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醍醐寺などでの宗達(その五・「醍醐寺の舞楽図屏風―採桑老」) [宗達と光広]

その五 醍醐寺の「舞楽図屏風―採桑老」周辺

舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲一双屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院
https://www.daigoji.or.jp/about/cultural_asset.html

 この「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)」周辺については、前々回(その四)、前回(その五)に次いで、今回が三回目となる。これは、狩野永岳の、次の「採桑老」に接したからに他ならない。

採桑老・詠岳.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」(部分図) 六曲一双(左隻一~二扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印、一扇の中央「採桑老」)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm) 醍醐寺三宝院蔵
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

狩野永岳(1790-1867)は、 俵屋宗達や狩野探幽を江戸初期の画人、尾形光琳を江戸中期の画人とすると、江戸後期の画人ということになる。一口で評すると「京狩野家九代。桃山風の画風を基本に円山四条派や文人画、復古大和絵など様々な画風を取り入れ、低迷する京狩野家を再興した」(ウィキペディア(Wikipedia)』)ということになる。
 この永岳が、安政二年(一八八五)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建された、現在の京都御所の、その「御常御殿上段の間」の「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」(襖絵)を描いている。この「上段の間」を担当するのは、その当時の絵師の中で最右翼の絵師であるということを意味する。その「桐竹鳳凰図」は、下記のとおりである。

桐竹鳳凰図 狩野永岳筆.jpg

「桐竹鳳凰図 狩野永岳筆」(京都御所「御常御殿上段の間の襖絵」)
http://kyouno.com/turezure/20070126_goshosyouhekiga.htm
【鳳凰は、古来中国で想像上の瑞鳥とされ、桐の樹に宿り、竹の実を食し、徳高き天子の兆しとして現れると伝えられていました。この鳳凰図は、御常御殿上段の間正面に描かれたもので、天子を象徴する意味でも極めて重要な4面です。】

 この狩野永岳の描いたD図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」は、紛れもなく、宗達のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の「採桑老」をアレンジしている。

永岳・羅陵王.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「羅陵王」(部分図) 六曲一双(右隻一~三扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

 ここに描かれている「握舎」(幔幕)と「大太鼓と大鉦鼓」、そして、殊に、この「松と桜」は、宗達の「崑崙八仙」の上部に描かれた「松と桜」とを拡大して描いている。そして、宗達の「舞樂図屏風」の最もユニークな「崑崙八仙」の「青装束」の「青」は、D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」の上部に流れている「流水」の「青」と化している。
 さらに、その永岳の「青」は、現在の京都御所のシンボルともされる「「桐竹鳳凰図」の「流水」と「鳳凰の翼」に活かされている。
タグ:障壁画
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yahantei

 何やら、読み返すと、下記のことに触れたいので、この「舞樂図屏風」に踏み止まっている感じで無くもない。

【宗達の「舞樂図屏風」の最もユニークな「崑崙八仙」の「青装束」の「青」は、D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」の上部に流れている「流水」の「青」と化している。
 さらに、その永岳の「青」は、現在の京都御所のシンボルともされる「「桐竹鳳凰図」の「流水」と「鳳凰の翼」に活かされている。】

このこと以上に、下記のアドレスの「狩野采女(探幽)」のことが気にかかっている。

http://www.kyobunka.or.jp/wallpaintings/part_04/index.html

【義演准后日記』の元和6年10月25日条に次のようにある。「理性院為見舞罷向了。狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」。義演が理性院へ見舞に行った際、狩野采女(うねめ)が座敷絵を描いていたので、召出して盃をつかわしたというのである。当時、狩野采女と名乗っていたのは18歳の狩野探幽(1602~74)である。この記事により本障壁画制作に若き探幽が関わっていたことが確定する。】

この元和六年(一六二〇)、「六月、徳川和子入内」の頃、「宗達と探幽(采女)」は、醍醐寺の一角で遭遇しているのではないか?

今回のは、その前哨戦のような意味合いもある。


by yahantei (2021-02-11 16:22) 

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