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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十二) [水墨画]

その十二 「装丁画家・徳川義恭」と『宗達の水墨画(徳川義恭著・座右寶刊行会)図版』周辺

花ざかりの森.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』表紙装幀画(徳川義恭画)

徳川義恭・山水画.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』見返し頁山水画(徳川義恭画)

【 花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) NCID BA38760328
※A5判。紙装。フランス装カバー。本文用紙に和紙使用(若干数の洋紙刷本あり)。247頁
※カバー装幀:徳川義恭。白地に尾形光琳の躑躅図を模した扇面。見返しには水墨の山水。
※中扉裏に「清水文雄先生に献ぐ」と献辞あり。
※奥付頁にある著作者略歴に「大正四年生」と誤植があり、訂正紙を貼付(ごく一部、三島自身が自筆で訂正したものがある)。
※収録作品:「花ざかりの森」「みのもの月」「世々に残さん」「苧菟(おつとお)と瑪耶(まや)」「祈りの日記」「跋に代へて」。  】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 徳川義恭は、三島由紀夫より四歳年長で、学習院中等科・高等科の先輩に当る。その学習院時代の三島由紀夫(当時、十六歳)が、昭和十六年(一九四一)「花ざかりの森」を書き上げ、恩師の清水文雄の推奨で、その清水の同人月刊誌『文藝文化』に「花ざかりの森」を発表する。この年の十二月八日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が幕開けする。
 そして、昭和十九年(一九四四)、学徒動員の前の十月に、処女短編小説集『花ざかりの森』を刊行する。その前年に三島が書いた、徳川義恭宛ての書簡が遺されている。

【 国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。— 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この書簡を書く一年前の昭和十七年(一九四二) 東文彦、徳川義恭と共に同人誌『赤繪』を創刊する。その『赤絵』は、彼らの先輩の多くが参加した「西洋文学・西洋画」を基調とした「文芸・美術雑誌」の『白樺』を意識しての、「白」に対する「赤」という「捩り」のようにも取れるが、次の、三島が東文彦に宛てた書簡が、当時の彼らの真意の一端を物語っている。

【「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。— 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

白樺.jpg

『白樺』創刊号の表紙(岸田劉生装幀画)

 三島由紀夫は、徳川義恭が亡くなった後(昭和二十四年=一九四九、没年齢=二十八歳)、その八年後の昭和三十二年(一九五七)に、徳川義恭をモデルにした短編小説「貴顕(中央公論 1957年8月)」を執筆する。
 この「貴顕」については、次のアドレスの、「三島由紀夫のイマジナリ ・ポートレイトーー『貴顕』をめぐって(十枝内康隆稿)」が参考となる。

https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3112&item_no=1&page_id=13&block_id=17

 その「貴顕」は、その主人公・柿川治英(モデル=徳川義恭)の、次のポートレイトー(肖像画)の記述より始まる。

【さて、 私の描く肖像画は、 初期銀板写真の額縁のやうな螺鈿や金銀のアラベスクに飾られた楕円形でありたく、又その胸像は横向きであったはうがいい。なせなら彼の横顔は日本人にまれに見る秀麗さで、その鼻は正確な羅馬鼻であるし、唇のはじのくびれは希臘彫刻の唇のそれに似てゐたからである。ほとんど血の気のないほど白皙のその顔には唇の淡紅が目立ってゐた。 】

 そして、その「貴顕」は、その主人公の死顔(デスマスク=ポートレイトー)の記述で終わっている。

【 婦人が顔の白布を除けた。私はその美しさにおどろいた。人間の皮膚の色を脱した白さが、希臘風の横顔を包んでをり、その鼻梁の正しさは似るものがなく、その口もとの括れは彫刻としか思はれなかった。しかし死顔のうかべてゐる云はうやうない晴朗さは、私を安心させた。実際、内心のあらはれとしての晴朗さではなくて、顔の正しい形態そのものの放っ晴朗さは、かうして死後までも残るものである。 】


補記 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第一図から第八図・右:第八図・左」周辺(国立国会図書館蔵本)

第一図 牡丹 竪九六・七㎝ 横四四・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-21

第二図 鴛鴦 淡彩 竪九三・九㎝ 横四七・七㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-24

第三図 鴛鴦 竪一〇一・五㎝ 横四三・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

鴛鴦二.jpg

右図=第二図(部分図、この下部の左に落款「法橋宗達」) 
左図=第三図(部分図? この左端の落款「宗達法橋」か? 竪一〇一・五㎝とすると、この上部に賛をする余白がとられている?)

第四図 兎 竪四二・四㎝ 横四五・五㎝

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『宗達画集・審美書院・大正二年刊』(国立国会図書館デジタルコレクション) コマ番号76/86)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015931

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第四図」は、上記のものであった。

第五図 狗子 竪九〇・三㎝ 横四四・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-05

第六図 蓮池水禽 竪一一七・六㎝ 横五〇・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

第七図 鴨 竪一〇〇・六㎝ 横四六・一㎝

蓮池・鴨.jpg

右図=第六図(蓮池水禽図)
左図=第七図(鴨) → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第七図」は、上記の「左図=第七図」の「落下する鴨」の図であった。これと同じような「落下する鴨」が、下記のアドレスの『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』に収載されている。
 上図(第七図=鴨)の落款は「宗達法橋」、そして、印章は「対青軒朱文円印」で、それが、鴨の尾の上部に記されている。それに比して、下図(鴨)の落款と印章(「宗達法橋」と「対青軒朱文円印」は同じ)は、一番下部の左端に記されている。よく、その細部を見て行くと、上図の鴨の首は黒一色であるが、下図の鴨の首には、その黒い首に白い首輪のような一筋が入っている(上記の「鴨」図は、『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)のかも知れない)。
 また、これらの鴨の脚も、下図では黒の二点が描かれているが、上図では一点の黒ボチだけである。そのように、細部を比較しながら見ていくと、いろいろな相違点が浮かび上がってくるが、雰囲気は、全く同じ、あれこれと詮索せずに、いずれも「宗達法橋」の作とすることに、躊躇を感じない。

落下の鴨図.jpg

「鴨(俵屋宗達筆) 『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』所収
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906563

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)と第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

蓮池水禽五幅.jpg

(左図の一) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図
(左図の二) 畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(左図の三) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印    → C図
(右図の一) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図左 蓮」無印
→ D図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第80図 →部分図
(右図の二) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図右 水禽」伊年印 → E図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第82図

 この(右図の一)と(右図の二)については、下記アドレスの「コメント」欄で記している。その誤記などを修正して再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

(再掲)

【「補記」を追加した。『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の図版は未見であったが、「国立国会図書館蔵本」で見ることが出来た。終戦直後の、昭和二十三年(一九四八)当時の出版で、最近の図版などと比較すると見劣りはするが、著者が、どのような図版で、その「図版解説」をしたのかは、やはり、その著書の図版を見ないと、隔靴搔痒の感はゆがめない。
 しかし、そのスタート時点では未見であったが、そのゴール地点で見ることが出来たのは大きな収穫であった。何よりも、その隔靴搔痒のうちに、その過程で、種々の出版されている多くの図録を見る絶好な機会であった。
 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の、その献辞に「千沢梯治学兄に」し記されているが、その「学兄千沢梯治」が、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」を草したのであった。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

《風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。》(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)】

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yahantei

 文庫版の『『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』(図版なし)を、思い出したように、その戦後間もない頃に出版された小冊子を取り出し、大型の図録などと併せ見ていくと、さまざまなことが
去来した。そして、「光悦・宗達・素庵」などの、「信長・秀吉・家康」の激動の時代と、「太平洋戦争」の、その「戦前・戦時・戦後」の激動の時代の「東文彦・徳川義恭・三島由紀夫」の姿がオーバラップしてくる。
by yahantei (2021-01-23 16:56) 

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