SSブログ

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十二) [光悦・宗達・素庵]

(その二十二)K図『鶴下絵和歌巻』(18平兼盛)

鶴下絵和歌巻・K図.jpg

(大中臣能宣・J図の続き)
  御垣守り衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ(「俊」)
18 平兼盛 暮れて行く秋の形見に置くものは 我が元結の霜にぞありける(「撰」「俊」)
(釈文)暮て行秋濃形見尓を久も乃ハ我も登遊日濃しも尓曾有介類
紀貫之 白露の時雨もいたくもる山の 下葉残らず色づきにけり(「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  暮の秋、重之が消息(せうそこ)して侍りける返り事に
暮れてゆく秋の形見におくものは我が元結の霜にぞありける(拾遺214)

【通釈】暮れて去る秋が形見に残して行ったものは、私の元結についた霜――いや白髪であったよ。
【語釈】◇元結(もとゆひ) 髻(もとどり)を結い束ねる緒。◇霜 白髪を喩える。
【補記】拾遺集秋巻末。友人であった源重之の便りに答えた歌。この歌も『古来風躰抄』に引かれ「これこそあはれによめる歌に侍るめれ」と称されている。

平兼盛一.jpg

平兼盛/滋野井大納言季吉:狩野尚信/慶安元年(1648)
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  斎院の御屏風に、十二月つごもりの夜
かぞふればわが身につもる年月を送り迎ふとなにいそぐらむ(拾遺261)

【通釈】数えれば、またひと月、また一年と、我が身に積もる年月なのに、それを送り迎えると言って、人は何をこう急いでいるのだろうか。
【補記】大晦日の夜を主題とした斎院の屏風に添えた歌。斎院は誰を指すか不詳。

平兼盛二.jpg

『三十六歌仙』(平兼盛)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  天暦御時歌合
忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(拾遺622)

【通釈】知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったのだなあ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに。
【語釈】◇色にいでにけり 「色」は視覚的に認識可能なもの。ここでは顔色・表情などの意。◇物や思ふと 心配ごと・悩みごとでもあるのかと。「物」は漠然とした対象を指す。◇人のとふまで 「人」は人一般、世間の人、周囲の人。
【補記】天徳四年(960)三月三十日、村上天皇の内裏で開催された歌合、二十番右勝。左は壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか」。判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命ぜられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。そこで右の勝と決したという。この負けを苦にした忠見が病に罹りそのまま亡くなったとの話は名高いが、後世流布された虚事らしい(『沙石集』など)。

(追記) 宗達の「養源院障壁画」関連周辺(メモ)

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財

唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財

(周辺メモ)

一 養源院と浅井三姉妹(淀・お初・お江)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院とは、淀殿が1594年、父・浅井長政の供養のため21回忌に建てたお寺です(養源院とは長政の院号)。淀殿と言えば、浅井三姉妹の長女。浅井三姉妹とは、浅井長政と、戦国一の美女と謳われた織田信長の妹・お市の間に生まれた子供たちのこと。また淀殿は、秀吉の側室としても有名です。

 お江は秀吉の政略結婚に利用され、徳川家へと嫁ぎました。その後1615年、大阪の陣で淀殿(豊臣方)VSお江(徳川方)と敵対同士になった両姉妹。ここで淀殿は戦に負け、豊臣秀頼と共に自害したのです。淀殿享年47歳

 姉の淀を失ったお江は翌年の1616年、養源院にて戦没者の供養を営みました。養源院はその後1619年に落雷による火事で焼失し、1621年にお江が再興。その際、伏見城の遺構の一部を移築してきたことが、養源院の目玉ともなり次の項に出てくる「血天井」なのです。

 お江はいくつかの変遷をへて、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫をはじめ二男五女をもうけます。その中、五女として生まれた和子が、次期天皇を生むことになり、お江は大きな影響力を持つことに。その後1626年、江戸城西の丸にて死去。お江享年54歳でした。

 浅井三姉妹の中では最長命となるお初は、夫の京極高次を亡くして以降出家。その後姉と妹が敵同士となった際、両家の和解に奔走します。常高院と名乗り、晩年は京極家の江戸屋敷で静かに息を引き取りました。享年64歳。

二 養源院の再興とその血天井

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院は一度消失し、お江が再興させます。その際、落城した伏見城を建材に使用しました。伏見城「中の御殿」から移築されたものが、養源院の本堂。そこで、上を見上げてください!黒々とした不気味な模様が、見て取れるはず。これがかの有名な養源院の「血天井」です。実は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりと脂の浸みた板。これが天井に使用されたのでした。

 1600年、石田三成と激しく争っていた徳川家康は、会津の上杉討伐に向かうため、伏見城を鳥居元忠に守らせました。留守の伏見城を守らせるというのは、石田三成をおびき寄せる作戦でもあったのです。大阪にいる三成が、家康の伏見城留守を聞けば、まず襲ってくるに違いありません。最小のリスクで三成側の足を止め、なおかつ 敵兵を少しでも減らしたい。この捨て駒役として、元忠は抜擢されたのです。

 「上杉家は強敵なれば、一兵でも多く召し具してゆきなされ。伏見城はわれひとりで事足りまする」と言って、元忠はたった1800名の兵で伏見城を死守。総勢約4万の兵が城を取り囲み、元忠も8月1日遂に力尽きます。380名以上が討死に、または自刃。しかも遺骸は関ヶ原の戦いが終わる約2ヶ月もの間、伏見城に放置されていました。そのおびただしい血痕や脂によって顔や鎧の跡が染み付き、いくら拭いても落ちなかったといいます。足で踏むなど忍びないと思ったのでしょう。家康は彼らの魂を成仏させるために、あえて養源院の天井にこの板を使用しました。

三 養源院の「菊の御紋・三つ葉葵・桐」

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院は浅井家一族の供養として始まり、建てたのが秀吉の側室淀殿。その意志を継ぎ、徳川家に嫁いだお江が、豊臣家の供養も行ないます。徳川家に嫁いだお江は後に、後水尾天皇の中宮として入内することになる和子(まさこ)を生みましたから、天皇家ともかかわりを持つことになるのです。

 養源院の本堂に目を移してみましょう。そこには秀忠とお江の位牌が安置されています。さらに兄の将軍・家光の位牌も安置。こうして和子は、本堂を将軍家の位牌所として定めました。今も、徳川3代~14代将軍までの位牌が安置されています。そして秀忠とお江の位牌をよく見てみると、「菊」「桐」「葵」の3つの紋が刻まれています。菊は天皇家の御紋、桐は豊臣家の御紋、葵は徳川家の御紋。相容れない3家の御紋が刻まれた位牌を見られるのは、ここ養源院だけなのです。

 和子の入内後、紫衣事件が勃発。これにより夫である後水尾天皇(天皇家)と兄である家光(幕府側)の間に摩擦が生じてしまいます。母・お江のように、また自分も時代に翻弄されることとなるのです。3つの御紋を位牌に刻んだのは、敵となり味方となりながらも、養源院を支えてきた人たちへの、畏敬の念があったから。さらに身分や家柄に関係なく手を取り合える時代の到来。和子の中にこれを、心から望む気持ちがあったのではないでしょうか?

四 「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」

光広和歌懐紙.jpg
 
烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙

http://ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=1814

(釈文) 

詠竹契遐年和歌
      左大臣源秀忠
呉竹のよろづ代までとちぎるかな
 あふぐにあかぬ君がみゆきを
        右大臣源家光
御幸するわが大きみは千代ふべき
 ちひろの竹をためしとぞおもふ
      御製
もろこしの鳥もすむべき呉竹の
 すぐなる代こそかぎり知られね

(解説文)

 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。   「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべき ちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(再掲) 烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-02

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。