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醍醐寺などでの宗達(その九・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その九 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の二人の主要人物について、前回では、「【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない」としている。そして、第五扇の人物は、「常陸守」、そして、第四扇の人物は、「童随身の一人」としたのだが、この「童随身の一人」は、『源氏物語』第十四帖「澪標」の「住吉社頭の盛儀」(14.15 住吉社頭の盛儀)の下記のところら出てくる「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の、「夕霧」(当時八歳)その人のように思えたのである。

(登場人物)

「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)

光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄)
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第五節)
  大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第二節)
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第一節)
六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?) 

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 これは、上記のアドレスで紹介されている「再発見・戦国の絵師 土佐光吉」(堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載)で展示された作品の一つである。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 上記B図の右端の「牛車」は、このC図の第三扇に描かれている「牛車」と何処となく雰囲気が酷似している。また、このB図の「光源氏」一行は、座している姿勢が多いのだが、A図の「光源氏」一行の「牛車」周辺の人物も、ほぼ座している姿勢で、これまた、酷似している。
 このB図の「光源氏」一行の中に、「夕霧・良清・右近将監」などが居るのかも知れない。そして、この中で「夕霧」は、第二扇に描かれている傘持ちの従者の前の緑色の衣装の童のようである。その童は、B図でも傘持ちの従者の前に緑色の衣装で描かれている。これが、A図の第四扇に描かれている供人を従えた緑色の衣装の童で、この童を「大殿腹の若君」、即ち、「夕霧」と見立てることは、許容範囲のうちに入るものと解したい。
 そして、特に、このB図の左端の上部(鳥居)の上の座している四人の人物に注目したい。その図を拡大すると、次のとおりである。

土佐光吉・澪標二.jpg

B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

【宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー 】

 この四人の人物の主人公と思われる右の二人目の人物(堺衆=町衆?)が、何やら鼻の下と顎に髭をたくわえているようなのである。拡大すると次のとおりである。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

【 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。
】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、な過誤のある指摘でもなかろう。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 この宗達の「関屋図屏風」(D図)の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」一行のうち、その第五扇に描かれている三人の従者などは、その座している姿勢などからして、B図の『澪標図屏風』(土佐派)の左端の上部に描かれている四人の堺衆(そして「光吉と光吉に託された師の三人の遺児」とも解せられる)をモデルにしていることは、その描かれている位置関係などからして、そう解して差し支えなかろう。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

土佐派・澪標図屏風.jpg

E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」(大倉集古館蔵)
https://www.shukokan.org/collection/#link01

 宗達の「澪標図屏風」(C図)の第五・六扇に描かれている住吉大社の「鳥居」と「太鼓橋」は、これまた、E図の第五・六扇をモデルにしていることも明らかであろう。同様に、このE図の第一扇に描かれている「牛車」は、C図の第五扇の「牛車」、同じく、E図の第一・二扇の「屋形船」は、E図の「帆掛け船」をアレンジしたものであろう。
 それよりも、C図とE図とを比較して、最大のアレンジ(改変)は、B図の主題である「光源氏」(束帯姿の長い裾=官位の高い象徴、それを後ろで持つ童を従えっている)の姿が、宗達のC図では「牛車」の中に閉じ込められて、姿を消していることである。これは、「改変」を意味する「宗達マジック」というよりも、「改変+想像+創造」の世界の「宗達ファンタジー」の世界に近いものであろう。
 もとより、創作の世界において、「モデル(制作の対象とする人や物)」をどのように「改変(マジック)」して、自己流の世界(ファンタスティックな世界)を築くかというのは、創作家なら誰しも、その実践を日々続けていることは言うまでもない。 
 しかし、この宗達のように、この「モデル」の主人公を抹殺して、そして、この主人公を別な形で再生させるという、こういう手の込んだ操作は、なかなか目にしない。
 例えば、同じ土佐派(土佐光吉とその一門)による、「B図 土佐派『澪標図屏風』」と「E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」」と比較すると、これらのことは明瞭になっている。

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵

 このB図の「光源氏」の住吉社参詣という主題は、どちらも「光源氏」を中心にして、その他は、全て、それを如何に効果的に盛り上げるかという副次的な脇役ということになる。しかし、仔細に見て行くと、さまざまな「改変」が為されている。
 例えば、B図の前景(下部)の、前駆(行列の先導)の者などが乗馬した「馬」や座す姿勢の従者は、A図では全てカットされている。また、B図は、その前景(下部)から中景(中央)にかけて、「光源氏」参詣一行は動いているのに対して、A図は、第一扇の中央の「牛車」から水平に「右から横へ」と「光源氏」参詣一行は動いている。そして、第五扇の「鳥居」から上部に描けて、「光源氏」参詣一行を見物する「堺衆」などの人達が描かれている。
 E図では、これらの見物人は全てカットされ、その代わりに、「鳥居」の先に、住吉社の「太鼓橋」などが描かれている。
 ここで、注目しなければならないことは、このB図の「鳥居」の上に描かれている四人の見物人(B図(拡大図)=安土桃山時代の装束で描かれた人々)が、宗達の「D図 関屋図」
の第五・六扇の「空蝉一行」とドッキングすると、この第五・六扇の「空蝉一行」の中に、
B図(拡大図)の四人のうちの一人、髭を生やした人物(B図《(拡大図=人物拡大図)》)が居て、その「髭を生やした人物」は、空蝉の夫の「常陸守」と見立てることは、先に許容範囲の内としたが、もはや、これは動かし難いものと解したい。
 そして、この「髭を生やした人物=常陸守」(B図《(拡大図=人物拡大図)》)を「常陸守」とすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇の人物も、空蝉の夫の「常陸守」ということは、動かし難いものと解したい。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の第五扇の束帯姿の座している髭を生やした人物を「常陸守」とすると、この「常陸守」が恭しく座して応対している、第四扇の「童」らしき人物は誰か?
 この第四扇の「童」らしき人物は、冒頭に戻って、《「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の「夕霧」(当時八歳)なのかも知れない》とすると、こうなると、この・「宗達ファンタジー」は、新たなるステージの上に立つということになる。

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yahantei

「空蝉」の夫の「常陸守」が髭を生やしている人物かを、「あれかこれか」していたら、「再発見・戦国の絵師 土佐光吉」(堺市博物館特別展)関連のサイトに遭遇した。
 「B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々」の小さい画像を拡大したら、この「堺衆」の主が、髭を生やしている。しかも、「チヨマジックに続き、チヨファンタジー」によると、何か不気味な感じで敬遠していた、京の御所の繪所預で、堺の居を頑として堅持してきた、土佐派の巨匠「土佐光吉」が、「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ということは、「快也」という感じである。
 こうなると、このサイトのアップも忘れて、これまで、気にかかって一度も、このサイトにアップしていない、「土佐派・住吉派」の情報周辺を探索すると、その底辺は頗る広い。
 あまつさえ、『源氏物語』は、これまた、未知の領域で、「夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧」を探り当てたのは大きな収穫であった。
 次は、シテ「夕霧」、ツレ「常陸守」ということになる。



by yahantei (2021-03-01 20:01) 

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