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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十五) [光悦・宗達・素庵]

(その二十五) 和歌巻(その二十五)

和歌巻20.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

96 あかなくにちりぬる花のおもかげや風に知られぬさくらなるらむ(覚盛法師)
(花に飽きることがない心から、すでに散ってしまった桜を面影に抱き続けて来たが、それは風に知られぬ桜なのだろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
阿可(あか)な久(く)尓(に)知里(ちり)ぬるハ(は)な乃(の)於(お)も影や可勢(かぜ)尓(に)しら連(れ)ぬ桜なるら無(む)

※阿可(あか)な久(く)尓(に)=飽かなくに。飽きることながないのに。
※可勢(かぜ)尓(に)しら連(れ)ぬ=風に知られぬ。風を擬人化した。

【 覚盛(かくじょう) 生没年未詳 比叡山阿闍梨
建久二年(一一九二)『若宮社歌合』に参加。『三十六人十八番』(散佚) の撰者。千載初出。】
(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)

(参考) 『無名抄』(鴨長明著)の「覚盛法師」周辺

【 (歌をつくろへば悪事)   
覚盛法師のいはく、「歌は、荒々しく、止めもあはぬやうなる、一つの姿なり。それをあまり細工(さいく)みて、とかくすれば、果てにはまれまれ物めかしかりつる所さへ失せて、何にてもなき小物(こもの)になるなり」と申し、「さも」と聞こゆ。

季経卿歌に

  年を経て返しもやらぬ小山田は種貸す人もあらじとぞ思ふ

この歌、艶なるかたこそ無けれど、一節(ひとふし)いひて、さる体の歌とみ給へしを、年経て後、彼の集の中に侍るを見れば、

  賤(しづ)の男(を)が返しもやらぬ小山田にさのみはいかが種を貸すべき

これは直されたりけるにや。いみじうけ劣りて思え侍るなり。よくよく心すべきことにこそ。

(校注)=『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集(久松潜一・西尾実校注)』

※荒々しく、止めもあはぬやうなる=「荒削りで止めることができないような」の意か。「拉鬼体(らきてい)」(藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。)
※細工(さいく)みて=技巧を凝らして。
※まれまれ物めかし=たまたま物々しかった箇所。
※小物(こもの)=「つまらない物」の意か。
※さも=「尤も」。
※一節(ひとふし)いひて、さる体の歌=「趣向面白く表現してあって、そういう風体の歌と見ておりましたが」の意。「さる体の歌」は「誹諧歌」をさすか。  】

(参考メモ)「四季草花下絵千載集和歌巻」と「蓮下絵百人一首和歌巻」の「大虚庵光悦」(花押)周辺

 この「四季草花下絵千載集和歌巻」(個人蔵)の巻末の署名は「大虚庵光悦」(花押)で、二行に分けて書かれている。この最終場面の署名(花押)が同じ和歌巻に、「蓮下絵百人一首和歌巻」(焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵)がある。
 この「➄四季草花下絵千載集和歌巻」と「④蓮下絵百人一首和歌巻」とを比較して、『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」で、「➄は④とともに色替わり料紙を用い、しかも『大虚庵』の署名である点で製品としての体裁が共通しており、製作年や製作背景がかなり近接していることを類推させる」としている。
 そして、この「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」の末尾で、次のように記している。

【 本阿弥光悦が、徳川家康から拝領した鷹峯の地所に「大虚庵」という庵居を営むのは、元和元年(一六一五)以降である。その頃の制作が確実な「蓮下絵和歌巻」のしばらく後に製作されたとおぼしい寛永年紀の書画巻は、絹本に金銀摺絵をほどこす別な表現に変わっていく。したがって金銀泥絵の色紙や和歌巻の制作された慶長七年前後からの十五年余りこそが、本阿弥光悦と、いずれ俵屋宗達と呼ばれていく個性ある下絵作者が繰り広げた至福の時であったといえるのである。それは、関ヶ原から元和偃武にいたる時期である。元和元年を指標として琳派四百年といわれるものの、本当の意味で琳派の揺籃といえるこの時期が、それから程なくして終了したとするならば、芸術の歴史にとって何と皮肉なことであろうか。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

蓮下絵・順徳院.jpg

(「④蓮下絵百人一首和歌巻」末尾「順徳院(一首)」と「光悦署名(花押)」)

 これは、「④蓮下絵百人一首和歌巻」末尾の「順徳院」の一首に続く「大虚庵/光悦(花押)」であるが、ここには、「➄四季草花下絵千載集和歌巻」に押印されている、次の「伊年」印は押印されていない。

和歌巻21.jpg

(「➄四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印)

 ここで、この「伊年」印を取り上げた最初のものは、次のアドレスのものなのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-27

 それから、この「➄四季草花下絵千載集和歌巻」の冒頭の「伊年」印に触れての、その期間は、二年余というタイムスパンがある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-06

 この二年有余のタイムスパンは、それこそが、「本阿弥光悦と、いずれ俵屋宗達と呼ばれていく個性ある下絵作者が繰り広げた至福の時」の、それを執拗に求め続けた一つのプロセス的な記録でもある。

(追記メモ)

 この「伊年」印については、下記のアドレスなどが詳しい。そして、この「伊年」印=「俵屋」(「俵屋宗達工房」)のブランドマークとして、「俵屋宗達」個人の創作というよりは、「俵屋宗達工房」の協同(共同))創作の成果品として意味合いを強くしている。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/pdf/dic_163.pdf

 このアドレスで「伊年」印の最高傑作作品が紹介されているのだが、この作品は、「宗達のすぐれた弟子のひとりが描いた」ものとして紹介されている。

https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/91/1990_91_3_2p.pdf

 このアドレスの「伊年」印については、「俵屋宗雪、伊年、宗達弟、仕賀州太守世白宗達画多雪之筆也」などが紹介されている。

 これらのアドレスで紹介されている「伊年」印の周辺については、次のことと大きく関連しているように思われる。

【 従来の光悦書・宗達画和歌巻類の研究は、リストアップしたこれらの作品群を画の側から宗達・非宗達に分けて後者をはずし、次に前者の時系列上の位置を確定していく編年作業を主に行ってきた。ここではその成果を踏まえつつも、制作現場における書と画の協同性に考慮し、かつ巻物という形式をより重視する立場をとる。というのも、巻物は書写形式が規制される枠をもつ色紙・短冊・扇面とは異なり、左右に連続する開放的な空間を有し、書と画とがそれぞれストーリーをもち、相互に干渉し合いながら、一定の方向に連続する時空間を作り上げていくところに特色があるからだ。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

 この「宗達・非宗達」の区分けの一つとして、極論をすると、「『伊年』印=非宗達、『無印』=宗達」という見方も、一つの目安となってくる。ここで、光悦書・宗達画和歌巻類の鑑賞というのは、「光悦(光悦とその一門)と宗達(宗達とその一門)との『協同創作作品』という、「コラボレーション」(美術の世界では、作品の競作とか協力関係を意味し、複数の作家が一つの表現に関わることで、そこに起きる微妙なずれや摩擦が生み出す特有な空間を、従来のひとりの作家に限定された創作行為とは違った開かれた方法として、評価されている)
的視野が必須となってくる。
 そして、このことは「『個』としてのアーティストの『肉筆画』と「『全(集団)としてのアーティストの『摺絵・木版画など』」との「個と全(集団)との相互浸透」などと係わってくる。

【 巻物という長大な画面を受け持つ仕事であるゆえに描き手の感覚が現れやすく、それが「個」の発露につながったのだと。そうした「個」のあり方を過度に強調して集団制作にまで敷衍し、個単位に分解することはかなり危険である。見え隠れする個性と俵屋という集団の構造を緩やかにとらえる視点とスタンスを保つことが、結局のところ、この近世初頭に生まれた稀有な造形活動の全体を視野に収めていく上で適切な構え方なのではないかと思われる。 】『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」

 この「個と全(集団)との相互浸透」という視点とスタンスから、今回の「四季草花下絵千載集和歌巻」(個人蔵)を、「書画二重奏への道」の「画」の面からのみ見て行くと、「四季の花や木に月・千鳥などの季節の景物を取り合わせ、平安時代以来の金銀泥下絵巻物や大和絵系景物画と重なる素材を選択している。」(玉蟲・前掲書)
 そして、全体として「平明」で、「集団的な生産組織によるもの作りゆえに、俵屋内部のさまざまな個性をもった作り手も画房としての一定の様式を一様に担い」、この和歌巻に用いられた松林や薄のモティーフは、『平家納経』の補修部分に認められ」、全体として、「俵屋の標準的な共通様式の発展上において捉えられる。」(玉蟲・前掲書)
 さらに続ければ、光悦と宗達(そして「宗達工房」)の「書画二重奏の道」、それは、同時に、「詩(和歌)・書・画三重奏の道」、それはまた、「光悦・宗達・素庵(角倉素庵)の三重奏の道」でもあったのだが、慶長七年(一六〇二・光悦=四十五歳)前後にスタートとして、素庵が宿痾によって「嵯峨に退隠」した元和五年(一六一九、光悦=六十二歳)前後にゴールとなった、十五年余りの「走馬灯」でもあった。
 その後も、寛永年紀を有する「光悦書画和歌巻」は制作が続けられるが、それは、かっての「光悦と宗達(そして「宗達工房」)」、あるいは、「光悦・宗達・素庵」とが火花を散らした「書画二重奏の道」、あるいは、「詩(和歌)・書・画三重奏の道」とは、違った世界のものに変わり果ててしまったということなのであろう。
 そして、このことを、「元和元年(一六一五=光悦の「鷹峯移住」)を指標とした琳派四百年といわれるものの、本当の意味での琳派の揺籃といえるこの時期が、それから程なくして終了した(元和五年=一六一九)とするならば、芸術の歴史にとって何と皮肉なことであろうか」(玉蟲・前掲書)という指摘が重みを有してくる。
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yahantei

 「画像」はアップしないと、どんな画像になっているか分からない。「伊年」印の画像が、大きな画像でびっくりした。
 しかし、(追記メモ)が、『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」
で、久々に、「和歌」関係の「千載集」を離れて、「光悦書・宗達画」の「画」の方面に言及できたのは主格であった。
 ここまで来ると、次は、「四季花卉下絵古今集和歌巻」(畠山記念館蔵)の道筋が見えてくる。
 これも、これまでの「新古今和歌和歌巻」から「千載集和歌巻」と遡って「古今集和歌巻」と、この道筋も面白い。
 しかし、「書(光悦)・画(宗達)」と「詩(和歌)」との、この兼ね合いのバランスは難しい。


by yahantei (2020-11-17 16:28) 

yahantei

「光悦書・宗達画」の「画」の方面に言及できたのは「主格」であった。

「光悦書・宗達画」の「画」の方面に言及できたのは「収穫」であった。

ミス(何時のものことながら)。
by yahantei (2020-11-17 16:33) 

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