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醍醐寺などでの宗達(その四・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その四 醍醐寺の障壁画・装飾画(「舞樂図屏風〈俵屋宗達筆〉」)周辺

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

醍醐寺関係絵師.jpg

 障壁画を「装飾のために障子・襖・屛風・衝立 ・土壁などに描かれた絵画の総称」(旺文社日本史事典 三訂版)と解するならば、宗達の二曲一双の「「舞樂図屏風」は、「障壁画」ということになる。
そして、その「障壁画」の中で、特に、「近世の装飾性に富む絵画。俵屋宗達・尾形光琳らが始め,酒井抱一 (ほういつ) が継承した」(旺文社日本史事典 三訂版)とすると、宗達の「舞樂図屏風」は「装飾画」ということになる。
 しかし、ここでは、「障壁画」を、「装飾画」(著色画)、「水墨画」そして「扇面画」との三区分をし、その三区分での「装飾画」程度の大雑把なものである。
 そして、「障壁画」というのは、平安時代の寝殿造に応じた「大和絵障壁画」、室町時代の書院造に応じた「漢画障壁画」そして安土・桃山時代の」城郭建築に応じての「金碧障壁画(濃絵 (だみえ)」と区分されるのが常で、この建物の一部として使用されているものは、これまた、大雑把に「障壁画」として置きたい。
 このようなことを前提として、醍醐寺座主・三宝院門跡が住む「三宝院」の現在の障壁画は、下記のとおり、七十二面があり、それらは「長谷川等伯一派と石田幽汀」の作とされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E9%99%A2

【三宝院障壁画 72面 - 長谷川等伯一派と石田幽汀の作

表書院障壁画 40面
紙本著色松柳図 床貼付3(上段の間)
紙本著色柳草花図 違棚壁貼付6、襖貼付4、戸襖貼付6(上段の間)
紙本著色果子図 違棚天袋貼付2(上段の間)
紙本著色四季山水図 襖貼付8、戸襖貼付11(中段の間)
勅使間秋草間障壁画 32面
紙本著色竹林花鳥図 襖貼付4、戸襖貼付4(勅使の間)
紙本著色秋草図 障子腰貼付6(勅使の間)
紙本著色秋草図 襖貼付8、戸襖貼付6、障子腰貼付4(秋草の間)】

 ここで、冒頭に示した「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」には、「石田幽汀(1721-1786)」の名は出て来るが、「長谷川等伯一派」の名は出て来ない。
 これは、冒頭関連図上の絵師達は、上記の障壁画以外の、座主が日常生活を営んでいる「三宝院奥宸殿および奥居間」に関係する絵師達のもので、「長らく建物から外され、別に保管されていた」の新出の障壁画関連の、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)・山本探川(1721-1780)・石田幽汀(1721-1786)」などの「狩野派」の絵師たちが中心になっているからに他ならない。
 しかし、この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」が紹介されている、下記のアドレスの「新出の杉戸絵― 山本探川・山口素岳を中心にして ―(田中直子稿)」は、醍醐寺の全体の障壁画を知る上で必須の貴重なデータが満載されている。

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

 この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」で、「宗達・光琳」関連と深い関係にあると思われる「醍醐寺座主(三宝院門跡)」は、次の三人ということになろう。

醍醐寺座主(三宝院門跡)八十世・義演(1558-1626)→醍醐寺中興。醍醐寺座主八十世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興。
(醍醐の花見-豊臣秀吉と義演准后-)
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html

同八十一世・覚定(1607-1661)→鷹司信房の子。
(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)
☆「覚定」の母(岳星院)と「狩野探幽」の母(養秀院)は姉妹で、「覚定と探幽」とは従弟の関係にある。また、「覚定」の姉(孝子)は三代将軍「徳川家光」の正室である。

同八十二世・高賢(1639-1707)→鷹司教平の子。大峰山入峰。『鳳閣寺縁起』を著す。宝池院大僧正。
(「京狩野の飛躍と光琳・乾山の登場」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p93~)
☆「高賢」の妹(信子)は五代将軍「徳川綱吉」の正室である。

 この三人のうちの「八十世・義演(1558-1626)」の時代は「豊太閤醍醐の花見」に象徴される「豊臣家」の時代で、この時代には「豊臣家」に関係の深い「長谷川等伯一派」の障壁画が、「狩野派」と共に、その双璧を担っていたように思われる。
 そして、次の「八十一世・覚定(1607-1661)」の時代になると、「徳川家康・秀忠・家光」の時代で「狩野派(「狩野素川系」「鶴沢深山系」「山本素軒系」)と共に、「俵屋宗達」派が登場して来る。
 その次の「八十二世・高賢(1639-1707)」の時代が、「尾形光琳」そして、次の「石田幽汀」の時代で、その「石田幽汀」を師の一人とする「円山応挙」らの「円山四条派」が「京都画壇」の主流を占めて行くことを示唆している。

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm)江戸時代 18-19世紀
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html
【本図は通常、三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている。松と舞楽「採桑老」の図であり、金泥を使い濃彩で描かれた松の構図と舞人の長く引く下襲(裾)のすその曲線が特徴的である。人物は太くおおらかな墨線で描かれ、堀塗りで仕上げられている。】

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

 これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」のうち、B図(俵屋宗達筆)は、元和八年(一六二二)の「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃成る?)から寛永七年(一六三〇)の「宗達法橋の位にある」(「西行物語絵巻奥書」)当時の制作であることは、ほぼ許容されることであろう。
そして、C図(「輪王寺・舞樂図屏風右隻」)は、宗達がB図を制作した頃の「後水尾天皇(後水尾院)」の第六皇子「守澄法親王(1634-1680)」= 初代輪王寺宮門跡・179代天台座主」が、「初代輪王寺宮門跡」となった明暦元年(一六五五)の頃と解することも、これまた、許容されることであろう。
とすると、現在の「三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている」、その板戸に描かれている「採桑老」(A図)は、「狩野素川信正(1607-1658)」か「狩野寿石敦信(1639頃-1718)」の、どちらかの作と推定し、そこから、「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(C図)は、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)」に連なる「狩野派」の絵師達の手に因るもの解することも、これまた許容されるという思いがしてくる。
 として、改めて、これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」を見て行くと、例えば、その「下襲(裾)のすその曲線」は三者三葉で、それぞれ、「一枚の板戸」(A図)、「二曲一隻の屏風」(B図)、そして「六曲一隻の屏風」(C図)という、その空間に、どのように配置するかという、その描き手の「構図上の配慮」ということが伝わってくる。
 と同時に、この「採桑老」は、「白装束」の「白」色を基調にして描くということは、これは「採桑老」を描く場合の鉄則のようなものも伝わってくる。
それに対して、下記の宗達が描く「崑崙八仙」の「青装束」というのは、これは、まさに、「宗達」その人の独壇場という思いがしてくる。
例えば、A図「舞楽図・採桑老」、C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」そして、宗達自身のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の、それぞれ装束の色からして、この宗達が描く「崑崙八仙」の、この「青装束」というのは、これこそ、まさに、宗達が法橋になってからの印章の「対青」「対青軒」の、その「青」の由来なのではないかという思いが彷彿としてくる。
 「採桑老」の「白」が「老・死」というイメージならば、「崑崙八仙」の、この「青」は「青・生」の、輪廻的な「再生」というイメージと重なってくる。
舞楽にも『源氏物語』(第七帖 紅葉賀)の、「源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける」の、「青海波」がある。この場面での光源氏は、十八歳から十九歳時の頃である。
もし、宗達の「対青」「対青軒」の「青」が「青海波」の「青」などに由来があると仮定すると、法橋宗達は、法橋叙任に伴い、この「舞樂図屏風」の、この「青」の「崑崙八仙」などに、新しい「宮廷絵師」として再スタートの決意を込めているという推論と結びついてくることになる。

崑崙八仙部分図.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)左隻の「崑崙八仙」(部分拡大図)

タグ:障壁画
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yahantei

 醍醐寺の「舞樂図屏風」の次は、もともとは醍醐寺所蔵で、現在は、静嘉堂文庫美術館蔵の「関屋澪標図屏風」というのが既定路線なのだが、醍醐寺文化財アーカイブス」の、今回の「新出の杉戸絵  ― 山本探川・山口素岳を中心にして ―(田中直子稿)」は素通り出来なかった。
 その「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」の図表は、「宮廷・醍醐寺・徳川家・豊臣家」とその周辺の「絵師たち」を知る上で、実に有難いものなのだが、そこに出て来る「狩野素川・狩野寿石敦信(以下、杉戸絵を手掛けた頃の名、秀信と記す)」などは、「江戸狩野・京狩野」関連の一般の「狩野家の系図」などには出て来なくて、この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」の全体を読み解くのは、一寸、ボリュームがありすぎるということで、今回の【宗達の「対青」「対青軒」の「青」が「青海波」の「青」などに由来があると仮定すると、法橋宗達は、法橋叙任に伴い、この「舞樂図屏風」の、この「青」の「崑崙八仙」などに、新しい「宮廷絵師」として再スタートの決意を込めているという推論と結びついてくることになる。】と、どうにも、当初の意とするものからは外れてしまった。
 その延長線上で行くとと、「採桑老」の白装束の「白」と、この「崑崙八仙」の「青装束」の「青」とを混ぜると、「葵色」(徳川家の「葵」の紋)になるということだが、これは、このコメントの欄が似つかわしい。





by yahantei (2021-02-09 16:57) 

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