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四季草花下絵千載集和歌巻(その十七・十八) [光悦・宗達・素庵]

(その十七・八) 和歌巻(その十七・八)

和歌巻14.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      百首歌たてまつりける時よめる
88 春風に志賀の山こゑ花ちれば峰にぞ浦のなみはたちける(前参議親隆)
(春風の中、花吹雪の志賀の山越えをして来ると、山の頂に浦の波が立つことだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
ハ(は)る可世(かぜ)尓(に)し可(志賀)乃(の)やまこえ(山越え)ハ(は)な知連ハ(散れば)見年(峰)尓(に)曾(ぞ)浦乃(の)波ハ(は)多知(たち)介(け)る

※ハ(は)る可世(かぜ)尓(に)=春風に。
※し可(志賀)乃(の)やまこえ(山越え)=志賀の山越え。京都の北白川から山中峠を越え、滋賀の里へ抜ける道。近江の志賀寺(崇福寺)詣でに利用された。
※ハ(は)な知連ハ(散れば)=花散れば。
※見年(峰)尓(に)曾(ぞ)=峰にぞ。
※浦乃(の)波ハ(は)多知(たち)介(け)る=浦の波はたちける。「浦の波」は、志賀の浦の波で、志賀の縁語の「花吹雪」を見立てている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikataka.html

【藤原親隆(ふじわらのちかたか) 康和元~永万元(1099-1165)
右大臣定方の裔。大蔵卿為房の息子。母は法橋隆尊の娘(忠通の乳母)。
保安四年(1123)、叙爵。伊予守・春宮亮などを経て、保元三年(1158)五月、従三位。同年の二条天皇即位後、正三位に昇叙される。永暦二年(1161)、参議。長寛元年(1163)、出家。法名は大覚。
関白内大臣忠通歌合・中宮亮顕輔歌合・木工権頭為忠家百首・久安百首などに出詠。家集『親隆集』は久安百首詠を一冊にしたもの。金葉集初出。勅撰入集十六首。 】

     花の歌とてよみ侍ける
89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪(左近中将良経)
(桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
左久良(さくら)咲(さく)日ら濃(の)山可勢(かぜ)吹(ふく)まゝ尓(に)ハ那(はな)尓(に)成行(なりゆく)志可(しが)濃(の)うらな見(み)

※左久良(さくら)咲(さく)=桜咲く。
※日ら濃(の)山可勢(かぜ)=比良の山風。比良の山は近江の歌枕。
※吹(ふく)まゝ尓(に)=吹くままに。
※ハ那(はな)尓(に)成行(なりゆく)=花になりゆく。湖面に花吹雪が散り敷くさま。
※志可(しが)濃(の)うらな見(み)=志賀の浦波。志賀の浦も近江の歌枕。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositune.html

【 藤原(九条)良経(ふじわらよしつね・くじょうよしつね)  嘉応元~建永元(1169-1206)
法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
治承三年(1179)四月、十一歳で元服し、従五位上に叙される。八月、禁色昇殿。十月、侍従。同四年、正五位下。養和元年(1181)十二月、右少将。寿永元年(1182)十一月、左中将。同二年、従四位下。同年八月、従四位上。元暦元年(1184)十二月、正四位下。同二年、十七歳の時、従三位に叙され公卿に列す。兼播磨権守。文治二年(1186)、正三位。同三年、従二位。同四年、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言。十二月、兼左大将。同六年七月、兼中宮大夫。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)。同七年、父兼実は土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』『後京極摂政御自歌合』がある。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。 】

(参考)「院政」(白河院・後白河院・後鳥羽院)時代周辺と「藤原(九条)良経(1169-1206)」

院政期.jpg

https://sekainorekisi.com/japanese_history/

 「院政」時代というのは、「白河、鳥羽、後白河上皇三代の院政が行なわれた時代の応徳三年(一〇八六)から建久三年(一一九二)までの約一〇〇年間が中心となるが、藤原氏が摂関として政権を取った時代と、鎌倉幕府が朝廷に優越する政権となった時代との中間の時代と考えれば、後三条天皇即位の治暦四年(一〇六八)から後鳥羽上皇の退位した承久の乱の承久三年(一二二一)までの約一五〇年間がこれに当たる」(精選版 日本国語大辞典)。
 それらを図示したものとして、上記のものは恰好のものである。これによると、「院政」時代というのは、次の三期に分かれる。

「白河院院政期」(1086-1129)=「白河→堀河→鳥羽→崇徳→近衛」時代
「後白河院政期」(1158~1179. 1181~1192)=「後白河→二条→六条→高倉→安徳」時代
「後鳥羽院制期」(1198~1221)=「後鳥羽→土御門→順徳」時代

 「藤原親隆(1099-1165)」は、上記の「白河院院政期」の、特に、「崇徳天皇」時代に活躍した歌人である。
 それに比して、次の「藤原(九条)良経(1169-1206)」は、「後鳥羽院院政期」時代の代表的な歌人で、『新古今和歌集』の「序(仮名序)」を起草した、時の「摂政太政大臣」(『新古今和歌集』搭載の官職名)である。
その『新古今和歌集』が成った元久二年(一二〇五)の翌年、元久三年(一二〇六)三月七日深夜に、享年三十八歳の若さで夭逝した。『千載和歌集』には七首、『新古今和歌集』には七十九首(西行=九十四首、慈円=九十二首に次いで第三位、俊成=七十二首、式子内親王=四十九首、定家=四十六首、家隆=四十三首、寂蓮=三十五首、後鳥羽院=三十四首と続く)入集している。
良経の『千載和歌集』に入集したのは、二十歳前(十七・八歳時)の頃で、御子左家の総帥、藤原俊成(『千載和歌集』の撰者)に見出された歌人ということになろう。良経の叔父にあたる慈円は、その著書『愚管抄』で「能芸群ニヌケタリキ、詩歌能書昔ニハヂズ、政理公事父祖ヲツゲリ」と記している。
書家としても著名で、その書風は後に「京極流」と呼ばれた。一方、有職故実の研究にも力を入れ,、『大間成文抄(除目大成抄)』『春除目抄』『秋除目抄』などの著書を残している。ほかに日記『殿記』も残している。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

「故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし」(『後鳥羽院御口伝』)。

「後京極摂政の歌、毎首みな錦繍、句々悉々く金玉、意情を陳ぶれば、ただちに感慨を生じ、景色をいへば、まのあたりに見るが如し。風姿優艷にして、飽くまで力あり、語路(ごろ)逶迱(いだ)として、いささかも閑あらず、実に詞花言葉の精粋なるものなり」(荷田在満『国歌八論』)。

若き日の「藤原(九条)良経」の歌(『千載和歌集』の七首)

   帰る雁の心をよみ侍りける
ながむればかすめる空のうき雲とひとつになりぬかへる雁がね(千載37)
【通釈】眺めると、北へ帰る雁は、霞んだ空の浮雲と見分けがつかなくなってしまった。

   花の歌とてよみ侍りける
桜咲く比良の山風吹くままに花になりゆく志賀の浦波(千載89)
【通釈】桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。

虫ノ声非ズ一ニといへる心をよみ侍りける
さまざまなの浅茅が原の虫の音をあはれひとつに聞きぞなしつる(千載330)
【通釈】荒れ果てた野のさまざまな虫の音は、その「虫ノ音ハ一ツニ非ズ」と耳をすましている。

   閑居聞ク霰ヲといへる心をよみ侍りける
さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり(千載444)
【通釈】冷え冷えとした夜の板葺きの家で独り寝をしていると「霰ガ砕ケル」ように孤独感が増大してくる。

  契ル暮ノ秋ヲ恋といへる心をよみ侍りける
秋はをし契りは待たるとにかくに心にかゝる暮の空かな(千載746)
【通釈】秋の暮れも、恋の契りも、とにかくに、心を悩ませる、この暮色の空であることか。

知られてもいとはれぬべき身ならずは名をさへ人に包まましやは(千載826)
【通釈】知られては厭われる身なので、ここは名を隠すほかはあるまいに。

  法華経の弟子品、内秘菩薩行の心をよみ侍りける
ひとりのみ苦しき海を渡るとや底を悟らぬ人は見るらん(千載1227)
【通釈】悟らぬ人は一人で苦海(苦界)を渡ると思っているが、この法華経の声明は菩薩に導かれて苦海渡るとことを導いてくれる。

https://sidu.exblog.jp/1724542/

『新古今和歌集』「仮名序」(摂政太政大臣良経)

 やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵞の里よりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。

  かゝりければ、代々のみかどもこれを捨てたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、詞の花のこれる木のもとかたく、思ひの露もれたる草がくれもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海きよき渚の玉は、ひろふとも尽くることなく、泉の杣しげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。うたの道またおなじかるべし。

  これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいま時をわかたず、たかきいやしき人をきらはず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢につたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねく集めしむ。

  をのをのえらびたてまつれるところ、夏引の糸のひとすぢならず、夕の雲のおもひ定めがたきゆへに、緑の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風すゞしきゆふべ、難波津の流れをくみて、すみ濁れるをさだめ、安積山の跡をたづねて、ふかき浅きをわかてり。

  万葉集にいれる歌は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる歌をば、これを載する事なし。たゞし、詞の苑にあそび、筆の海をくみても、空とぶ鳥のあみをもれ、水にすむ魚のつりをのがれたるたぐひは、昔もなきにあらざれば、今も又しらざるところなり。すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古今和歌集といふ。

  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、秋は風にちる葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みなおりにふれたる情なるべし。しかのみならず、高き屋にとをきをのぞみて、民の時をしり、末の露もとの雫によそへて、人の世をさとり、たまぼこの道のべに別れをしたひ、あまざかる鄙の長路に都をおもひ、高間の山の雲居のよそなる人をこひ、長柄の橋の浪にくちぬる名をおしみても、心中にうごき、言外にあらはれずといふことなし。いはむや、住吉の神は片そぎの言の葉をのこし、伝教大師はわがたつ杣の思ひをのべたまへり。かくのごとき、しらぬ昔の人の心をもあらはし、ゆきて見ぬ境の外のことをもしるは、たゞこの道ならし。

  そもそも、むかしは五たび譲りし跡をたづねて、天つ日嗣の位にそなはり、いまは八隅知る名をのがれて、藐姑射の山に住処をしめたりといへども、天皇は子たる道をまもり、星の位はまつりごとをたすけし契りをわすれずして、天の下しげき事わざ、雲の上のいにしへにもかはらざりければ、よろづの民、春日野の草のなびかぬかたなく、よもの海、秋津島の月しづかにすみて、和歌の浦の跡をたづね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集をえらびて、永き世につたへんとなり。

  かの万葉集はうたの源なり。時うつり事へだたりて、今の人しることかたし。延喜のひじりの御代には、四人に勅して古今集をえらばしめ、天暦のかしこきみかどは、五人におほせて後撰集をあつめしめたまへり。そののち、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、みな一人これをうけたまはれるゆへに、聞きもらし見をよばざるところもあるべし。よりて、古今、後撰のあとを改めず、五人のともがらを定めて、しるしたてまつらしむるなり。

  そのうへ、みづから定め、てづから磨けることは、とをくもろこしの文の道をたづぬれば、浜千鳥あとありといへども、わが国やまと言の葉始まりてのち、呉竹のよゝに、かゝるためしなんなかりける。

  このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とゞむべきふしもありがたきゆへに、かへりて、いづれとわきがたければ、森のくち葉かず積り、汀の藻くづかき捨てずなりぬることは、道にふける思ひふかくして、後の嘲りをかへりみざるなるべし。

  時に元久二年三月廿六日なんしるしをはりぬる。

  目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡を恥づといへども、流れをくみて、源をたづぬるゆへに、富緒河のたえせぬ道を興しつれば、露霜はあらたまるとも、松ふく風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月の曇なくして、この時にあへらんものは、これをよろこび、この道をあふがんものは、今をしのばざらめかも。

『藤原良経略年譜』(下記のアドレスなどによる。)

https://sidu.exblog.jp/1724542/

(0歳~16歳)

1169年 九条兼実の次男として生まれる。
1179年 元服し良経と名乗る。
1181年 このころから連句・詩会に出席。
1185年 従三位に叙され公卿の仲間入り。

(17歳~20歳)

1186年 父兼実が摂政となる。藤原定家が九条家に出仕する。
1188年 兄良通の死。『千載集』に入撰。
1189年 権大納言・左近衛大将となる。

(21歳~30歳)

1190年 『花月百首』『二夜百首』を詠む。
1191年 一条能保の娘と結婚。『十題百首』。
1193年 良経主催で『六百番歌合』が行われる。
1195年 内大臣となる。勅使として伊勢に下向。
1196年 建久の政変。九条家が失脚する。
1198年 『後京極殿御自歌合』を編む。
1199年 左大臣となる。

(31歳~38歳)

1200年 良経の妻、死去する。『院初度百首』。
1201年 『老若五十首歌合』、『千五百番歌合』。和歌所寄人となり、『新古今集』編纂を指揮。
1202年 内覧の宣旨を賜り、摂政・氏長者となる。
1204年 太政大臣となる。
1205年 『新古今集』が一応完成、お披露目。
1206年 曲水宴を目前に謎の頓死。享年38歳。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7

【 良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。  】(『塚本邦雄全集第14集』所収「藤原良経」(昭和50年6月20日初出))
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yahantei

 『千載和歌集』に、「左近中将良経」の歌が、七首入集されている。
若干、十七・八歳の、後の、『新古今和歌集』の「仮名序」を起草した、摂政太政大臣良経の、勅撰集の初デビューである。
 この「参考」の「院政」(白河院・後白河院・後鳥羽院)時代周辺と「藤原(九条)良経(1169-1206)」の、「世界の歴史マップ」ものの図解はよく出来ている。
 ついつい、「藤原(九条)良経年譜」や「新古今和歌集()仮名序」そして「良経の怪死(塚本邦雄もの)」、参考データのままにアップしている。


by yahantei (2020-11-03 09:12) 

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