調(しらべ)は貫之にもなし。誠に古今の一人なり。(中略)扨(さて)此歌は、住吉のすべての景色をいはずして、中にも勝れて感ある所を取りたるなり。そは松風のさはやかなるに、浪の音のさらさら打合ふ処なり。又経信朝臣の『沖つ風ふきにけらしな住の江の松のしづ枝を洗ふ白浪』、是は景色を十分云負(いひおほ)せたるなり。されどさはやかならずして、感少し。歌は理(こと)わるものに非ず、調ぶるもの也といふは此事なり。(香川景樹『桂の下枝』)

【尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)- 承応2年5月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主177世に就任している。書に秀でていた。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(追記一)『鶴下絵和歌巻』のモチーフなど

【 右から左へと画面に時間の要素が生み出されるのは絵巻形式独特の約束事である。一般的に絵巻物は、この原則にしたがって、画面は右から左へと物語が進行する。宗達はこの画巻で、そうした見る側の前提を利用したうえで、驚くべき試みによって絵を動かすことに成功している。
画巻にしたがって少しずつ右から左へと視線を移動させていくと、まず水岸に遊ぶ鶴がゆっくりと首だけ下方に傾げるしぐさが感じられたかと思うと、突然画面上方から舞い降りてきた鶴が空中に旋回、そして上空から舞い降りて次第に高度を下げた鶴は波間すれすれを飛んで、いったん波に呑まれたかと思わせると、また勢いよく今度は大空に向かって舞い上がる。ここが前半のクライマックスとなる。後半は時間軸に逆らって岸辺に戻ってくる姿が見られたかと思うと、しばしの静寂が流れ、やや高い位置から波際の鶴たちを傍観するかのようなエピローグにふさわしいロングショトでおわっている。
鶴が動いているかのように見えるのは、複数の鶴を描きながら、それらが別々の鶴ではなく、あたかも「同じ」鶴の時間経過を示すかのように描かれているからにほかならない。こうしたアニメーション的な発想は、日本絵巻には古くからあったものだ。 】(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

 この『鶴下絵和歌巻』は、画面は右から左へと物語が進行する「絵巻物」形式を存分に発揮し、そして、それが現代のアニメーションに通ずる「超時代的な表現をなし得た」世界を現出しているというニュアンスは充分に首肯し得る。
 しかし、アニメーションの動画ならいざ知らず、この『鶴下絵和歌巻』の、絵巻物として「34.0×1356.0cm」の十三・五メートルに及ぶ長大ものになると、これを観賞する上で、どうしても「一区切り」をしながら見て行きたいという衝動が起きてくる。
 ここで、あらためて、下記の『鶴下絵和歌巻』(AからS)を見てみると、「連歌・俳諧」における「百韻」(百句から成る「連歌・俳諧」形式)の、「初折・二の折・三の折・名残の折」の、四場面の展開なども参考となろう。
 それを参考にすると、『鶴下絵和歌巻』の場面展開は、一場面=A~E、二場面=F~J、三場面=K~O、四場面=P~Sとなり、以下、この四場面を「一区切り」として見ていくことにしたい。

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

(追記二)『鶴下絵和歌巻』の「理(り)」と「調(しらべ)」など

上記の、「住の江(すみよし)の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波(躬恒)」で紹介した、「歌は理(こと)わるものに非ず、調ぶるもの也といふは此事なり。(香川景樹『桂の下枝』)」の、この「理」と「調」とは、『鶴下絵和歌巻』を観賞する上で、特に、「和歌」と「書」と「画」との三者の関係を観賞する上での一つの指標となろう。
 この香川景樹の「理と調」については、下記のアドレスの「香川景樹と仁斎学(名倉正博稿)」などで紹介されている。

http://toutetsu.gakkaisv.org/tgt/T20/158-176_T20_2003.pdf

 また、下記のアドレスの「中世和歌における『理』の一考察(村尾誠一稿)」などの論稿もある。

http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23503/1/acs040024.pdf

 ここでは、芭蕉俳論(『俳諧十論(各務支考著)』など)の「風姿(姿=具体的に表現された形象)と風情(情=作者の心の働き)」とを、その香川景樹の「理と調」とに置き換えて、「理=風姿=姿=形象」、そして、「調=風情=情=心」と捉え、「和歌=姿情一致の世界」とすると、「書=情先姿後の世界」、そして、「画=姿先情後の世界」との、それぞれの相互関係と、それぞれの鑑賞視点を据えるための、便宜的なもので、上記の論稿とは全く無関係のものである。
 その上で、『鶴下絵和歌巻』を、「理=風姿=姿=形象」と「調=風情=情=心」との観点から見ていくと、この「書」(光悦か素庵)が、「調(しらべ)」の「音楽」的で、この書を揮毫する人が、あたかも吟詠している、その声の調子や心の動きまで伝わってくる。
 それに比して、この「画」(宗達か)は、「理」の「鶴」の映像で、その映像(下絵)に心を注入するのは、この映像の作者の宗達ではなく、この和歌の「書」の揮毫者(光悦か素庵)の心の動きに全く依存しているという、主は「書」で、「画」は従であるという印象を深くする。
 これらのことに関連して、『光悦行状記』の、「画は似せよく、書は筆意(注・筆運の心)甚だむつかしく候故似調(ととの)ひ難く候由」という、次の光悦の「書画」観と深く結びついているような思いを深くする。

【上巻46段】光悦の書画観など(惣じて唐画・・・))

 惣じて唐画(注・中国画)または墨蹟(注・禅宗の高僧の書など)類流行類候故、段々値段上り候所、とかく画のかたよけいにて(注・絵画の方が多く)、墨蹟は稀に御座候。此段目利人と咄合候処、画は似せよく、書は筆意(注・筆運の心)甚だむつかしく候故似調(ととの)ひ難く候由。義政(注・足利義政)公御物(注・東山御物)の画の当時残(のこり)、所々に有之候内には、似せ物も随分有之候と承り候。さ候へば高直(注・高額)の物は心得なくては、うかと調ひ難きものと被存候。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。