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醍醐寺などでの宗達(その十・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その十 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 上記A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の第五扇の髭を生やした人物を、これまで「あれかこれか」して、空蝉の夫の「常陸守」(伊予介)と特定したのだが、それを裏付ける
有力なものが出てきた。
 それは、現在、メトロポリタン美術館所蔵の「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝)の左隻「関屋図屏風」(B図)である。

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この第四扇を拡大すると次のとおりである。

空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物は、空蝉の夫の「常陸守」(紀伊介)その人であろう。そして、その左脇の立っている女性は「空蝉」のように思われる。「常陸守」の右脇の若き男性は、「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)なのかも知れない。
 ここの場面は、下記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の「源氏、石山寺参詣」の場面で、光源氏一行が通過するのを、常陸守・空蝉一行が、「関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる」光景である。「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)については、次の「逢坂の関での再会」で登場する。

【(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣

《 関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。 》

16.3 逢坂の関での再会

《 九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。》

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す    】

関屋澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・左隻=C-2図=澪標図)

土佐光吉のB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、宗達のC図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」においては全くの様変わりをしている。光吉の「光源氏」一行は、宗達の第一・二・三扇に描かれており、それを拡大すると次のとおりとなる。

宗達・関屋図部分二.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図一)

 この場面は、上記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文では、次の記述のところである。

【 (16.2 源氏、石山寺参詣)    
九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。】

 この第三扇に描かれている人物が、上記原文の「かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)」と思われる。そして、光吉のB図(第五扇・部分拡大図)では、中央の「土佐守」の右脇に座している若い人物のように思われる。
 この右衛門佐が話しかけている、C-1図=関屋図の、第二扇に描かれている高貴な童随身のような人物は誰なのか? 
それを証しするのは、C-2図=澪標図の、下記の登場人物からすると、「夕霧→大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧」が以外に見当たらいのである。この人物を「夕霧」とすると、その脇の白い衣装の童は、「夕霧」の童随身で、その背後の人物は「良清と六位の蔵人と傘持ち」のような雰囲気である。

【「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)
光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)
光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?)   】

宗達・関屋図部分一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図二)

 これが、C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」に宗達が描く「空蝉」一行の全体の図なのである。ここに従者のように描かれている三人の人物の視線は、「C-1図=関屋図・部分拡大図一)」の、「夕霧」(「光源氏の名代」)と「小君=右衛門佐=空蝉の弟」(「常陸守と空蝉」の名代)に注がれている。
 この三人の人物を、上記の登場人物から、「常陸守・空蝉・紀伊守=常陸守の子」と見立てることも、これまた一興であろう。この三人の人物が、同じ、土佐派(土佐光吉とその一門)の「関屋図屏風」(D図)では、その位置関係(C-1図との関係)からして、次のとおり描かれている(D図とD-1図)。

土佐光吉・澪標一.jpg

D図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html
土佐光吉・澪標二.jpg

D-1図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵(D図第二扇上部部分拡大)

 この右から二番目の髭の生やした人物(堺衆=光吉が密かに自己の分身を潜ませている?)が、B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)の、中央に描かれている、髭を生やした「常陸守」と連動しているものと解したい。
空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物が空蝉の夫の「常陸守」で、その左脇に立っている女性が「空蝉」とすると、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」の中に、「光源氏」も密かに潜ませているのではなかろうか?

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 「光源氏」は、『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文からして、この「牛車」に乗っているというのが、この図柄からして常識的な見方であろう。しかし、「D-1図 土佐派『澪標図屏風』D図第二扇上部部分拡大」の、当時の「安土桃山時代の装束で描かれた堺衆の四人の人物」の一人に、「光吉が密かに自己の分身を潜ませている」とも思われる「光吉マジック・光吉ファンタジー」を考慮すると、「光源氏」は、この第二扇に描かれて「牛車」には乗っていないで、第一扇に描かれて乗馬している人物が「光源氏」なのではなかろうか?

光吉・光源氏.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 こういう高級の馬具(轡・面繋・胸繋・尻繋など)を装った白馬に乗馬出来る人物は、上記の登場人物では、「光源氏」(源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿)が最も相応しいであろう。
 そして、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」に仕掛けた、土佐光吉の「光吉マジック・光吉ファンタジー」の最も顕著なものは、この第二扇の「牛車」に乗った「光源氏」ではなく、第一扇の「乗馬」の「光源氏」にあると解したい。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-A図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 ここで、このB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、上記のB-A図「源氏物語図屏風」右隻「御幸・浮舟図屏風」と対の「四曲一双」の屏風なのである。そして、ここにも、三頭の「乗馬」した人物が描かれている。
 ここらへんについては、次回で触れることにする。ここでは、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇に描かれた髭を生やした人物は「常陸守」(紀伊介)であることは、少なくとも、この「関屋図」のコラボ作品に携わった「宗達と光広」との共同認識であったということは、推測というよりも事実に近いものと解したい。

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 そして、この第四扇に描かれている「童随身」の一人「(河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―四』)は、「常陸守」が恭しく応対していることからして、「夕霧=大殿腹の若君」(大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―五』)と、これまた、「宗達と光広」との共同認識であったと解したい。
 ここで、下記のアドレスの、「シテ=常陸守、ワキ=童随身の一人、ツレ=光源氏の従者」は、「シテ=夕霧、ワキ=常陸守、シテツレ=光源氏の従者」と、シテとワキとの人物を逆転させることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-22

【一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、《A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。》という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。 】

 その上で、「光吉マジック・光吉ファンタジー」、そして、「宗達マジック・宗達ファンタジー」流に、この「A図の第四・五扇」に何かを潜ませているとすると、この「常陸守」には「宗達」自身のイメージを、そして、この「夕霧」には、正二位権大納言「烏丸光広」の嫡男「烏丸光賢(みつたか)」を潜ませているものと解したい。
 それは偏に、光吉の「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」に、光広の嫡男「烏丸光賢」が、その「詞」を添えているからに他ならない。

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1

(参考)

遣水もいといたうむせびて池の氷もえもいはずすごきに童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

第二十帖 朝顔
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
第二段 夜の庭の雪まろばし
3.2.4
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ
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yahantei

 とにもかくにも、「土佐光吉」と「俵屋宗達」宗達関連のデータが、何と、これまで敬遠していた「土佐光吉」関連から、殊に、『源氏物語』関連となると、こちらが土俵ということで、目白押しに出てきた。  
 あまつさえ、「土佐光吉・烏丸光賢」のコラボ作品の、「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」(京都国立博物館蔵)を目にすると、当分、この『源氏物語』周辺は、そうそう、探索できる分野でもないので、ここは、少し腰を据えて見ていきたい。
 「土佐光吉」周辺もさることながら、「烏山光広」周辺で、この嫡男の「烏丸光賢」は、三十九歳の若さで夭逝してしまう。そして、亡くなった年が、寛永十五年(一六三八)で、光広が亡くなった年のようなのである。
 これらのことに関連するのかどうか、俵屋宗達画の『伊勢物語図色紙』の第九段「富士の山」の「賛」は、「からす丸殿」、即ち、烏丸光賢の嫡男「烏丸資敬」(十二歳)なのである。
 この時、烏丸光広、五十五歳で、光広は、「からす丸大納言光広」で、第五十八段「田刈らむ」の賛をしている。
 いよいよ、謎は深まるばかりである。

by yahantei (2021-03-05 17:49) 

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