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醍醐寺などでの宗達(その七・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その七 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも 】

 この牛車の中に「空蝉」が乗っていることは、ここに書かれている、烏丸光広の賛からすると一見明らかのような雰囲気である。

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.2」の一節)

 うち出のはまくるほどに (打ち出の浜来るほどに)
 殿は粟田山こえたまひぬ (「殿」=「光源氏」は粟田山を越え給ひぬ) 

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.3」の「空蝉」の和歌)

 行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん
(行く人も来る人もせきとめることの難しい逢坂の関で/塞き止め難く途絶えぬ涙を/湧き出して途絶えぬ清水のように人は見るでしょうね/それほど涙があふれて止まりません)

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

関屋図・牛車.jpg

B図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第一・二・三扇」(拡大図)

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/2

 このB図の「牛車」に「空蝉」が乗っているにしては、この「牛車」の従者は皆男衆ばかりという感じである。そして、この従者は、C図(二・三扇)の従者と、その恰好やら仕草が瓜二つなのである。そして、このC図の「牛車」に乗っている人は「光源氏」で、この場面は、「空蝉」と「光源氏」の「関屋」の場面ではなく、「明石の上」と「光源氏」の「澪標」の場面なのである。
 ここで、「澪標図屏風」(C図)と、次の場面の「関屋図屏風」(D図)とドッキングして、
『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」とを、「連歌・俳諧」(「創作」と「鑑賞」とを繰り返し、一連の即興的なストーリー化の世界を現出する)的な視野で見て行くと、次のとおりとなる。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/1

C図「澪標図屏風」の場面

第一扇→「牛車」から解き放された「牛」が「船上」の「明石の上」を見送る。
第二・三扇→「牛車」の「光源氏」は「明石の上」の再会を断念し「住吉参詣」をする。
第四・五・六扇→「住吉大社」の関係者が「光源氏」をお迎えする。

D図「関屋図屏風」の場面

第一・二扇→「光源氏」の一行が「石山寺から逢坂の関」に差し掛かる。牛は急いでいる。
第三・四扇→「空蝉」の弟「小君」(右衛門佐)が「牛車」の「光源氏」と対面している。
第五・六扇→「空蝉」の「牛車」が「逢坂の関」の途中の路上に待機している。

 ここまでが、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)との「ストーリー」(場面の流れ)である。そして、この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)は、六曲一双の屏風として完結しているのだが、次の六曲一隻屏風のA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」
は、D図の「関屋図屏風」との関連で、どういう場面で、どういうストーリー(場面の転換)
のイメージ(「鑑賞」して自分なりの「想像・創造・創作」する)を抱くかということになる。

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

 ここで、 『源氏物語』第十六帖「関屋」の登場する主要な人物は、次の六人ということになる。

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」に描かれている、向き合っている二人の人物は誰か? 「第四扇」の若い従者は、貴人に仕える「近侍(近仕)」の一人か? 上記の登場人物の「小君」(右衛門佐)とも解せるが、D図(第二・三扇)の「小君」(右衛門佐)とは別人物のようなので、「小君」(右衛門佐)とは別人物の若い「近侍(近仕)」の一人と解して置きたい。
 もう一人の、「第五扇」の髭を生やした人物は誰か? 上記の登場人物の中ですると、「空蝉」の夫の「常陸守」(伊予介)という雰囲気である。「紀伊守」(河内君)は、「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」には出て来ないので、除外して、一応、「「常陸守」(伊予介)として置きたい。
 さらに、前提として、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」は書いてないということで、この場面のストーリー化を試みると次のとおりである。

(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)

第一扇→「小君」に託した「空蝉」の対応を「光源氏」は待ちくたびれている。
第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
第六扇→丸ごと「余白」で、後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)

第一・二・三扇→「空蝉」は「光源氏」との再会を逡巡している。
第四・五扇→「空蝉」は「光源氏」の従者(右近衛尉?)に「光源氏」への伝言を依頼?
第六扇→後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

 この二つのストーリーで、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」の、「殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも」が書いてあることを前提とすると、上記の(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)はカットされ、(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)の場面ということになる。
 この(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)で行くと、このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の主役のような第五扇の「髭を生やした人物」(「空蝉」の夫の「常陸守」クラスの人物)が、謎の人物となるが、この謎の人物を、「常陸守」の長男の「紀伊守」の弟の「右近衛尉」(「光源氏」に仕えている)と解することも出来るのかも知れない。
 しかし、それだけでは、「宗達絵画」(「宗達屏風」「宗達絵巻」「宗達扇絵」など)の「仕掛け」(意表を突く面白み)が今一つ伝わって来ない。
 何か「仕掛け」(意表を突く面白み)があるとすると、この第五扇の「髭を生やした人物」を、「空蝉」の夫の「常陸守」の次男で「光源氏」の従者になっている「右近衛尉」と、この「賛」の書き手の「大納言・烏丸光広」とが、一人二役で登場しているとすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の、この「絵」(筆)と「文」(賛)との「コラボレーション」(「協同・共同」創作)が活きてくる。

(第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たら挨拶するかどうか
    思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸光広」の化身?)が「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも」

 ここで、「空蝉の贈歌」を見ると、これが実に手の込んだ一首なのである。

行くと来とせき止めがたき涙をや
   絶えぬ清水と人は見るらむ   空蝉

「行くと来(く)とせき止めがたき」→「行く人も来る人も関は止めることが出来ない」の「関止め難き」と、次の「涙」を「塞き止め難き」(塞き止めることは出来ない)とを掛けている。
 そして、この「涙」が「絶えぬ」と、次の「清水」が「絶えぬ」とを掛け、さらに、この「清水」は、「関の岩清水」の歌枕「逢坂の関の石清水」で、次の「逢坂の関」の和歌などを踏まえての一首ということになる。

あふさかの関に流るる石清水言はで心に思ひこそすれ(よみ人知らず「古今集」)
これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸「後撰集」)
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)

 これに対する「光広の答歌」は、技巧的な空蝉の一首に対して、下記の『東行記』冒頭の一首(「知る知らず会ひ問ひかわす旅人の行くと帰ると逢坂の関」)など、自己の旅行体験などを踏まえ、「表」の意とか「裏」の意とか考えないで、当意即妙に、空蝉の一首に和しているような雰囲気である。

をぐるま(御車)のえにし(縁)はあれなとし(年)へ(経)つゝ
 又あふみち(近江路)にゆく(行)もかへ(帰)るも     烏丸光広

光広・逢坂の関.jpg

「東行記・烏丸光広筆」(東京国立博物館蔵・一巻・彩箋墨書)中の「逢坂の関」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482788/2
「しるしらず 会(ひ)とひかわす 旅人の 行(く)とかへると あふ坂の関」
【烏丸光広は江戸時代初期の公卿。古今伝授を受けるほか、歌人として著名である。彼は朝廷と江戸幕府の斡旋役として度々江戸に下向したが、この1巻はその折の紀行文をもとに、和歌やスケッチを加えた旅日記である。光広独自の書風を確立した晩年の筆跡。】

 元和四年(一六一八)、光広、四十歳の時、徳川家康三回忌に江戸に下向し、その時の紀行文を『あづまの道の記』として遺している。その『あづま道の記』は、次のアドレスで見ることが出来る。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100291419/viewer/1

 また、上記の「東行記」(東京国立博物館蔵)の草稿本(京都国立博物館蔵)の「逢坂の関・瀬田の長橋・鈴鹿山」は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/59tokoki.html

 なお、光広の『あづまの道の記』は、中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)の一つに数えられる『東関紀行』を参考にしている。『東関紀行』は下記のアドレスで見ることが出来る。その「逢坂の関・近江路」の所を抜粋して置きたい。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/tokan.htm

【 東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、駒ひきわたる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、ふかき夜の月影かすかなり。木綿付鳥幽に音づれて、遊子(孟甞君之故事)猶殘月に行きけむ、幽谷の有樣思ひ合せ(いでイ)らる。むかし蝉丸といひける世捨人、此の關の邊にわらやの床をむすびて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じておもひを述けり。嵐の風はげしきをわびつゝぞ過しける。ある人の云ふ「蝉丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたり」といへり。
  「いにしへのわらやのとこのあたりまで心をとむる相坂の關」。
 東三條院(詮子一條御母)石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の清水を過させ給ふとて、よませ給ひける御歌、「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」と聞こゆるこそいかなりける御心のうちにか、と哀に心ぼそけれ。關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて哀なり。
  「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故郷」。
 曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌(萬葉巻三拾遺哀傷)おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。
  「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」。 】(『東関紀行』抜粋)
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yahantei

じっくり見て行くと、宗達と光広のコラボ的な作品は、とにもかくにも一筋縄では行かないことを実感した。

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)

 『源氏物語』の、「澪標」「関屋」では、単に、「光源氏」と「空蝉」の「女々しいドラマ」かと思ったら、「伊予介」やら「紀伊守」やら、全然見落としていた、かって、「右近衛尉」であった「紀伊守の弟」(作者・紫式部は「名前」さえ省略している「その他大勢」の一人?)とか、「小君」は女性にあらず「右衛門佐」で、これが「空蝉」の弟だったり、これらの関係を知るのには、最初から見て行かないと、それらが、どういう関係にあるのか見えてこない。
 まず、このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」で、「空蝉」周辺の女性のお供が一人も出てこない。それにもかかわらず、図録の解説などは、この牛車は「空蝉一行」で、「源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く」と言うのである。
 これは、完全に、光広の賛の「うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ」の「仕掛け」(目くらまし)に引っかかった感じが濃厚である。
 その疑問を解くためには、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」で、第五扇を独り占めしている「ヤギ髭の公家?」が誰なのかを、「あれかこれか」しないと、さっぱり、この「光広と宗達」のコラボ作品の面白さが伝わって来ない。
 醍醐寺三宝院の「関屋澪標図屏風」の面白さは、二頭の「牛の仕草・表情」として手前、何かあるとすると、この「ヤギ髭の公家?」かと目安をつけると、これは、「空蝉の夫」の「伊予介」(この「介」は官職名とは見逃していた)という感じで、さらに、この「賛」との関係から、「大納言・烏丸光広」との一人二役(「能」などではよくある)とすると、このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の面白さが、やや見えて来るという感じだが、これをどういうふうに、第三者に伝えるかというと、これが、なかなか難しい。
 今のところは、次の第三ストーリーなのだが、午後、読み返したら、もう少し、これに続けないと、何かが言い足りない感じで、次回も、この続きか?



第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たら挨拶するかどうか思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸光広」の化身?)が「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも」

by yahantei (2021-02-18 15:25) 

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