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醍醐寺などでの宗達(その六・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その六 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆 六曲一双)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この国宝となっている宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、現在は静嘉堂文庫美術館所蔵となっているが、もともとは醍醐寺所蔵のものであった。それが、上記の紹介記事にあるように、明治二十九年(一八九六)に静嘉堂創設者の岩崎弥之助(一八五一~一九〇八)へ寄進の返礼として、同寺より岩崎家に贈られたものなのである。
 この「関屋澪標図屏風」は、画面向って右に「関屋」の隻、左に「澪標」の隻を並べて鑑賞するのが一般的である。これは右隻の落款が右端、左隻の落款が左端に位置することで、「六曲一双」の屏風としては、それが自然であろうという程度の確然としたものではない。
 現に、『源氏物語』の順序からしても、「澪標」(第十四帖)、「関屋」(第十六帖)と、右隻に「澪標」、左隻に「関屋」が自然で、落款が中央に集まるのは、同じ六曲一双の「雲龍図屏風」(フリーア美術館)があり問題にならないとし、各隻の並べ方については「複数の解釈が可能な屏風」として差し支えないようである(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)。
 ここは、『源氏物語』の、「澪標」(第十四帖)そして「関屋」(第十六帖)の、この順序で鑑賞したい。

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 この「澪標図屏風」が制作された寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。
 ここに、もう一つ、この「澪標図屏風」に描かれている、この場面は、『源氏物語』第十四帖「澪標」をベースにしている、能楽「住吉詣」の場面で、能楽に関心の深い覚定に取っては、ことさらに、このことが、「結構成事也」の、その理由の一つに挙げられるものと解したい。

http://www.nohgakuland.com/know/kyoku/text/sumiyoshimoude.htm

ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。立ちも帰らぬ面影の。
それかあらぬか舟かげの。信夫もじずり誰やらん。
シテ「誰ぞとは。よそに調の中の緒の。其音違はず逢ひ見んの。
頼めを早く住吉の。岸に生ふてふ草ならん。
源氏「忘草。々々。生ふとだに聞く物ならば。其かね言もあらじかし。
地「実になほざりに頼めおく。その一言も今ははや。
源氏「ありし契の縁あらば。
地「やがての逢瀬も程あらじの。心は互に。変らぬ影も盃の。度重なれば惟光も。
惟光「傅御酌をとりどりの。
地「酔に引かるゝ戯の舞。面はゆながらもうつりまひ


(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.1 故桐壺院の追善法華御八講
14.2 雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
14.3 東宮の御元服と御世替わり
14.4 宿曜の予言と姫君誕生
14.5 宣旨の娘を乳母に選定
14.6 乳母、明石へ出発
14.7 紫の君に姫君誕生を語る
14.8 姫君の五十日の祝
14.9 紫の君、嫉妬を覚える
14.10 花散里訪問
14.11 筑紫の五節と朧月夜尚侍
14.12 旧後宮の女性たちの動向
14.13 冷泉帝後宮の入内争い

14.14 住吉詣で
【その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」
とて、はかなきほどの下衆だに、心地よげにうち笑ふ。
「げに、あさましう、月日もこそあれ。なかなか、この御ありさまを遥かに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがに、かけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて、仕うまつるを色節(いろふし)に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで、立ち出でつらむ」 など思ひ続くるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。】

14.15 住吉社頭の盛儀
【松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表(うえ)の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監(うこんのじょう)も靫負(ゆげひ)になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。
すべて見し人びと、引き変へはなやかに、何ごと思ふらむと見えて、うち散りたるに、若やかなる上達部、殿上人の、我も我もと思ひいどみ、馬鞍などまで飾りを整へ磨きたまへるは、いみじき物に、田舎人も思へり。
御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。
大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束そうぞきわけたり。
雲居遥かにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさまにてものしたまふを、いみじと思ふ。いよいよ御社の方を拝みきこゆ。
国の守参りて、御まうけ、例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
いとはしたなければ、
「立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さし止めて、祓へをだにせむ」
とて、漕ぎ渡りぬ。】

14.16 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
14.17 源氏、明石の君に和歌を贈る
14.18 明石の君、翌日住吉に詣でる
14.19 斎宮と母御息所上京
14.20 御息所、斎宮を源氏に託す
14.21 六条御息所、死去
14.22 斎宮を養女とし、入内を計画
14.23 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
14.24 冷泉帝後宮の入内争い

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
【伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も、浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。】

16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

 http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-genji.html

 上記のアドレスによると「現存する謡曲235曲の中に、「源氏物語」を題材にするものは下記の10曲」のようである。

半蔀(はじとみ)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
夕顔(ゆうがお)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
葵上(あおいのうえ) 「葵」 第九帖  シテは六条御息所
野宮(ののみや)   「賢木」第十帖  シテは六条御息所
須磨源氏(すまげんじ)「須磨・明石」第十二帖、十三帖 シテは光源氏
住吉詣(すみよしもうで)「澪標」 第十四帖  シテは明石の上
玉鬘(たまかずら)  「玉鬘」第二十二帖  シテは玉鬘
落葉(おちば)    「若菜」第三十四帖  シテは落葉の宮
浮舟(うきふね)   「宇治十帖より 「浮舟」  シテは浮舟
源氏供養(げんじくよう)「源氏物語表白」  シテは紫式部

この他に「新作能」として、次のものが挙げられている。

碁(ご)        「空蝉」第三帖  シテ空蝉
夢浮橋(ゆめのうきはし)「宇治十帖・最終章」 シテ修行僧 (瀬戸内寂聴作)

 この「碁」については、次のアドレスによると、「帚木」「空蝉」の巻を典拠とし、「長い間廃曲となっていましたが、「世阿弥生誕六百年前夜祭公演」として昭和37年(1962年)11月23日に二十五世金剛巌宗家により復曲」されたとあり、宗達が描く「関屋図屏風」の「源氏の石山詣でと空蝉との再会」の場面ではない。

http://www.kotennohi.jp/?page_id=2459

 宗達には、もう一枚の「関屋図屏風」(六曲一隻・烏山光広賛・東京国立博物館蔵=国宝)がある。
次のD図である。大きさは、C図(静嘉堂文庫美術館蔵=醍醐寺三宝院旧蔵=国宝)が「一五二・二×三五五・六㎝」に対して「九五・五5×二七三・〇㎝」とやや小ぶりである。
ここで、このD図とC図と交互に、『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」など)の原文などを照合して見て行くと、宗達が、この二枚の絵(C図とD図)に託した(仕掛けた)、その謎の一端が明らかになってくる。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000

関屋図屏風・光広.jpg

D図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも  】

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 上記のD図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 空蝉
 上記のC図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 光源氏
 
 上記のD図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、  
                          石山寺参詣」)
 上記のC図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「「16.3 逢坂
                          の関での再会」)

上記のD図の「牛車」の「牛」は? →「牛車」から離されて休息中
上記のC図の「牛車」の「牛」は?   →光源氏の「牛車」の「牛」は必死に「関屋」へ
                   空蝉「牛車」の「牛」は休息中

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 このB図とC図との注文主の、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」は、この二枚のB図とC図に、「結構成事也」と大満足をしたのである。
 その大きな理由は、このB図とC図に描かれている「牛」が、この「牛車」に乗っている「光源氏」の、この場面での「心境」を如実に表現しているからに他ならない。
 B図の「牛」は、海の上の船中に居る「明石上」を、「光源氏」に替わって、見送っているのである。そして、C図の「牛」は、「牛車」に乗っている「光源氏」が、左端の「牛車」に居る「空蝉」に再会したい、その「心境」を察して、必死になって「関屋」に入ろうとする、それらの「牛」の表情・仕草が、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」をして、「結構成事也」と言わしめた最大の原因ということになる。
タグ:障壁画
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yahantei

【B図の「牛」は、海の上の船中に居る「明石上」を、「光源氏」に替わって、見送っているのである。そして、C図の「牛」は、「牛車」に乗っている「光源氏」が、左端の「牛車」に居る「空蝉」に再会したい、その「心境」を察して、必死になって「関屋」に入ろうとする、それらの「牛」の表情・仕草が、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」をして、「結構成事也」と言わしめた最大の原因ということになる。】

この見方は、なかなか「結構成事也」。

「宗達絵画」は、「光広(狂歌)・貞徳(俳諧)」的視野に立つと見えて来る。


by yahantei (2021-02-14 15:07) 

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