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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十) [水墨画]

その十 「水禽(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝
 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。此の図や、先の蓮池水禽図には、伊年と云ふ円印が在る。扶桑名公画譜には伊年を宗雪のみに結びつけ、宗達に迄及ばしてゐないが、宗達が伊年を称してゐた事は認めるべきであると思ふ。第一に、其の様式に疑ひの無い事、第二に、伊年と称した此の系統の画家の多いと云ふ事実は、取りも直さず最初の伊年が偉大であつたのを証明して居ると考へられる事、が理由として挙げられる。尚、家蔵自筆「桧山担斎襍(雑)記」には

俵屋宗達 号郭大年 即見図円印楷字 是元祖伊年トモ称 子孫同名而相続(六七代迄) 初代カ二代ヨリ加州公に召抱ラル 祖宗達ハ画雪(楽)ニ学 右杜陵子話

とある。杜陵子とは抱一のことである。此の記事は信憑するに足らぬものであるが、伊年が六、七代まで続いたと述べてゐるのは、やゝ興味がある。
 何れにせよ、伊年の初代は宗達であり、次で宗雪、相説、女重春、順定、白井(白井宗謙即ち何帛か)などがあるが、今日画蹟に依つて見ても、確かに数人を伊年画の中に分つ事が出来る。
 又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 この「第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝」については、その、「飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる」ということから、次の「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)のような「水禽」図なのであろうか(その「第八図 右」は未見)。

蓮池水禽図・山種美術館.jpg

https://twitter.com/yamatanemuseum/status/639284228107055105/photo/1

(再掲)

【 22・23 蓮池水禽図 宗達 掛幅 紙本墨画 一一八×四八・三㎝ (山種美術館蔵)
 国宝の「蓮池水禽図」(上記の京都博物館蔵のA図)は酒井抱一が絶品と褒める箱書もあり、かねてより特別の作と扱われていたようだが、宗達派には本図(上記の山種美術館蔵のC図)をはじめ多数の「蓮池水禽図」が遺されている。多くはもと押絵貼屏風であったようだが、それらの中には補修で「伊年」印が消されるなど、こうした作品群の評価の揺れ動きを物語る実例もある。鳥(いずれもかいつぶり)のポーズや花の形などには数種のパターンがあり、その組み合わせで多くの作品が制作されたのであろう。本図の身をよじって跳ね上がる愛嬌あるかいつぶりの恰好も、他の作品の中に見ることができる。なお、脚と羽の一部は補筆である。
 花や蕾の形、線描などなんの躊躇もない堂々としたものである。裏返る花びらや果肉の簡潔な形態、線のない荷葉(蓮の葉)などいかにも描き慣れた様子で、様式化・記号化の定着が窺える。類品の間には力量の差が見られるとはいえ、淡墨の面とたらし込みによる表現は、一面で工房制作に適したものとなっているといえよう。「蓮池水禽図」には「伊年」印が捺されたものが多く、それを宗達の法橋叙任以前の作とする説に従えば、そうした早い時期にすでに需要を得、応える法が確立していたということになる。(松尾和子稿)  】(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

鴨脚図.jpg

「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)拡大図(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

 この水禽(かいつぶり)は、「特に足が少し気になる」((『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15))。そして、「脚と羽の一部は補筆である」(水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)と、改装の際の補筆の跡も窺えるようである。

鴨図三.jpg

「鴨図」(俵屋宗達筆) 紙本墨画 一〇二・八×四八・六㎝ 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印
【 室町期以来、水墨画の好画題として芦雁図が描かれてきた。宗達は、その伝統を受け継ぎながらも、雁を鴨にすりかえて芦鴨図を描いた。醍醐寺所蔵の衝立が、その代表作である。このように宗達によって新しく画題に加えられた鴨図の遺品は、雁図と共にかなりの数にのぼる。本図も、それら宗達派によって描かれた一図で、類型化して行くなかで足を描くことを忘れたのであろうか。それにしても、鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい。 】(『烏丸光広と俵屋宗達・板橋区立美術館』所収「作品解説77」 )

この図は、「鴨の脚が無い」。そして、落款は「宗達法橋」なのである。空中を飛んでいる鴨の場合は、脚が腹に密着して隠れて見えないような図柄もあるかも知れないが、これは水中から飛び立つ鴨の図で、やはり、「足を描くことを忘れた」という感じが濃厚である。
しかし、白い水仙の花と白い鴨の腹との、その造形的な配慮で、例えば、醍醐寺三宝院所蔵の「舞樂図屏風」に見られる「空間における配置と色彩の妙(この「鴨」図では水墨画の「黒」と「白」との妙)の対比の面白さを狙ってのものという、そんな雰囲気も伝わってくる。
 その上で、この鴨の表情は、「鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい」限りである。

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」

【p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

 後陽成天皇(一五七一~一六一七)は、天正十四年(一五八六)に即位し、慶長十六年(一六一一)に後水尾天皇に譲位するまで、在位二十六年に及んだ。和漢の学問的教養に造詣が深く、書・画を能くし、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。
 この後陽成天皇の活躍時期と、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)と俵屋宗達(?~一六四一)とのコラボレーションの「書(光悦)・画(宗達)和歌巻」の一連の制作時期(慶長五年=一六〇〇=「月の和歌巻」~元和元年=一六一五=鷹峯「大虚庵」へ移住)とはオーバーラップする。
 そして、それらを、「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)に続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=7398

後陽成天皇書.jpg

[重要美術品]「宸翰 御色紙」 桃山時代(16世紀)紙本墨書 軸装 22.0×18.2cm 東京富士美術館蔵
【後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。】

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 p89~「後陽成天皇と料紙装飾(野口剛稿)」P97~
「後陽成天皇と宮廷画家宗達(野口剛稿)」

【p89~ 御所に色紙を申し入れたところ、「下絵無之ハ不被遊ト」、すなわち後陽成天皇は下絵の無い色紙には筆を遊ばされない、という内容が記されている。

P91~ 天正十五年(一五八七)に正月の三節会、慶長六年(一六〇一)には叙位、県召除目を復活させ、また南北朝時代に途絶えていた立太子の再興を企画するなど、朝儀の復興に情熱を傾けた。これは、以降の近世天皇による朝儀復興への意思の最初の表れといえる。後陽成天皇はまた、源氏物語や伊勢物語などの注釈的研究に努め、正親町天皇(一五一七~九三)の時代には三条西公条により行われた源氏物語の講釈を自ら行った。源氏講釈は実に四十回にも及んだといい、曼殊院本をはじめとする『源氏物語聞書』や『伊勢物語愚案抄』が残される。後陽成天皇は和歌を好み、正親町天皇の時は低調であった歌会も完全な復興を遂げた。自身の古今伝授こそ果たせなかったが、御会始や水無瀬法楽、北野法楽、七夕、十五夜、重陽などの年中行事化した歌会はもとより、毎月二十四日の月次の歌会も恒例になったようだ。文禄二年(一五九三)には『詠歌大概』を講じ、歌学への関心も示している(『御湯殿上日記』同年九月五日条)。
 こうした熱心さは、後陽成天皇が和歌や古典文学を宮廷文化の中心に位置付けていたことをうかがわせる。そして、かかる伝統の再評価と継承を目指す一連の行動は、朝廷や公家の権威を再確認するとともに、その存在意義をアッピールするものであった。

P91~ このような好学、尚古主義の後陽成天皇の料紙下絵のこだわりは、単に個人的な趣味ではなく、また当代における料紙装飾の隆盛を反映するだけでもない。歴史的に天皇と密接に関わってきた料紙装飾の伝統を自覚し、それを領導してゆこうとする意志の表れと見るべきではないかと考えられる。

P94~ そうした絵屋のひとつが俵屋であり、その主宰者が宗達である。俵屋は、その絵屋の屋号である。初期の俵屋の仕事が記念すべき「平家納経」の補作以下、金銀泥を用いた料紙装飾という分野で展開しているのも、既述の絵屋の仕事内容と齟齬しない。巻物や色紙形式の料紙装飾とともに、俵屋初期の様式を示す扇面画が多いのも絵屋の仕事にふさわしい。最近は、俵屋にも土佐派の関係者がいた可能性が指摘され、絵屋としての成り立ちにも示唆が与えられるようになった。

P94~ 宮廷と俵屋を結びつける接点には、さまざまな事柄が作用している。後陽成天皇の能書と料紙装飾の染筆、料紙装飾を含む伝統的な文化を天皇権威に結びつけて導いていこうとする意思、慶長勅版に端を発する印刷出版の隆盛、写本や古活字本の謡本の流行、雲母刷りの復興や金銀泥摺りの開発、そして、町衆勢力の拡大と密接に関連する絵屋の活動の活発化。慶長という時代の歴史的条件が俵屋を存在たらしめ、かつ俵屋と天皇を接触させたといえるのである。 】

P97~ 慶長年間後半から元和初年の宮廷画壇に有力な画家が備わっていたが、しかしその間にも、宗達とその工房の絵は宮廷に浸透していった。俵屋の絵が宮廷で享受されていたことが文献的に確認されるのは、元和年間に入って間もなくである(メモ:「中院通村」の日記の元和二年=一六一六、三月十三日の条、狩野派の松屋=狩野興以に「俵屋絵」の見本を示す)。

P99~ 「寛永年間における宮廷関係の宗達の画事 → 省略
P102~ 「元和年間における宗達の画事」     → 省略
P103~ 「後水尾天皇の禁裏文庫と宗達」     → 省略
P109~ 「三 俵屋の草花図と宮廷」       → 省略   】

慶長勅版.jpg

『古文孝経』 古活字版(慶長勅版) 1599年(慶長4)刊国立国会図書館所蔵

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 P87~ 「後陽成天皇と活字印刷、あるいは謡本(野口剛稿)」」 → 省略

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yahantei

『「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)と、それに続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。』



 これは、『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』に接して、これまで、疑問であった、「光悦書・宗達下絵和歌巻」の、このコラボレーションが、どうして生まれたのかという、その背景の一端に触れた思いがした。
 また、「光悦・素庵・宗達」の、その「嵯峨本」の刊行も、やはり、この後陽成天皇(院)の「慶長勅版」を背景にすることによって、始めて、その全貌が見えてくるのかも知れない。そして、それはまた、徳川家康による「伏見版、駿河版」とも関連しているのであろう。
 そして、この後陽成天皇(院)と徳川家康との葛藤というのは、まさに、桃山時代から江戸時代への移行の、最も大きな、且つ、象徴的な要因となっていることが、つぶさに分かってくる。
 そういう観点で、「後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)」を見ていくと、この「鷹」は、「武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流」せんとする「後陽成天皇(院)」を象徴するというイメージというよりも、ことごとく、「王朝文化」を剥奪して行く、最晩年の非情なまでの「徳川家康」の冷酷なイメージがオーバーラップしてくる。
 後陽成天皇は、その「第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648)」に譲位しようとしたが、頑として受け入れられず、「第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)」に譲位せざるを得なかった。
 この後陽成院と後水尾天皇の葛藤も、これまた、大きなドラマである。


by yahantei (2021-01-14 12:35) 

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