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醍醐寺などでの宗達(その十六・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十六 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その三)

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

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尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)
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尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 これらの、宗達筆「松島図屏風」(A-1図・A-2図)、そして光琳筆「松島図屏風」(B図・C図)に関連しては、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-09

 それから、およそ三年を経過した、下記のアドレスで、これらは、等伯の「波濤図」(京都・禅林寺蔵)と何らかの関係があるのではなかろうか? ということについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-28

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等伯筆「波涛図」(三幅・その一)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の一 

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等伯筆「波涛図」(三幅・その二)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の二

【「波涛図」六幅 長谷川等伯筆 紙本金地墨画 四幅(各)一八五・〇×一四〇・五㎝
二幅(各) 一八五・〇×八九・〇㎝ 重要文化財 京都・禅林寺蔵
 禅林寺大方丈の中之間を飾っていた襖絵(全十二面)の一部にあたるもので、現在は掛幅に改装されている。寺伝では狩野元信筆、通説では曽我派の作に擬されたこともあったが、その結晶体を想わせる鋭利な岩皺表現から、現在は長谷川派とくに等伯筆とみることが定着している。おそらく今後もその見方が揺らぐことはないだろう。
 図は、海中に屹立する岩塊と、それにぶつかつて渦を巻く波涛だけを長大な画面にほとんど墨一色をもって描き連ねたもので、波は信春時代の仏画にみるような、抑揚のない細線を駆使して丁寧にあらわされている。岩の手前と背後には金箔による雲霞が配されているが、それらは岩の存在を際立たせるとともに、ともすれば地味となりがちな水墨の画面を著しく華やいだものにしているといえよう。
 桃山時代になって大いなる盛行をみる金碧画であるが、純粋な水墨画に金雲を組み合わせた作例は本図の他に見当たらない。その点、本図は「松林図屏風」とはまた違った、等伯による斬新かつ意欲的な試みとして高く評価されるべきであろう。岩法は「四愛図襖」のそれと近似するが、筆遣いはより強く、かつ速まっており、隣華院の「山水図襖」への接近を示す。その作期としては、等伯五十代の末頃を想定しておきたい。
 なお、等伯は「波」に強い関心を抱いていたようで、唐代の詩人・杜甫が同時代の画家・王宰の描きぶりを評した「五日に一石、十日に一水」を受けて、岩よりも水を描くことの方が難しく、重要であるとの見解が『等伯画説』に披露されている。また同じ『等伯画説』には、画の名手で等春を庇護した細川成之の「波ノ画」一双屏風の写しを等伯が所持していたことも記されているが、この「波ノ画」が本図制作の参考にされた可能性は考慮される必要があろう。 】(『没後四〇〇年長谷川等伯』所収「作品解説四六・山本英男稿)」

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」(六曲一双・その一)  (出光美術館蔵)→E図の一

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」六曲一双・その二)  (出光美術館蔵)→E図の二
https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/3bd58b853d741e9867d575ee16652f3b
【 「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/02.idemitsu-No17_2012.pdf  」】

 上記の「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」を見ると、この出光美術館蔵の「波涛図屏風」(六曲一双)は、「金雲に金砂子が加えられ、また波に藍色が施され、より装飾性が高められている」とし、「法眼落款の作品であるが、等伯次世代の長谷川派の絵師による作例ではないか」としている。

 これらの、等伯筆の「波涛図」(D図の一・D図の二)、そして、等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に接した時に、次のアドレスの抱一の「波図屏風」などが浮かんできたのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

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酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

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酒井抱一筆「波図屏風」(部分拡大図)→F図

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→G図
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

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北斎筆「神奈川沖浪裏」 横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)→H図
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 ここに、新たに、等伯筆「波涛図」(D図の一・D図の二)と等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に続けて、狩野探幽の「波涛図」(I図の一・I図の二)も付け加えたい。

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狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の一

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狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の二
【 https://www.shimane-art-museum.jp/collection/
 大画面に余白を大きくとって大海原を描き、左右に岩を配した波濤図。狩野派の筆法による岩や波の描写や簡潔な構図に、探幽画の特徴が示されている。後年の作品に、この構図をもとに水鳥を配した《波濤水禽図》(静嘉堂文庫美術館蔵)があり、画様の変容が窺える。探幽の画業は、作風と落款の変遷から3期に分けられるが、この作品は34歳から59歳にかけて探幽斎と称した「斎書き時代」中頃の作と考えられる。 】

等伯筆「波涛図屏風」(D図の一・D図の二)→「金と墨との波涛図」
等伯(長谷川)筆「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)→「金(雲)と墨と藍との波涛図」

探幽筆「波涛図屏風」(I図の一・I図の二)→「金と墨と余白との波涛図」

宗達筆「松島図屏風」(A図の一・A図の二)→「金(州浜)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」

光琳筆「松島図屏風」(B図)→「金(雲)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」
光琳筆「松島図屏風」(C図)→「金銀白(荒磯)と緑青(岩)との波涛図」
光琳筆「波涛図屏風」(G図)→「金箔地と墨との波涛図」

抱一筆「波図屏風」(F図)→「銀箔地と墨との波涛図」

北斎筆「神奈川沖浪裏」(H図)→「ベロ藍(プルシアンブルー)の『藍摺絵(あいずりえ)』の波涛図」 

タグ:波涛図屏風
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yahantei

「桃山時代になって大いなる盛行をみる金碧画であるが、純粋な水墨画に金雲を組み合わせた作例は本図の他に見当たらない。その点、本図は「松林図屏風」とはまた違った、等伯による斬新かつ意欲的な試みとして高く評価されるべきであろう。岩法は「四愛図襖」のそれと近似するが、筆遣いはより強く、かつ速まっており、隣華院の「山水図襖」への接近を示す。その作期としては、等伯五十代の末頃を想定しておきたい。」

ともすると、「琳派」というのは、「宗達→光琳→抱一」の流れということになるが、「されど、等伯」で、やはり、「等伯・長谷川派」が、陰に陽に、さまざまな影を投影している。

そして、その「等伯・長谷川派」は、「永徳と等伯」との相克を背景として「探幽・狩野派」との、その切磋琢磨の相克の様を如実に示している。

そういう、「狩野派対長谷川派」とか「琳派の勃興」とかと、一見、無縁の世界の、江戸の市中において、何とも異様な「ベロ藍(プルシアンブルー)の『藍摺絵(あいずりえ)』の波涛図」 が席捲して来る。
 

by yahantei (2021-03-30 17:41) 

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