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四季草花下絵千載集和歌巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

(その九) 和歌巻(その九)

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「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      百首歌たてまつりける時、花うたとてよめる
80 吉野山花はなかばにちりにけりたえだえのこる峰のしら雲(藤原季通朝臣)
(吉野山の花もなかばは散ってしまったのだなあ。峰には白雲がきれぎれにかかって見えるよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
よし野や万(ま)ハ那ハ(花は)な可ハに(半ばに)地利尓介里(散りにけり)絶々(たえだえ)乃こる三年濃(峰の)しら雲

※よし野や万(ま)=吉野山。持統天皇をはじめ、歴代天皇の御幸の地としての吉野離宮、そして離宮をとりまく吉野川の風光明媚な景観。奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suemiti.html

【 藤原季通(ふじわらのすえみち) 生没年未詳  

正二位権大納言宗通の三男。母は修理大夫顕季の娘。太政大臣伊通の同母弟。大納言成通・同重通の同母兄。姉妹に藤原忠通の北政所で皇嘉門院の母、准后従一位宗子がいる。
備後守・肥後守・左少将などを歴任し、白河院の寵臣であったらしいが、官位は正四位下に止まった(藤原忠実の日記『殿暦』には待賢門院璋子が季通と密通したとの記事がある。この廉で白河院の怒りを買ったか)。琵琶・箏・笛など、音楽に稀な才能を持っていた。歌人としては永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合をはじめ、元永二年(1119)の内大臣忠通歌合、長承三年(1134)の中宮亮顕輔家歌合などに出詠。また崇徳院が召し、久安六年(1150)頃までに完成した「久安百首」の作者の一人に加わっている。
『季通朝臣集』と題する集が伝わるが、季通の久安百首詠を切り出したもの。詞花集初出。千載集では十五首入集と高い評価を受けた。勅撰入集は計十七首。 】

(追記メモ) 「保元・平治の乱」の頃の「近衛殿」(京都御所=土御門東洞院殿)周辺

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「保元・平治の乱」の頃の「近衛殿」(京都御所=土御門東洞院殿)周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sutoku.html

   近衛殿にわたらせたまひてかへらせ給ひける日、
   遠尋山花といへる心をよませ給うける
尋ねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風(崇徳院御製『千載集』46)
【通釈】探し求めていた花のあたりまで来たのだった。漂う気きによって、はっきり分かる。春の山風は――。
【補記】題は「遠く山の花を尋ぬ」。桜の咲く山を遥かに見やりつつ尋ねて来て、とうとう花のあたりに辿り着いた喜びを詠う。関白藤原忠通の新邸での歌会で詠んだもので、新築の祝意をこめたか。

 この崇徳院の一首は、康治二年(一一四三)三月頃の、「保元の乱」の当事者(「後白河天皇・藤原忠通」対「崇徳院・『藤原忠実・頼長』親子)の、その「保元の乱」の勝者となる「藤原忠通」(現「近衛家の祖・藤原基実」の父)の新築「近衛第(殿)」の歌会でのものである。
 この「保元の乱」が勃発する前は、崇徳院と敵対する「藤原忠道」の娘(藤原聖子)は、崇徳天皇の皇后(中宮)、後に、近衛天皇の養母で、皇太后となり、院号は皇嘉門院(こうかもんいん)である。崇徳院が讃岐国へ配流された時には出家し、清浄恵(せいじょうえ)と号し、崇徳院が崩御す前年の長寛元年(一一六三)には髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚(れんがく)と号している。
 上図の「近衛殿」の左端に「白峯神宮」がある。この「白峯神宮」は、四国・坂出の「白峰山陵」から崇徳天皇の御霊を迎えての鎮魂の神宮である。

http://shiraminejingu.or.jp/history/

   題しらず
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院「詞花集」229、「百人一首」77)

【通釈】瀬の流れが速いので、岩に塞がれている急流がその岩に当たって割れるように、たとえあなたと別れても、水の流れが下流で再び行き合うように、将来はきっと逢おうと思っているのだ。
【語釈】◇瀬をはやみ 瀬の流れが速いので。《われて》に懸かる。◇滝川の 「滝川」は滝のごとき奔流。「の」は《のように》といった意味の使い方。◇われてもすゑに 急流が岩に当たって割れるように、別れても、水がいずれ下流で再び行き合うように、将来は。
【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。
【補記2】久安百首では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ」とある。詞花集における改変を、香川景樹は撰者藤原顕輔によるとしたが、安東次男は撰集の宣を下した院自身による改作であろうという(『百首通見』)。

藤原定家撰の「小倉百人一首」にも採られている第七勅撰集『詞花和歌集』の崇徳院の一首である。この『詞花和歌集』の勅撰の院宣を下したのは、崇徳院その人である。この勅撰集が成ったのは、仁平元年(一一五一)で、その五年後の保元元年(一一五六)の「保元の乱」によって、崇徳院は讃岐に流刑される。
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yahantei

崇徳院の御辞世の一首

夢の世になれこし契り朽ちずして醒めむ朝に逢ふこともがな(崇徳院「玉葉集)
「夢のような世であったが、お前、俊成との友情は彼岸でも朽ちることはないだろう。だから浄土で迷いの夢から醒める朝に、再びお前に逢いたいものだ。」

この崇徳院の「反歌」が、下記のアドレスで紹介されていた。

http://waka158.blog.fc2.com/blog-category-9.html

先立たむ人はたがひに尋ねみよ 蓮のうへにさとりひらけて(俊成「長秋詠草」)
「先に浄土へ赴くあなたは、(後から行く私を)探し尋ねてください。あなたは蓮の上に悟りをひらいておられることでしょう。」

by yahantei (2020-10-22 09:48) 

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