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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その二) [水墨画]

その二 「頂妙寺と頂妙寺所蔵の『牛図』」周辺

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoji/

頂妙寺map.jpg

A図(現在の「頂妙寺」マップ図=赤の位置表示の所が「頂妙寺」)

 徳川義恭は、終戦後間もない、「昭和廿一年六月」と「同年十二月」に亘って、この頂妙寺などを実地調査し、「従来不明であつた宗達の家柄は恐らく西陣の機屋俵屋一族として認めてはどうか、と云ふ仮説を提示するのである」と、その「第四 機屋俵屋と宗達派」(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)の、その「六 結論」で記述している。
この「第四 機屋俵屋と宗達派」の構成は次のとおりである

一 緒論
二 宗達の名のある俵屋喜多川家の墓
三 頂妙寺に就て
四 宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て
五 機屋俵屋に就て
六 結論

 その結論の、「宗達を祖とする畫派が、現存する機屋俵屋の祖と恐らく関係があつたに違ひないとする」、その「論拠」を次のように要約している(p89~p90)。

(一) 俵屋なる特殊の家号の一致。
(二) 喜多川姓の一致。
(三) 俵屋宗□の一致。(メモ:□=不明文字。二回目の調査で「俵屋宗達」の一致? しかし、この「俵屋宗達」が法橋となった俵屋宗達その人なのかどうかは不明とする。)
(四) 機屋俵屋と頂妙寺、及び頂妙寺の宗達水墨画。(傍系の資料として、頂妙寺と光悦、及び俵屋宗由の貞享四年に献じた一幅の存在)
(五) 蓮池平右衛門尉秀明が加賀の人と伝へられてゐる事と、宗達系の畫家と加賀の関係の密接なる事。(光悦と加賀の関係)、更に広く当時の織物業に於ける京都と加賀の関係。
(六) 時代及び土地の一致(機屋俵屋の成立と宗達の在世時代に矛盾のない事。活動の中心地の京都である事)
(七) 堺の地と機屋俵屋(堺を通しての外国技術の輸入及び商業上の関係と、宗達と堺(俵屋宗雪の書蹟、宗達筆松島図屏風、宗達系の一優品罌粟図屏風)及び(傍系として頂妙寺と堺の関係) 
(八) 宗達畫の内容と富裕なる機屋俵屋との関係、及び、宗達畫の様式と織物模様の様式との合致。

頂妙寺・古図.jpg

B図の「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

 この「B図」は、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の「本阿弥辻子・本法寺・妙蓮寺・妙顕寺」の絵図の、「東・北」側の「院御所」(現在の「厳島神社」付近?)に移動した図で、その「院御所」(後水尾院などの仙洞御所?)の左下側に隣接して「頂妙寺」がある(この「院御所」の右側に「知恩寺」がある。これは浄土宗総本山の「知恩院」ではない)。
 ここで、下記のアドレスによる「頂妙寺寺地の変遷」を掲載して置きたい。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/?mode=m&no=200&photo=true

【 頂妙寺寺地の変遷
日蓮宗京都二十一箇本山の一つ頂妙寺は、現在では、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという。ここに落ち着くまで、洛中洛外を転々としてきた。
 1473(文明5)年、日祝(日常8世)が上洛し、檀越の武将・細川勝益(?~1502)の篤い帰依によって寺地の寄進を受け、頂妙寺を開山した。当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地であった。
 その後、1509(永正6)年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町に移る。ついで、1523年(大永4)年には、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門に移転し、法華宗洛内法華二十一箇本山の一つになる。中御門通は現在の椹木町筋に当たる。
 1536年(天文5年)の天文法華の乱で、他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は1546年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
 1573(天正元)年、信長の上京焼打ちにあった。フロイスの1573年5月27日付の書簡のなかに掲げた20ヶ寺の焼失寺院名リストの19番目の「ch?mennji」が頂妙寺のことだと思われる(松田,川崎訳「フロイス 日本史4」p.302、中央公論社、1978)。寺地は鷹司新町に移されたという。
 織田信長の命により、浄土宗と法華宗の間で行われた1579年(天正7年)の安土宗論には頂妙寺から三世日珖が臨んだが破れ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。寺地はそのままであったとみられている。
 1584年(天正12年)には豊臣秀吉の命により、布教を許され、愛宕郡田中村に於いて、寺禄21石7斗を附される。1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った。
 そして最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている。 】

 上記の末尾の方の「1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った」というのは、いわゆる、秀吉の「聚楽第(京都新城)」の整備に伴う都市改造で、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-14

 また、「最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている」というのは、徳川第五代将軍綱吉の時代で、徳川家康の時代に、光悦らが「洛中から洛外(鷹峯)へ」の移住を強いられたと同じような、「禁裏・院御所」付近の新たなる都市整備に伴うもののようにも解せられる。

厳島神社と頂妙寺.jpg

C図(現在の「厳島神社」=B図の「院御所?」と現在の頂妙寺)

この図(C図)の上部左側に、「厳島神社」=B図の「院御所?」がある。その左側に「頂妙寺(B図)」があった。この「頂妙寺(B図)」の土地は、上記の「結論」の「論拠」(五)に出てくる「蓮池平右衛門尉秀明」(「俵屋喜多川氏の元祖)が、天文十九年(一五五〇)に寄進したことが明らかにされている(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p100~p101)。
 この「頂妙寺」(現在の厳島神社の左に隣接していた)が、1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、この(C図)の右端の下(北側)に移転させられたということになる。
 さて、この「頂妙寺(B図)」に、「俵屋宗達筆・烏丸光広賛『牛図』(双福)」が所蔵されている。その頂妙寺の「霊寶目録」が次のように紹介されている。

【 牛図二幅対 賛、正二位大納言烏丸光広公、畫、宗達。竪三尺一寸四分。幅一尺四寸五分、表具、上下天竺織物、一文字黒地金。  】(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p102)。

そして、この「水墨牛図は既に私は正筆と認め、先に雑誌座右寶(創刊号)に述べておいた」(『同書p102』)とし、その解説文などは省略されている。
 ここで、この賛をした「正二位大納言烏丸光広公」の、当時の住居の「烏丸殿」が、このB図の「頂妙寺」の上部(北側)の二軒目と隣近所の位置なのである。

烏丸殿.jpg

B図の拡大図(「頂妙寺(左下)と烏丸殿(左上)」)

【 烏丸光広  没年:寛永15.7.13(1638.8.22)  生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』(伊東正子)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「牛図」(頂妙寺蔵)については、下記のアドレスなどで、次のように触れている。その関係する部分を再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
(再掲)

牛図.jpg

【『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」
【 宗達の水墨画中、屈指の傑作として知られるこの対幅には、烏丸光広(1579~1638)の賛がある。向かって右側の和歌は「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」。また、左幅の漢詩は「僉曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽復何求(花押)」。力量感にあふれる牛の体躯を手慣れたたらし込みの技法によって、じつに躍動的に描いている。】「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」の解説

(周辺メモ)
一 この光広の賛の「花押」は二羽の「蝶」のようである。宗達の描く「牛」は、その「蝶」に戯れている。(『俵屋宗達(古田亮著)』など)
二 この光広の賛(和歌)の「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」は、「つながぬうしのやすきすがたに」の「自由」こそ「平安・安らぎ」の象徴か(?)この漢詩の「僉(ミナ)曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽(シュク)復何求(花押)」は、「仁牛→一角牛」→「『仁』カラ『縦横心自足』」スルト『牛』トナル」→「匈菽(シュク)復何求」……という「謎句」仕立てらしい(?)
三 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。  】
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yahantei

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」は、詳細に見ていくと、いろいろのことを教えてくれる。この頂妙寺の二軒上に、烏丸殿(烏丸光広)を見つけたのは、大きな収穫であった。
 この長明寺が、宗達の仕事場の一つとの仮説を設定すると、烏丸光広と宗達のコラボ(宗達画・光広賛)とが、隣り同士で、スムースに行ったのではないかとか、その種の夢想が広がって行く。
 そもそも、俵屋宗達という画家を明らかにしたのは、宗達の「旧毛利家本西行法師絵詞」に、烏丸光広が、寛永七年の奥書を今に遺していることによる。
 爾来、光悦と宗達との関係も、光悦門の光広を介して、そして、この「光悦・光広」等々のサロン(そして、それは、後水尾院サロン)の中で、大きく飛翔することになる。
 そして、その最大の「寛永の文化サロン」の中心人物と目される「後水尾院」の「院御所」(仙洞御所)に、頂妙寺も光広邸も隣接しているのである。
 この「院御所」(仙洞御所)と、光悦等の「本阿弥辻子」とは、それほど距離は離れていない。
 一枚の「寛永後萬治前洛中絵図」(京都大学附属図書館蔵)が、実に、いろいろのことを夢想させる。

by yahantei (2020-12-19 10:20) 

yahantei

 上記の「長明寺」は「頂妙寺」のミス。その他、思い違いもあるのだろう。
by yahantei (2020-12-19 10:23) 

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