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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十一) [光悦・宗達・素庵]

その二十一 三条院御歌

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院・三条院」(シアトル美術館蔵)

21 三条院御歌:あしびきの山のあなたにすむ人はまたでや秋の月をみるらむ
(釈文)安し日支能山濃安那多尓須無人盤ま多天や秋乃月を見るら無

(「三条院」周辺メモ)

あしびきの山のあなたにすむ人は待たでや秋の月をみるらん(新古382)
(歌意:山の向こうに住んでいる人は、これほどに待たないで、秋の月を見ているのであろうか。)(『日本古典文学全集26』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanjou.html

三条院 天延四~寛仁元(976-1017)

冷泉天皇の第二皇子。母は藤原兼家女、贈皇后宮超子。敦明親王(小一条院)・陽明門院禎子(後三条天皇の皇后)の父。
天延四年正月三日生誕。寛和二年(986)、従弟の一条天皇(当時七歳)が即位した時、皇太子に立てられる。寛弘八年(1011)六月、一条天皇の譲位を受けて即位(第六十七代天皇)。時に三十六歳。眼病と神経系慢性疾患に悩み(『大鏡』)、彰子腹の敦成親王の即位を願う藤原道長の圧迫もあって、長和五年(1016)、退位した。翌年五月九日、崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集は八首。『新時代不同歌合』歌仙。

例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)
【通釈】我が意に反してこの世に生き長らえたなら、いつか恋しく思い出すに違いない――そんな月夜であるなあ。
【語釈】◇例ならず 病気をいう。◇心にもあらで 心にもあらず。我が意に反して。◇恋しかるべき (生き永らえて後には)恋しく思うにちがいない。
【補記】『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月、十余日の明月の晩に、清涼殿内の御局で三条天皇が中宮に詠みかけた歌。翌年正月、譲位。
【他出】栄花物語、袋草紙、古来風躰抄、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十九)

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」の校注には、「秀54に既出。◇病いがはかばかしくなくて譲位しようと思っておられたころ、月の明るかったのを御覧になって。『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月中旬に中宮藤原妍子に言われた歌」とある。
この校注「秀54」は、『百人一首(定家撰)』の前身にも当たる『百人秀歌(定家撰)54』ということで、それは「秀53」と番い(哀傷歌二首)になっている一首なのである。

(『百人秀歌(定家撰)53』)
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(一条院皇后=藤原定子)
(『百人秀歌(定家撰)54』)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)

 ここで、『百人一首(定家撰)』の前身と目せられている『百人秀歌(定家撰)』は、「じつは百一首の歌がしるされており、百人一首ではその内俊頼の歌を差し替え、さらに一条院皇后(秀53)・権中納言国信(秀73)・権中納言長方(秀90)の三首を削って、かわりに後鳥羽・順徳の歌を入れ計百首としている。したがって、この辺の合わせ最終的に定家がどう考えていたのか判断しかねる。改撰をかりに為家の手に成ったものと考えてよければ(たぶんそうであろう)、百人秀歌の合わせはそれとして見ておいてよい。この合わせもわるくない合わせである」(『別冊太陽№1百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)と、その「六八(三条院)=『百人秀歌(定家撰)54』」のところで評している。
 しかし、これらのことに関して、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が後嵯峨院に総覧した『続後撰集』に選入される後鳥羽院の「人もをし」(百99)、順徳院の「ももしきや」(百100)の歌が『百人一首』に選入されるから、定家が撰した『百人秀歌』を為家が『百人一首』に改撰したとみられそうであるが、問題はそれほど単純ではない。為家は性格温順で、父の撰した『百人秀歌』の歌を気ままに差し替えることは考えにくいし、定家が染筆したと思われる色紙形(小倉色紙)中に後鳥羽院の「人もをし」の詠も現存する。さらには、定家の撰した『新勅撰集』は成立が複雑で、鎌倉幕府の意向を気がねする摂関の要請で、当初選入していた後鳥羽院・順徳院ら承久の乱関係者の歌を百余首削除しているから、それらの中に右二首も含まれていた可能性は充分考えられる。『新勅撰集』成立二か月後の文暦二年(一二三五)五月の色紙染筆の際には、『新勅撰集』草稿本に定家は両院の歌を加え、また、歌の配列順序を改めたために配列上具合の悪くなった俊頼の歌も差し替えたのであろう(秀75を百74に差し替えたのであろう)。『百人一首』の撰は定家とみてもよかろう。ただ、遠島両院の諡号(しごう)は、定家没後の決定だから、為家などの手による補訂であろう」(『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説)と、その見方を異なにしている。
 この『百人秀歌』は、終戦後の昭和二十六年(一九五一)に有吉保(日大名誉教授)によって初めてその存在が世に知られるようになったもので、その発見者(有吉保)による「百人一首と私(有吉保稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)の中で、この発見当時の「百人一首の成立説」について、簡略に次のように紹介されている。

①藤原定家が自ら撰んだという説(『宗祇抄』等に見られる伝統的に継承されてきた説)
②蓮生(宇都宮頼綱)が撰歌して、定家に書写させたという説(安藤為章の「年山紀聞」の説)
③まことは宗祇が撰んだのだが、それを定家が撰んだ如く装ったという説(いわゆる定家仮託説、吉沢義則説)

 この三説の中で、「最も有力な説は吉沢義則博士の説(京大「国語国文の研究十六号)で、(中略)、その当時(昭和二十三年から同二十五年)ほぼ定説と認められていたように思う」とし、この吉沢説に対して、書陵部蔵の『百人一首』(伝栄雅筆本)などから有吉説(定家自撰説=①)を傍証し、さらに、書陵部『百人秀歌』(嵯峨山庄色紙形 京極黄門撰)を紹介し、そこで、「百人秀歌から百人一首へと進展させた」とする有吉説を展開する。さらに、『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは「為家」とする説(石田吉貞説・目崎徳衛説)が主張され、上記の安東次男の見方は、この有吉説と石田説・目崎説に近いものなのであろう。
 それに対して、同じ「定家自撰説=①)」の立場でも、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が改撰した」(安東次男などが支持している説)とすることに関しては、真っ向から、「定家自撰説=①)」を固守しているものが、樋口説((『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説))というように解して置きたい。
 これらは、「藤原定家と百人一首―成り立ちは未だ霧の中(吉海直人稿)」・「冷泉為村が書写した『百人秀歌』の出現―冷泉家時雨文庫にて(大山和也稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)のとおり、これらは、その「成り立ちは未だ霧の中」のままで、未だに、現在進行形の魅力に溢れたテーマであることには、いささかの変わりがないというのが、その真相であろう。

 ここでは、これらのことに関して、二つの関心事について触れて置きたい。

 その一つは、現在の「宮中歌会始めの儀」(皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった)は、新憲法下での、昭和二十二年(一九四七)が、そのスタートで、その四年後の、昭和二十六年(一九五一)に、『百人一首』の前身と目されている『百人秀歌』が、一学徒(有吉保の「卒業論文」)により発見されたということは、何かしら、この両者に因縁があり、その因縁を探りたいという好奇心にほかならない。
そして、その好奇心は、これまた、英語学者で広範囲の評論活動を展開した渡部昇一がネーミングした「和歌の前の平等」(『日本史百人一首・扶桑社・2008年』)の「日本の歴史を貫く平等原理は和歌である」と、何かしらドッキングするような、いささか、手前勝手な関心事なのである。
さらに付け加えると、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「解説」で触れられている「詩は詞華集で読むに限る」(丸谷才一説)ということと、「『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは為家である」(石田吉貞説・目崎徳衛説)の「石田吉貞」の別名「大月静夫」著の『若き検定学徒の手記・大同館書店・1939』(下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」)とを一つのアプローチの足掛かりにしたいという、これまた、甚だ手前勝手な関心事なのである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456924

 もう一つの関心事は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家)』の一首又は二首ピックアップ)→「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)の、この「a→b→c→d」の「相互関係」と「それぞれの一首の鑑賞視点」などについてである。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→上記の三条院の例

   例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
   月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』には三条院の例は無

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家撰)』の一首又は二首ピックアップ)

(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)→上記の一条皇后と三条院の例

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(「秀53」一条院皇后)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)→上記(c-1-秀54)の例

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→(c-2)と同じ

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

 この「a→(b)→c(c-1とc-2)→d」の「鑑賞視点」は、つぎのとおりなる。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→詞書を加味して鑑賞する。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)と「(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)」→「歌合」のルールを加味して鑑賞する。

「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」と「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→屹立した一首として鑑賞する。

 ここで、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鹿下絵和歌巻」の和歌鑑賞の視点は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)として、詞書を加味して鑑賞することになる。

 また、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鶴下絵和歌巻」は、「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」又は「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)として、一巻仕立ての左右の区別のない、三十六歌仙の歌として、屹立した一首として鑑賞することになる。

 さらに、狩野探幽筆「新三十六人歌合画帖」、狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」、酒井抱一筆「集外三十六歌仙図画帖」については、「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」として、「歌合」のルールを加味して鑑賞することになる。

(追記)

この「a→b→c→d」のモデルと流れは、ほぼ、「百人一首の成立」に係わる、そのプロセス(過程)と理解することも可能であろう。それは、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収の、『八代集秀逸(定家撰)』→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』→『百人秀歌(定家撰)』→『百人一首(定家撰)』の流れなどと軌を一にするものである。
タグ:百人一首
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yahantei

「石田吉貞」の別名が「大月静夫」とは知らなかった。その若き日の『若き検定学徒の手記・大同館書店・1939』が、「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文を見ることが出来るというのは、まさに、ネット冥利に尽きるという感じがする。次は、「堀河院」なのだが、その「堀河院百首」では、その先鞭的な論稿で、「石田吉貞」の名が刻まれている。
by yahantei (2020-06-16 10:25) 

yahantei

「タグ」(タグクラウド)には無関心であったが、過去の記事を見る時に、利用すべしかとうことで、「百人一首」を入れたら、表示のようになった。「管理画面」の「キィワード」を「タグ」とかん違いして、こちらの意図している記事は、全然、ヒットしない。
by yahantei (2020-06-16 15:43) 

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