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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その九) [水墨画]

その九 「鴨(宗達筆・個人蔵)」周辺

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A図「鴨図」 俵屋宗達 一幅 紙本墨画 九四・〇×四三・六 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 
【 鳥類を扱った宗達水墨画の遺品は多い。この図は鴨の立った姿を、濃淡をきかせた筆で巧みに描写する。簡略な筆で写実的表現にはほど遠いが、羽毛や脚に用いたたらし込みの墨が、面白い味わいを見せる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

【 之は稍軽い感じのする宗達である。併し其の軽さも浮薄と云ふべき性質のものではない。落着き在る美しいものである。光琳になると此の軽さが少し目立つ様になつて来る。特に狩野派の様式に入つたものには感心出来ない絵が多い。併しそれを除けば、大体に於て、光琳の軽さには快いリズムがある。それは矢張り彼が円山・四條派の画家などと違つて、美的感覚が豊かであつた為である。光琳の名作には宗達に十分対抗出来るものがあるが、其の画業を広く見渡して評価すれば、宗達の方が画家として上位に置かれなければならない。最近は大体この考えへになつて来た様であるが、宗達の芸術が光琳によつて大成されたと見るのは勿論誤りである。宗達はあれで一つの頂点を示してゐる。光琳は宗達の芸術からヒントを得て、更に一つの境地を確立した偉大な画家であるが、宗達に比べれば深さを欠く場合が屡々ある。抱一に至つては悪い甘さばかり目立つて、質は遥かに落ちる。尚、此の鴨の図は左が明らかに切詰められた形跡がある。円印が外へかかる場合は在つてもよいと思はれるが、此の図の様に嘴が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう。
】 (『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第七図」p12~p13 : 竪一〇〇・六㎝ 横四五・八㎝ )

https://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/215038.html

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B図「鴨図」 俵屋宗達 (美術画報 三十七編巻二(1914年12月24日) / 037-02-004 )
落款 法橋宗達 印章 「対青軒」朱文円印
【 Ⅰ-79 鴨図 俵屋宗達筆 紙本墨画 竪一〇五・〇㎝ 横四四・〇八㎝ 
 宗達は、水墨画で鷺や鴨を好んで描いた。白い姿を背景から浮かび上がらせる鷺、「たらし込み」によって立体感を生み出す鴨は、宗達の水墨画に適したものだったのだろう。本図と同じ横向きの鴨図が他に何図か知られており、光琳の「小西家旧蔵資料 宗達風芦雁図写」(図録№Ⅱ・20②)にも同様の鴨図が数図写されており、光琳にとっても感じるところの多い図柄であったことがわかる。本図は現存する鴨図の中でも墨の諧調が美しく立体感の表現に優れた作品で、背景に何も描かず広やかな空間を感じさせる。「法橋宗達」と署名し「対青軒」朱文円印が捺されている。】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-79 鴨図(田沢裕賀稿)」) 

 上記の徳川義恭の「図版解説第七図」(p12~p13)は、その形状からすると、上記のA図「鴨図」を見てのものではなく、B図「鴨図」を見てのもののように思われる。これは、確かに、左端の上部の「対青軒」朱文円印が、「此の図の様に嘴(端か?)が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」という雰囲気で無くもない。しかも、落款が、「法橋宗達」で、「法橋宗達」は「晴れ(晴れ着)の宗達の落款」、「宗達法橋」は「褻(普段着)の宗達の落款」との区別(我流の見方)からすると、これぞ、対外的に「正真正銘の宗達自筆」と誇れる「鴨」図の一つということになる。
 それにしても、A図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」と、B図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」が瓜二つであることか。しかし、「鴨」全体の風貌は、そして、その「たらし込み」などの濃淡の技量の冴えは、確かに、B図「鴨図」(法橋宗達)の方が、A図「鴨図」(宗達法橋)よりも優れている感じで無くもない。

https://twitter.com/koizumi_rosei/status/887098698412417026?lang=bg

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C図「鴨図」俵屋宗達 (円印の端が切れている。落款は「宗達法橋」)

 このC図「鴨」図の、印章(「対青軒」朱文円印)は、半分切れている。これは、「表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」の見本のようなものであろうか。この「鴨の姿態」は「左向き」で、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、「右向き」の「鴨の姿態」ではない。しかし、その「鴨」の「顔かたち」は、全く、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、その「顔かたち」と同じという雰囲気を有している。  
 
  醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

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紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この他に、「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」と「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(いずれも「重要文化財)が所蔵されている。
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「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院

宗達・扇面.jpg

「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(重要文化財) 二曲一双 醍醐寺三宝院

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その一)

https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1012.html

【『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』(吉川弘文館)が出版された。これは醍醐寺三宝院門跡・覚定、醍醐寺三宝院門跡・高賢、公家の二条綱平という人物たち(注文主)と、京都で活躍した絵師たちとの関係に注目した本である。
実は、この三人の注文主たちには姻戚関係がある。覚定の兄の孫が高賢であり、その高賢の甥が二条綱平である。従って、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』は姻戚関係をもつ注文主たちと絵師たちがどの様につながっているのか、その多くの具体例を紹介する内容となっている。
 絵画史研究は先ず作品、そして絵師に着目し、そこから多くの問題を考えてゆくのが普通である。しかし、この本はそうではない。先ず注文主に着目している。つまり、通常の研究手続きとは全く逆なのだが、注文主に注目すると今まで気づかなかったことが見えてくる。
 たとえば、俵屋宗達が描いた作品に「源氏物語関屋澪標図屏風」がある。言うまでもなく、これは国宝にも指定されている日本美術史上屈指の名品である。現在、東京の静嘉堂文庫美術館にあるが、これは明治28年頃までは京都・醍醐寺の所蔵だった。そして、これについて、醍醐寺三宝院門跡・覚定の日記『寛永日々記』寛永8年(1631)9月13日条に、こんな記録がある。
 源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

 寛永8年9月13日、宗達が描いた「源氏御屏風壱双」が醍醐寺三宝院門跡・覚定のもとに納品されたというのである。この「源氏御屏風壱双」は「源氏物語関屋澪標図屏風」のことだと考えてよいから、この記録から「源氏物語関屋澪標図屏風」が寛永8年に描かれたことが明らかとなる。しかし、ここから分かるのはそれだけではない。この作品を描かせたのが覚定であり、覚定はその出来映えに満足したことも同時に分かるのである。
 では、覚定は「源氏物語関屋澪標図屏風」のどこに満足したのだろうか?それを探るため、覚定について調べてみると面白い事実に気づく。当時、覚定は25歳だったのである。つまり、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、宗達が25歳の注文主・覚定のために描いた作品だったのである。
 そして、この25歳の注文主を満足させるため、宗達は画題選択を始め、いくつかの趣向を凝らした。そして、それらが「源氏物語関屋澪標図屏風」の面白さにつながっている。】

『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(吉川弘文館)』(メモ)

(p2-p3) (p93)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

(p30-p58) 三宝院門跡・覚定と俵屋宗達

『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条

源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)

http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

関屋澪標図屏風.jpg

「関屋澪標図屏風」俵屋宗達筆 六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝
落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝
【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。
寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

※※後水天皇とそのサロンのことなどについては、次のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-13

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-06
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yahantei

「俵屋宗達と醍醐寺」周辺について、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(吉川弘文館)』(五十嵐公一著)で、それまで分からなかった点が、おぼろげながらに分かってきた。

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢 ※二条綱平

 この「※三宝院覚定」と「鷹司信尚」は兄弟で、この信尚の夫人が、後水尾天皇の妹なのである。そして、後水尾天皇と一条兼遐とが兄弟で、これらの関係から、「宗達書簡」の幾つかの背景が明瞭となってくる。
 そして、醍醐寺の「三宝院宿坊」(門跡宿坊)が、御所の近くで、当時の「頂妙寺」(「伝宗達墓」と宗達筆・光広賛「牛」の所蔵寺)や烏丸光広邸などと近距離にあるようなのである。
 これらを背景とすると、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」・「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」・「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」、さらには、国宝の「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)の背景などが見えてくる。 
by yahantei (2021-01-11 16:00) 

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