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醍醐寺などでの宗達(その十二・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十二 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
https://www.dnp.co.jp/news/detail/1192545_1587.html

光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/

 宗達の六曲一双の「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(A図)も、光吉の四曲一双の「源氏物語図屏風」(B図)とも、各隻の横の長さが(三五五・六㎝)と、B図「源氏物語図屏風」のように、両隻を右から左へと平行に並べると、七メートル強と、長大なものである。
 こういう豪華な「晴れ」(「晴」と「褻」の「晴れ」)の屏風は、どういう「所」に、どういう「時」に、どういう「人」が「集う」ときに、使用されるものなのかどうか?
 少なくとも、現在の、これらを所蔵されている「静嘉堂文庫美術館」、そして、「メトロポリタン美術館」が、これらの作品を展示するに必要な空間を有している、そういう建造物の中の一室ということになろう。
 光吉・宗達の時代、即ち、豊臣秀吉の「桃山時代」そして、それ続く、徳川家康の「徳川時代前期」ということになると、「宮廷・有力公家・門跡寺院・有力神社」、あるいは、「豊臣家・徳川家に連なる神社・仏閣」、そして、当時勃興しつつあった「有力町衆(京都町衆・堺衆・博多衆)」の、その居住空間ということになろう。
 A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」は、もともとは、醍醐寺三宝院の所蔵であった。
その三宝院の居住空間とその庭園の配置図は、次(C図)のとおりである。
そのうち、「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。 】

 この醍醐寺三宝院の「「⑥表書院」に、このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」を飾ると、このC図「三宝院庭園」の「蓬莱石組 ⑩鶴島 ⑨亀島 ⑪賀茂三石」と見事にマッ
チして来る。

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 この右隻は「関屋図」は、光源氏の「逢坂の関・石山寺参詣」の場面で、「醍醐寺→上醍醐寺→岩間寺→石山寺」と、西国三十三札所巡りのルートでもある。そして、左隻は、光源氏が都へ帰還出来たお礼の「住吉大社参詣」の場面で、この第五・六扇の「鳥居と太鼓橋(反橋)」は、その住吉神社を象徴するものである。
 そして、この「太鼓橋(反橋)」は、慶長年間に淀君が奉納したものとも伝えられており、この橋のたもとまで大阪湾の入り江であったことの象徴でもある。この大阪湾に連なる一角に、土佐光吉らが根城とする、当時の自由都市「堺」の港が続いている。その大阪湾から堺に連なる「州浜」が、C図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」と解することも出来よう。
 そのC図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」、そして、それは、大阪湾から堺港に連なる「州浜(すはま)」(曲線を描いて州が出入りしている浜)から、「⑨亀島 ⑩鶴島 蓬莱石組」へと通ずる、「荒磯(ありそ・あらそ)」(荒波の打ち寄せる、岩石の多い海岸)の海と、蓬莱神仙思想に基づく「不老不死の仙人が住む蓬莱山・長寿の象徴である鶴島や亀島」へ至るルートを示すものであろう。
 さらに、「⑬純浄観」からは、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」に続く「州浜」から、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づく「須弥山(しゃみさん)」(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)」と、阿弥陀三尊を示す「⑧藤戸石」(歴代の武将に引き継がれたことに由来する「天下の名石」)、そして、その奥の「⑦豊国大明神」(醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉を祀る社)などが、一望される。
 即ち、C図「三宝院庭園」は、蓬莱神仙思想に基づいた「蓬莱式庭園」と、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づいた「浄土式庭園」とを兼ね合わせ、さらに、「⑨亀島と⑩鶴島」の「蓬莱の島」は、実景の「松島」をも模しており、所謂、縮景で構成される「縮景式庭園」をも加味した、全体的として統一された三位一体の完璧且つ複合的な庭園の代表的なものなのである。
 ここに、茶室の出入り口は「にじり口」ではなく、かがまず出入りできる「貴人口」(貴人=菊の御紋の「天皇家」・葵の御紋の「徳川家」・桐の御紋の「豊臣家」の貴人)の「枕流亭」が南東に設置され、その南東の隅に「三段の滝」(各々の滝の音が、さらにこの庭園を引き立てる)、その南西の「⑬純浄観」の前と後ろに「滝石組」(「⑭奥宸殿」の舟着場・「枕流亭」の船着場)まで設置され、単なる、「観賞式庭園(鑑賞するタイプの庭園)・廻遊式庭園(庭園内を回遊するタイプの庭園)」だけではなく、「舟遊式庭園(歩かずに池に浮かべた舟から観る庭園)・露地庭園茶室まわりの庭園」も兼ねそなえているのである。
 この「⑭奥宸殿」の東北側に、茶室「松月亭」(奥宸殿の東北側、南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造り)がある。そして、この茶室「松月亭」の「滝石組」が「内海」(湖・池)とするならば、茶室「枕流亭」の「滝石組」は「外海」(海・荒磯・荒海)の、それをイメージすることになる。
 ことほど左様に、「醍醐寺三宝院庭園」というのは、下記のアドレスの、庭園の要素の全てを兼ね備えた、類まれなる庭園の、紛れもない、その一つということになる。

https://www.travel.co.jp/guide/howto/43/

「何を表現しているか」による分類 (浄土式庭園/蓬莱式庭園/縮景式庭園 etc.)
□ 浄土式庭園
□ 蓬莱式庭園
□ 縮景式庭園

「何で表現しているか」による分類 (枯山水庭園/池泉庭園/築山林泉庭園 etc.)
□ 枯山水庭園
□ 池泉庭園
□ 築山林泉庭園

「どのように鑑賞するか」による分類 (観賞式庭園/廻遊式庭園/舟遊式庭園/露地庭園)
□ 観賞式庭園
□ 廻遊式庭園
□ 舟遊式庭園
□ 露地庭園

 この「醍醐寺三宝院」には、A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)は、見事にマッチするのであるが、B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)は、どうしても馴染まない。
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B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)

 これは偏に、右隻の「御幸・浮舟図屏風」の、その四扇に描かれた下記の「浮舟図」にある。

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B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)

  この図(B-1図「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)の「御舟」の男女二人は、あたかも恋の逃避行の感じで、真言宗醍醐派総本山の醍醐寺の一角に鎮座するのには、やや場違いという印象は拭えない。
 このB図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)に相応しい空間として、例えば、下記のB-2図の天皇の乗る、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」と同じく、「金色の鳳凰」を屋根に戴く「平等院」などは、『源氏物語』の「宇治十帖」の故郷でもあり、少なくとも、醍醐寺三宝院よりは馴染むであろう。

御幸・輿拡大.jpg

B-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

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平等院「鳳凰堂」(国宝)
【京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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平等院ミュージアム鳳翔館に設けられた「源氏物語図屏風」(「綴プロジェクト」による「高精細複製品」)
https://global.canon/ja/tsuzuri/donation.html

 メトロポリタン美術館所蔵の、この光吉の「源氏物語図屏風」は、「綴プロジェクト」による「高精細複製品」の一つとなり、今に平等院に寄贈され、上記のとおり一般公開されているが、元々は部屋を取り囲む「襖絵」の一部であったと、上記のアドレスでは紹介されている。
 こういう金地著色の豪奢なものを襖の一部としていたのは、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の居住空間として、後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう。
 この「桂離宮」は、『源氏物語』第十八帖「松風」に、「明石の君」(明石の御方・明石・御方・女君・女・君)と「明石の姫君」(若君=光源氏と明石の君の娘)が上洛し、住まいとしている「大堰(おおい)山荘」(「桂川」の上流の「嵐山」近くの山荘)から「はひわたるほど」(這ってでも行ける近距離)の所に「桂の院」(「桂の院といふ所、 にはかに造らせたまふ」=光源氏の「桂川」の別荘)との名称で出て来る。
 この『源氏物語』第十八帖「松風」の原文に照らしながら、下記の「桂離宮」の平面図などを見て行くと、この「桂離宮」が多くの点で、『源氏物語』の、殊に、この第十八帖「松風」などを参考としていることが、随所に見受けられる。
 もとより、この「桂離宮」の造営着手は、元和元年(一六一五)の頃とされ、さらに、その第一期造成完成は寛永元年(一六二四)の頃で(『新編名宝日本の美術22桂離宮』)、土佐光吉(没年=慶長十八年=一六一三)の時代は、八条宮の本邸(京都御苑内、御殿は二条城に移築)での、正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子(後陽成天皇は同母兄)智仁親王の時代ということになる。
 そして、この八条宮智仁親王は、慶長五年(一六〇〇)に細川幽斎から「古今伝授」を受け、さらに、同十五年(一六一〇)には、「源氏物語相伝」を受けており、「書・香・茶」など各道に優れ、当代切っての代表的な文化人なのである。

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「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)

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※※※亀の尾の住吉の松
https://earthtime-club.jp/column/history/071-2/

※※※「亀の尾の住吉の松」=月波楼横の池泉に突き出た岬(亀の尾)に一本の松が植えられている。この松は『古今和歌集』仮名序に「高砂・住江(住吉のこと)の松も相生のやうにおぼえ」とある住吉の松で、対となる高砂の松は池をはさんで対岸に植えられている。常緑の松には、古来神様が天から舞い降りるという「依代(よりしろ)信仰」があり、その信仰が庭と結びつき、日本庭園では松が貴重な存在となっている。岬(亀の尾)はちょうど池泉全体を見晴らす位置にあり、敷地のほぼ中央にある。この位置こそ、神様に降りていただくには最もふさわしい場所なのであろう。

『源氏物語』第十八帖「松風」第二章「第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会」第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.2.html#paragraph2.5

2.5.3 契りしに変はらぬ琴の調べにて/ 絶えぬ心のほどは知りきや(光源氏)
(約束したとおり、琴の調べのように変わらない。わたしの心をお分かりいただけましたか)

2.5.5  変はらじと契りしことを頼みにて/ 松の響きに音を添へしかな(明石の君)
(変わらないと約束なさったことを頼みとして、松風の音に泣く声を添えていました)  】

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞曼殊院良恕 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

【『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第二段「桂院に到着、饗宴始まる」 

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(詞曼殊院良恕: 大御酒あまたたび/順流れて川のわたり/危ふげなれば酔ひに/紛れておはしまし/暮らしつ )   】


追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

(メモ)

一 形状は「折本型式」(現在は四帖、本来は二帖、「絵と詞書」で一対。縦 25.7 cm×横 22.7 cmの色紙が台紙に貼付されている)で、「絵五十四図、詞書五十四枚」から成っているが、内容は、上記のとおりで、『源氏物語』五十四帖の全部を載せるのではなく、「41雲隠・49 宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」は絵も詞書もない。そして、その代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が、「48早蕨」の後に続いている。

二 絵の裏面に「印章」と「墨書」とが、「久翌」印(光吉の「印章」)のみ、「長次郎」墨書のみ、全くの「無記入」との三種類に分けられる。

① 「久翌」印(光吉の「印章」)のみ→「光吉筆」
 「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上)・(下)(光吉筆)」までの三十五図は、「光吉筆」の直筆である。
② 「無記入」のもの→「長次郎筆」
 「35柏木(長次郎筆)」から「48早蕨(長次郎筆)」までの十三図は、「光吉」門弟「長次郎筆」と解せられる。(「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」)

③ 「長次郎」墨書のみ→「長次郎筆」
 「48早蕨」の後に続く「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」の六図については「長次郎」の墨書があり、「長次郎筆」である。

三 詞書の裏面にもその筆者名を示す注記がある。その注記にある官位名は、その多くが元和三年(一六一七)時点のものが多いのだが、元和五年(一六一九)時点のものもあり、その注記はて一筆でなされており、元和三年時点で作られていた筆者目録を、元和五年以降に全て
同時に書かれたものとされている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。


③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

信尹・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(参考一)
A-1図は、「画土佐光吉」で、A-3図は、「画長次郎」である。同じ「蓬生」でも、描かれている場面が異なるので、「土佐光吉」と「長次郎」との画風の相違点は歴然としないが、人物の描写などを見ても、「長次郎」よりも「光吉」の方が「緊迫感」などの鋭さが伝わって来る。また、背景の描写でも、「松」の「緑」と、建物内の「敷物」の「緑」など、「長次郎」の画は、その細部の点で工夫の跡がうかがえないが、「光吉」の画では、「松」と「藤」との「草花」の「緑」などが、実に巧みに違った味わいを見せている。

(参考二)
 A-2図は、「詞近衛信尋」で、「近衛信尋」の書である。「尋書く」と署名があり、「詞書」は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の「露すこし払はせて/なむ入らせたまふべきと/聞こゆれば/尋ねても我こそ訪はめ/道もなく深き蓬の/もとの心を」という一節である。この信尋の書は、養父の近衛信尹が亡くなった慶長十九年(一六一四)の十六歳から、元和六年(一六二〇)の「近衛右大臣左大将」にあった、二十歳の成人を迎えた頃の作とすると、能書家として夙に知られている信尋の、その早熟ぶりが如何ともなく伝わって来る。
 A-4図は、「近衛信尋」の養父の、慶長十九年(一六一四)に没した、「近衛前関白左大臣」の「近衛信尹」の書である。この書は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の、「年を経て待つしるし/なきわが宿を花のたよりに/過ぎぬばかりかと忍びやかに/うちみじろきたまへる/けはひも袖の香も昔より/はねびまさりたまへるにやと/思され」の一節である。
この信尹は、「書・和歌・連歌・絵画・音曲諸芸に通じ、特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に『寛永の三筆』と後世、能書を称えられている」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)、その人である。その人の、亡くなる、最晩年の、慶長十九年(一六一四)当時の、その享年五十の頃の絶筆に近いものであろう。
 慶長十八年(一六一三)に、土佐光吉、そして、その一年後に近衛信尹が亡くなった後、遺された「近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」の二人をサポートして、この「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」を、今の形にまとめさせた中心人物は、後陽成天皇の弟(後水尾天皇)で、「後水尾天皇」や「信尋」の後見人のような立場にあった「八条宮智仁(一五七九~一六二九)」なども、その一人に数えられるであろう。
 その推計の根拠は、「花散里」(土佐光吉筆)の詞書は「近衛信尹息女太郎(君)」で、同じ画題の「花散里」(長次郎筆)の詞書は「八条宮智仁」その人で、この「八条宮智仁」は、「葵」(土佐光吉画)と「賢木」(土佐光吉画)との詞書も草していることなどを挙げて置きたい。

光吉・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

(参考三)
 B-1図は、土佐光吉の「花散里」である。そして、B-2図は、それに対応する「詞近衛信尹息女太郎(君)」で、「信尹息女」の「太郎(「君」とも「姫」ともいわれている) の書である。その書(詞書)は、次の場面のものである。
「琴をあづまに調べて掻き/合はせにぎははしく弾きなすなり/御耳とまりて門近なる/所なればすこしさし出でて/見入れたまへば」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)。

長次郎・花散里.jpg

B-3図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-4図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

(参考四)
 B-3図は、長次郎の「花散里」で、光吉の「花散里」のB-1図と同じ場面を描いたものである。このB-3図(長次郎画)とB-1図(光吉画)とを見比べていくと、B-1図(光吉画)の老成な味わい深い世界に比して、のB-3図(長次郎画)は、若書きの清澄な世界の趣が感じとられる。同様に、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界は、B-3図(長次郎画)と同じような若書きの荒削りの筆勢というのが伝わって来るのに対して、B-4図(詞八条宮智仁)の書からは、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界と真逆の老練な響きな世界という印象すら伝達されて来る。
 いずれにしろ、「A-1図(土佐光吉画・蓬生)・A-4図(近衛信尹書・蓬生)」と「B-1図(土佐光吉画・花散里)・B-4図(八条宮智仁書・花散里)」の「老成・老練」の世界に比して、「A-2図(近衛信尋書・蓬生)とA-3図(長次郎画・蓬生)」と「B-2図(近衛信尹息女太郎(君)書・花散里)とB-3図(長次郎画・花散里)」との「若書き・清澄」の世界とは好対照を成している。 
 なお、このB-4図(詞八条宮智仁)の詞書は、次の場面のものである。
「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす/ ほの語らひし宿の垣根に/
寝殿とおぼしき/屋の西の/妻に/人びとゐたり/先々も/聞きし声/なれば/声づくりけしきとりて/御消息/聞こゆ/若やかなる/けしきどもして/おぼめくなる/べし」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

 先に、「桂離宮」に関連して、【後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう】ということを記したが、その「本邸」は、京都御苑内(同志社女子大学今出川キャンパスと京都御所との間)にあって、慶長年間に屋敷替えなどがあり、度々本邸の改築などが施されており、その「本邸・桂離宮」を含めてのものとした方が、より相応しいのかも知れない。
と同時に、「宮廷絵所預」の「土佐派」(土佐光吉)と、上記の「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図の※印の「詞書」筆者などとの関連は、やはり、濃密な関係にあったことも特記をして置く必要があろう。殊に、「※近衛信尋(養父・※近衛信尹)」と「土佐光吉」との関係は、更なるフォローが必須となって来るであろう。

(参考六) 「長次郎」と「土佐光則」周辺

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「土佐光吉」が描いた三十五図(『久翌』の印章有り)の他に、「長次郎」が描いたとされる「六図」(「長次郎」の墨書名がある)と十三図(無記名・無印で「長次郎の墨書名がある六図」と同一画人とされる「長次郎」)の、その「長次郎」とは何者なのか? 
 光吉の側近中の側近とすれば、光吉の子とも弟子といわれている「土佐光則」(一五八三~一六三八)とすると、光吉が亡くなった慶長十八年(一六一三)の時、数え齢三十一歳で、年恰好からすると、光則が「長次郎」とも思われるが、その確証はない。

【土佐光則(とさみつのり、天正11年(1583年) - 寛永15年1月16日(1638年3月1日))は安土桃山時代 - 江戸時代初期、大和絵の土佐派の絵師。源左衛門尉、あるいは右近と称した。土佐光吉の子供、あるいは弟子。住吉如慶は弟とも、門人とも言われる。土佐光起の父。
光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上したが、官位を得るまでには至らなかったようだ。寛永6年(1629年)から11年(1634年)には、狩野山楽、山雪、探幽、安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」(個人蔵)の制作に参加している。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。
極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。こうした細密描写には、当時堺を通じて南蛮貿易でもたらされたレンズを使用していたとも言われる。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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yahantei

土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)関連をこれほど吟味するとは、全然予想もしなかったが、「光悦・宗達・素庵・光広」周辺よりも、この「源氏物語画帖」の全てを、これまで未見であった『源氏物語』の全体像を見る上でも、こちらに、方向舵を曲げようとしたが、これはこれで、相当な時間と労力を要するようで、その機会があればということで、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の次は、これまでにも、何回となく挑戦している「松島図屏風」に、再々度、挑戦することにした。そして、これがまた、これまでの「フリーア美術館逍遥」との関連で、なかなか容易でない気配なのである。
by yahantei (2021-03-25 16:11) 

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