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四季草花下絵千載集和歌巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十) 和歌巻(その十)

和歌巻8.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      寛治八年さきのおほきおほいまうち君の高陽
      院の家の歌合に、桜をよめる
81 山ざくらをしむ心のいくたびかちる木のもとに雪かゝるらむ(内侍周防)
(山桜の花を惜しむ心が、このように幾度も花の散る木の下へ行こうとするのだろうか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
屋ま左久ら(山ざくら)惜心(をしむこころ)の以久多び(幾たび)可(か)知る(散る)こ乃本(木のもと)尓(に)遊幾(ゆき)帰る(かへる)ら無(らむ)

※屋ま左久ら=山桜。
※惜心=惜しむ心。
※以久多び=幾たび。
※こ乃本(=木(こ)の下(もと)。
※遊幾(ゆき)=雪。
※帰る(かへる)ら無(らむ)=帰るらむ。『新日本古典文学大系 千載和歌集』で、「かゝるらむ」。
※※さきのおほきおほいまうち君=前太政大臣、藤原師実。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suounai.html

【 周防内侍(すおうのないし) 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子 

父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正軄の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集三十六首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。 】

   二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々
   あまた居明かして物語などし侍りけるに、
   内侍周防、寄り臥して「枕もがな」としのび
   やかに言ふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」
   とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍り
   ければ、よみ侍りける
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ(周防内侍「千載964」「百人一首67」)
【通釈】春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。
【語釈】◇二条院 道長から二条関白教通に伝えられた邸。但し周防内侍が仕えていた後冷泉天皇の中宮章子内親王は「二条院」の院号を宣下されているので、その御所とも考えられる。章子内親王が「二条院」の院号を宣下されたのは、延久六年(1074)。◇大納言忠家 藤原氏。1033~1091。俊成の祖父にあたる。忠家が大納言に任命されたのは承暦四年(1080)。◇手枕(たまくら) 腕を枕にすること。共寝の際は手枕を交わすという慣わしがあったので、情交の象徴となるが、ここでは詞書に忠家が「是(これ)を枕に」と言ったことを受けての表現。◇かひなく 甲斐なく。「かひな」を隠す。
【補記】「枕」「立つ」は「夢」の縁語。
忠家の返しは、
 契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
(大意:前世からの深い縁があってこの春の深夜に差し出した手枕なのに。それをどうして甲斐のない夢になさるのですか。)

(参考) 「保元の乱・平治の乱」の頃の「平安京」(大内裏周辺)

(A図) 「大内裏」の通用門

大内裏門.jpg

(B図) 平安京条坊図(大内裏周辺)

大内裏周辺.jpg

(A図) 「大内裏」の通用門(説明)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E8%A3%8F

※待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。
  藤原璋子:「待賢門院」を号した平安時代の女院。
  阿野廉子:「新待賢門院」を号した南北朝時代の女院。
  正親町雅子:「新待賢門院」を号した江戸時代の女院。
  中御門天皇:「中御門」は待賢門の別称。
※美福門(びふくもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。
  藤原得子:「美福門院」を号した平安時代の女院。
※殷富門(いんぷもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。右衛門府が警固を担当した。
  亮子内親王:「殷富門院」を号した平安時代末期の女院。
※皇嘉門(こうかもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。右衛門府が警固を担当した。
  藤原聖子:「皇嘉門院」を号した平安時代の女院。
  鷹司繋子:「新皇嘉門院」の女院号を追贈された
※上東門(じょうとうもん)は、平安京大内裏の外郭門のひとつである
  藤原彰子:「上東門院」を号した平安時代の女院。
※上西門(じょうさいもん)は、平安京大内裏の外郭門のひとつである。
  統子内親王:「上西門院」を号した平安時代の女院。
  鷹司房子:「新上西門院」を号した江戸時代の女院

(B図) 平安京条坊図(大内裏周辺)説明

http://gekkoushinjyu.kt.fc2.com/heian/kyou.html

①一条院(左京北辺二坊一町)
999年(長保元)の内裏焼失後、一条天皇が里内裏とした。『紫式部日記』に登場する「内裏」はこの一条院である。また『枕草子』にも「今内裏」として登場する。
②藤原倫寧(ともやす)邸(左京北辺三坊一町)
倫寧の娘は『蜻蛉日記』の作者として有名であり、現在藤原道綱母の名で知られている。彼女は幼少の道綱をこの邸宅で育てた。
③土御門殿(左京一条四坊十五・十六町)
藤原道長の邸宅。中宮彰子が、ここで敦成親王(のちの後一条天皇)を出産したという記述が『紫式部日記』にある。後に、一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏にもなっている。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。
※花山院(左京一条四坊三町)
平安京左京一条四坊三町(現在の京都御苑敷地内)にあった邸宅。花山法皇の後院となった後に、花山院家の所有となり、明治維新による東京奠都まで存続した。当初は清和天皇皇子貞保親王の邸宅であったとされている。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とした。1008年(寛弘5年)、ここで崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。
※高陽院(かやのいん)(左京二条二坊十五町)
桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の邸宅で、中御門南、堀川東にあった。保安元年(1021年)摂政 関白・藤原頼通は、この地を大いに気に入り、敷地を倍に広げて豪華な寝殿造の建物を造営した。後冷泉天皇以後5代の天皇がここに居住し「累代の皇居」と呼ばれた。鳥羽上皇の皇后となった藤原泰子(頼通の曾孫にあたる摂政関白・藤原忠実の長女)に「高陽院」の女院号が与えられたのも、ここに居住していたことに由来する。
※冷泉院(左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を占めた。現在の二条城の北東部分に該当。多くの殿舎を備えた寝殿造であったという。)
弘仁年間頃に離宮として成立、816年(弘仁7年)嵯峨天皇が行幸したことが記録上の初見である。天皇は譲位後ここを後院として、834年(承和元年)まで居住した。嵯峨上皇没後はその皇后橘嘉智子の御所となる。子の仁明天皇はたびたび行幸し、内裏修復の間はここを御所とした。次代の文徳天皇も居住。その後は陽成上皇が後院として活用し、917年(延喜17年)の冬に京中の井泉が枯渇した際には、上皇は東北の門を開き庶人に池水を汲ませている(『日本紀略』延喜17年12月19日条)。のちに村上天皇が仮御所とした他、冷泉上皇が後院とし、後冷泉天皇の里内裏にもなった。
④二条第・二条宮(左京三条三坊八町)
藤原伊周の二条第が北側、中宮定子の二条宮が南側にあった。『枕草子』にも二条宮の様子が描かれている。また、伊周・隆家兄弟失脚事件の舞台でもある。
⑤菅原孝標邸(左京三条三坊十五町)
『更級日記』の作者菅原孝標女が父とともに上総国から帰京した際に住んだ。
⑥竹三条宮(左京三条四坊二町)
中宮定子の里邸。『枕草子』に「大進生昌が家」とあるのが、この竹三条宮である。中宮定子はここで敦康親王らを生み、また、ここで亡くなった。
⑦紅梅殿(左京五条三坊二町)
菅原道真の邸宅。大宰府左遷後、この庭の梅を思って歌を詠んだ故事が有名。
⑧東五条院(左京五条四坊一町)
『伊勢物語』第四段・五段に登場する「東の五条」がここであり、在原業平と藤原高子の逸話の舞台とされている。
⑨樋口富小路(左京六条四坊)
安元の大火の火元と『方丈記』にある。
⑩河原院(左京六条四坊十一~十四町)
源融の邸宅。源 融は『源氏物語』の主人公光源氏のモデルの一人とされ、この河原院も光源氏が住む「六条院」のモデルとされている。源 融が死後この邸宅に化けて出た話が『今昔物語集』巻第二十七に納められている。
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yahantei

この(B図)「平安京条坊図(大内裏周辺)」で、「千載集」時代の土地勘がイメージ化されてきた。現在の京都御所は、

③土御門殿(左京一条四坊十五・十六町)
藤原道長の邸宅。中宮彰子が、ここで敦成親王(のちの後一条天皇)を出産したという記述が『紫式部日記』にある。後に、一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏にもなっている。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。

しかし、次のアドレスの記述を見ると、「白河院・後白河院」の当時は、この「大内裏」には、「鳥羽天皇は15年半の在位期間中合計7か月程度しか内裏で暮らしておらず[8]、崇徳天皇は儀式などのために大内裏に4回赴き滞在したが、内裏には一度も足を踏み入れなかった[9]。」など、「鳥羽殿」とか「白河殿」等々に住んでいて、この「大内裏」は、有名無実化していたようである。

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%A4%A7%E5%86%85%E8%A3%8F

また、A図「大内裏」の通用門(外郭十二門)の他に、「内裏」の門など様々あって、これまた、尋常ではない。

http://fine.tok2.com/home/bookend/zatu/dairi/index.html





by yahantei (2020-10-23 16:19) 

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