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四季草花下絵千載集和歌巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

(その八) 和歌巻(その八)

和歌巻6-1.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      山花の心をよみ侍ける
79 白雲とみねには見えてさくら花ちればふもとの雪にぞありける(大宮前太政おほいまうち君)
(白雲と見えた峰の桜は、散れば麓の雪となることだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

しら雲と見年尓(みねに)ハ(は)三エ天(みえて)桜華知禮盤(ちれば)婦(ふ)もと乃(の)雪尓(に)曾(ぞ)有介流(ありける)

※見年尓(みねに)=峰に。
※三エ天(みえて)=見えて。
※知禮盤(ちれば)=散れば。
※婦(ふ)もと=麓。

【 「大宮前太政おほいまうち君」=藤原伊通(ふじわらのこれみち) 生年:寛治7(1093)   没年:永万1.2.15(1165.3.28)

平安時代後期の公卿。太政大臣。大宮大相国,九条大相国ともいう。権大納言藤原宗通と藤原顕季の娘との子。保安3(1122)年正四位参議兼右兵衛督。大治5(1130)年の除目を不服として籠居するが,長承2(1133)年崇徳天皇の信任を得て権中納言に復帰。以後順調に昇進する。妹が関白藤原忠通に嫁し,娘呈子を忠通の養女として二条天皇に入内させる。保元1(1156)年内大臣。翌年左大臣。永暦1(1160)年太政大臣。永万1(1165)年病により辞し,出家。同年没。二条天皇に政治の意見書「大槐秘抄」を奉じる。激しい一面はあるが世相風刺に秀で,ウイットに富んだ性格が『今鏡』ほかに描かれる。(櫻井陽子) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典」)


(追記メモ) 「平家一門の都落ち」(「山崎・関大明神社」と「水無瀬離宮」周辺)

故郷ノ花といへる心をよみ侍りける
さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(「読人しらず『千載集』66)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadanori.html

【通釈】さざ波寄せる琵琶湖畔の志賀の旧都――都の跡はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等(ながら)山の桜は、昔のままに美しく咲いているよ。
【補記】この歌は千載集に「よみ人知らず」の作として載る。作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したのである。『平家物語』巻七「忠度都落」にもその間の事情が述べられている。家集の詞書は「為業哥合に故郷花」。藤原為業(寂念)邸での歌合の作。

https://shikinobi.com/heikemonogatari

『平家物語(巻七)』「忠度の都落ち」の全文(原文)

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
「忠度。」
と名のり給へば、
「落人帰り来たり。」
とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際まで立ち寄らせ給へ。」
とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」
とて、門を開けて対面あり。
事の体、何となうあはれなり。
薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。
撰集のあるべき由(よし)承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」
とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
三位これを開けて見て、
「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」
とのたまへば、薩摩守喜んで、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」
とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」
と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
そののち、世静まつて『千載集』を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「よみ人知らず」と入れられける。

[さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな]

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり。

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/25818ab6f9f8d7a0f7b2b4c3705ccf03

都落ち.jpg

「平家一門の都落ち(輿車に六歳の安徳天皇と母の建礼門院が乗っている)」

はかなしや主は雲井にわかるれば あとはけぶりと立ちのぼるかな(門脇宰相教盛「平家物語」)
(はかないことよ、家を捨てて雲もはるかな旅路をたどれば、家々を焼いた煙が空ゆく雲への彼方へと立ち上っていくことだなぁ。)

ふるさとを焼け野の原とかへり見て 末もけぶりの波路をぞゆく修理大夫経盛「平家物語」)
(住みなれた館を焼野の原としてその煙をふり返り見つつ、いつ帰るとも知れぬ煙にとざされた海の旅路を行くことであるよ。)

※この二首の「けぶり」は、平家一門が、「六波羅・池殿・小松殿・西八条」に火をかけて、「都落ち」する、その「けぶり」(黒煙)を指している。

山崎・水無瀬.jpg

「山城・攝津との国境・関戸院(現、関大明神社)周辺図

※ この「関大明神社」の近くに、都落ちして八歳で入水崩御した安徳天皇(第八十一代)の、
次の後鳥羽天皇(第八十二代)が、歌合・蹴鞠・狩猟などを楽しまれた「水無瀬離宮」(現、水無瀬神社)がある。

  郷春望(きょうノしゅんぼう)といふことを
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ(太上天皇=後鳥羽院『新古今』36)
(見わたすと、山の麓が霞んで、そこを水無瀬川が流れている眺めは素晴らしい。夕べの眺めは秋が素晴らしいと、どうして思ったのであろうか。)
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yahantei

【保元の乱 1156年7月5~11日】
勝者:後白河天皇、藤原忠通、信西、平清盛、平重盛、源頼朝、源頼政
敗者:崇徳上皇、藤原道長、平忠正、平家広、源為義、源為朝

後白河天皇天皇側は、「高松殿・東三条殿」に集結、崇徳上皇側は、「白河殿(白河北殿)」に集結。当時の、平安京というのは現在の「京御所」(旧「土御門東洞院殿」)とは、イメージが相違していて、「高松殿・東三条殿」は、現在の「御所」付近、「白河殿」は鴨川の東山
寄りの、現在の「平安神宮」周辺ということになる。
 『千載集』の詞書には、この「鳥羽殿」「近衛殿」「白河殿」などの「殿」が頻繁に出て来る。これらのネット探索も面白い。

by yahantei (2020-10-21 10:21) 

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