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醍醐寺などでの宗達(その一・「醍醐寺の水墨画」) [宗達と光広]

その一・「醍醐寺の水墨画」(「芦鴨図〈俵屋宗達筆〉」など)周辺

 醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

芦鴨図一.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 上記の年表の「このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」というのは、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を指している。
 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。

烏丸殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(A図:烏丸殿と頂妙寺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24215%2C13535%2C3305%2C6435&r=270

 烏丸光広が大納言に叙せられたのは、元和二年(一六一六)、三十八歳の時で、この年に、徳川家康(七十五歳)、その翌年に後陽成院(四十七歳)が没している。
 そして、宗達関連では、後水尾天皇の側近で歌人としても知られている「中院通村(なかのいんみちむら)」の日記(元和二年三月十三日の条)に、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)来候由也、則申附夜之事、御貝十令出絵書給(貝合わせの絵を描かせることを命じ)、本二被見下、一、俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉(その参考の絵として「鹿と紅葉の俵屋絵」を見せた) (省略)」と、後水尾天皇は「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を持っていて、これを参考にして「貝合わせの絵」を描くように、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)」に命じたということが記されている。
 この「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師は、「俵屋宗達」という有力資料の一つなのであるが、これとて、確証のあるものではない。

中院殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(B図:烏丸殿と中院殿)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(B図)の左(西)の一番下(南)の「中山殿」の下が「日野殿」(「烏丸家」の本家)で、この「中山殿」と「日野殿」の左側に隣接しているのが「烏丸殿」(家格=名家)である。そして、ここが元和二年(一六一六)当時の権大納言・烏丸光広の屋敷と理解したい。
 その上で、当時、二十八歳、その翌年に権中納言に叙せられる中院通村の「中院殿」(家格=大臣家)は、この図の右(東)の一番上(北)に「中院中納言殿」で図示されている。その下の「高松殿」は、後水尾天皇(後陽成天皇の第三皇子)の弟に当る「高松宮(有栖川宮)好仁親王」(後陽成天皇の第三皇子)の屋敷かも知れない。
 因みに、この図(B図)の左(北)上(北)部の「一条殿」は「一条昭良」(後陽成天皇の第九皇子・一条家十四代当主)、この「新院御所(後水尾院?)」の上部(北)に図示されている(このB図の上=北側に図示されている)「近衛殿」が、「近衛信尋」(後陽成天皇の第四皇子・近衞信尹の養子となり、近衞家十九代当主)の屋敷関連と解すると、当時の「後水尾天皇」(後陽成天皇の第三皇子。母は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子)の、その文化サロン圏内の一端が、この「A図」と「B図」とで明瞭となって来る。
 下記のアドレスの、「中院通村年譜稿―中年期元和三年~八年―」(日下幸男稿)に、その文化サロン圏内の宮廷歌会(「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」)に関する記録などが遺されている。

https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

【五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。 】

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟

 この錚々たる後水尾天皇を取り巻く親王と上層公家衆の中に、細川幽斎より「古今伝授」を継受された者が、「智仁親王=八条宮智仁親王・烏丸光広・中院通村」と三人が登場する。
 さらに、数少ない「宗達関係資料」の中で、「一条兼遐書状」(後水尾天皇勘返状)、「中院通村日記」(元和二年三月十三日の条)、そして「『西行物語絵巻(俵屋宗達筆)』奥書」(「特進光広」奥書)と、これまた、三人の名が登場する。
 そして、これらの中で、宗達と最も関係の深い人物が「烏丸光広」ということは、これは紛れもない事実と解して差し支えなかろう。

三宝院門跡.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(C図:三宝院門跡宿坊周辺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=27010%2C13733%2C2006%2C3971&r=270

 この図(C図)の右(東)上(北)部に「三宝院門跡」とあり、ここは「醍醐寺三宝院門跡」の宿坊(宿泊施設)が図示されている。
 そして、寛永八年(一六三一)に、現在、静嘉堂文庫美術館蔵となっている醍醐寺旧蔵品の「源氏物語関屋澪標図屏風」(六曲一双)の制作依頼人が、当時の醍醐寺三宝院門跡の「三宝院覚定」であることが、その覚定の日記の「寛永日々記」(寛永八年〈一六三一〉九月十三日の条)の「源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也」という記述から確認され、ここから、「宗達と醍醐寺」との関係というのが、その姿の一端を現したということになる(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』)。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

 ここでは、この図(C図)の中央下部の「鷹司太閤殿」というのは、醍醐寺の門跡の「三宝院覚定」の兄に当る「鷹司信尚」(官位は従一位・関白・左大臣)その人で、その妻は、後水尾天皇の姉(後陽成天皇の第三皇女)に当る「清子内親王」であることを特記して置きたい。
 そして、上記のB図関連で触れた「後水尾天皇の文化サロン(歌会)」のメンバーには、さらに、下記(再掲)の、「後陽成院の系譜」と、それを取り巻く「門跡寺院」等々、そして、さらに、それらを取り巻く、当時勃興しつつあった「有力町衆」(本阿弥光悦=本阿弥家・角倉素庵=角倉家・俵屋宗達=俵屋家、尾形宗伯=光琳・乾山の父=尾形家、茶屋四郎次郎=茶屋家、後藤庄三郎=後藤家、五十嵐久栄=五十嵐家、楽常慶=楽家、千家=茶道家、池坊家=華道家、等々)が加わり、それらが連鎖状に「一大文化サークル」圏を形成していたということは、これまた首肯することは差し支えなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

【 (追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】
タグ:水墨画
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yahantei


「宗達に関する文献史料」の下記のうち、「中院通村」の元和二年の条を「あれかこれか」していたら、下記のアドレスの「中院通村年譜稿―中年期元和三年~八年―」(日下幸男稿)に遭遇した。

1)西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書
2)一条兼遐書状
3)宗達自筆書状
4)千少庵書状
5)『中院通村日記』
6)仮名草子『竹斎』の一節
7)菅原氏松田本阿弥家図

https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

 未だ、メモ程度だが、後水尾天皇を巡る、下記の親王、そして、上層公家衆は、丁度、『新古今集』を編んだ、後鳥羽上皇を巡る名立たる歌人群と同じように、相当な層の厚さを実感する。
 これらの、上層公家衆などの屋敷が、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」に、当時の「中納言」とか「太閤」などの役職名のままに図示されており、それらの一つひとつ照合してい行くと、「光悦・宗達・素庵・光広」などの限られた世界だけでなく、「政治・経済・文化・文学・美術・工芸」等々の広範囲なアプローチが必須という思いが増してくる。
 そうこうしているうちに、何時の間にやら、次は、「蓮下絵百人一首和歌巻」(光悦書・宗達画)というのを、何処かに置き忘れてしまった。そのうちに、そういう方向に気が向くのだろうと、当分、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」からは、抜け出せないようである。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟
by yahantei (2021-01-29 14:47) 

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