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醍醐寺などでの宗達(その十七・「雲龍図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十七 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「雲龍図屏風 (宗達筆)」

雲龍図屏風.jpg

「雲龍図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm フリーア美術館蔵
《綴プロジェクト作品(高精細複製品)「雲龍図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:東京芸術大学美術館》→ A図の一
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-08.html

 この宗達の「雲龍図屏風」も下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-15-1

【Dragons and Clouds
Type Screen (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Momoyama or Edo period, 1590-1640
Medium Ink and pink tint on paper
Dimension(s) H x W: 171.5 x 374.6 cm (67 1/2 x 147 1/2 in)

《「雲竜図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm
六曲一双の大画面に波間から姿を現し、対峙する二頭の龍を雄渾な筆致で描く。二頭に反転したような姿態でにらみ合う。龍は周りを黒雲で囲み、塗り残しの白さで表す。左右に躍る二組の波濤の形態は、のちに光琳や抱一の「波図屏風」にそのまま受け継がれている。龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える。》(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)】

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A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の三(「右隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の四(「右隻」の波図・部分拡大図)

 確かに、この宗達の「波図」(A図の四) は、下記の光琳の「波図」(B図)と、抱一の「波図」(C図)とに、確りと引き継がれている。

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→B図

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酒井抱一筆「波図屏風(部分拡大図)」六曲一双 各一六九・八×三六九・〇cm 静嘉堂文庫美術館→C図

 そして、確かに、この宗達の龍は、「龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える」ということを実感する。これは、宗達その人の自画像なのかも知れない。この龍の眼を見ていると、「好奇心旺盛で、猜疑心が強く、ユーモアと優しさを秘めて、一切は語らず」の、謎の絵師・宗達その人の「眼」という思いを深くする。
そして、この「眼」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の、あの何とも言えない、二頭の「牛」の表情(「眼)と、同じものという印象を深くするのである。

宗達・関屋図部分二.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」右隻=関屋図(部分拡大図)=D図の一

宗達・澪標船.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」左隻=澪標図(部分拡大図)=D図の二

 この宗達の「牛」(D図の一)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。そして、次の「牛」(D図の二)は、「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものなのである。
 これらのことについて、「宗達マジック・宗達ファンタジー」ということについて、下記のアドレナスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-09

 この「宗達マジック・宗達ファンタジー」というのは、決して宗達の独占的なものではなく、当時の名のある絵師なら、その大小や程度の差はあるが、何らかの「マジック」(トリック=騙し)やら「ファンタジー」(幻想・空想を呼び起こさせるもの)を、その作品の中に潜ませている。

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)
「青矢印が太くて長いまつ毛に隠れた左目で、赤矢印は目ではなく鼻の一部にように受け止めてしまいますが、反対側に行くと、その赤矢印が大きく開いた目となり、「両目で睨まれる」となります」
http://blog.unno-kouenkai.com/?eid=1584000

 これは、狩野派の総帥、探幽の「騙し絵」である。探幽には「鳴き龍」(大徳寺「法堂」)もある。

大徳寺・鳴き龍.jpg

大徳寺・法堂 (重要文化財)寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図=蟠龍図」は狩野探幽35歳の作。→ E図
https://ja.kyoto.travel/specialopening/winter/2019/special/public01.php?special_exhibition_id=31

 この大徳寺には、等伯(等白)の天井に描かれている「雲龍図」もある。

等伯・雲龍図.jpg

大徳寺(山=三門)金毛閣〈龍の天井絵〉長谷川等白(等伯)筆=龍源院は能登の守護大名畠山氏が建立、再興し、等伯の師とされる等春が晩年を過ごした。→ F図
https://coshian.exblog.jp/17319338/ https://news.yahoo.co.jp/articles/e065c8946d9b759368deaded7a677ed046ca41f5

 探幽の「法堂」の「雲龍図」(鳴き龍)に比して、等白(等伯)の、この「金毛閣」の「雲龍図」は、それほど喧伝されていない。「永徳・等伯年譜」(『新編名宝日本の美術 永徳・等伯』所収 )の「天正十七年(一五八九、永徳・四七歳、等伯・五一歳)」の項に、「大徳寺三門の天井画・柱絵を描く。大徳寺三玄院創建。同院の襖絵(京都市円徳院他蔵)制作はこの頃か。(『大宝院鑑国師行道記』)」とある。
 この「山=三門・金毛閣」は、下記の「大徳寺境内図」の「勅使門→金毛閣→仏殿→法堂」の一直線上の中心伽藍の中にあり、「勅使門」の南側に「龍源院」、「法堂」の西側に「三玄院」、そして、「真珠庵」は「本坊・方丈」の北側に位置する。

大徳寺境内図.jpg

「大徳寺」境内図(配置図)
http://www.geisya.or.jp/~tamaruya/info/mapwide.html

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)の時代は、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代から、探幽(慶長七=一六〇二~延宝二=一六七四)時代への、その橋渡しの時代ということになる。

雲龍図屏風二.jpg

A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

 この宗達の「左隻」の龍図の視線は、「来し方」の、等伯の、F図の、「大徳寺(金毛閣」」の「雲龍図」を睨んでいる。

雲龍図屏風三.jpg

 この宗達の「右隻」の龍は、「行く末」の、探幽の、E図の「大徳寺(法堂)」の「「雲龍図=蟠龍図」を睨んでいる。

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)時代の先鞭をつけた、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代に、もう一人、海北友松(天文二=一五三三~慶長二十=一六一五)の「雲龍図」(京都・建仁寺蔵)は、これは避けては通れないであろう。

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海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)→G図の一

友松・龍右.png
海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九) →G図の二
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
【本坊方丈の玄関に最も近い位置にある「礼之間」を飾る8面の襖絵です。阿吽(あうん)の双龍が対峙するように配され、建仁寺を訪れたものを濃墨の暗雲の中から姿をあらわして出迎えます。迫力と威圧感は他の画家の追随を許しません。】

 この友松の「雲龍図」は、「阿吽(あうん)」=「阿=口を開ける・吽=口を閉じる」の「双龍図」なのである。それに比して、宗達の「双龍図」は、その口ではなく、その眼の、その「視線の先」は、一切が『語らざる』の、沈黙の「ファンタジーの世界(さまざまな幻想などを掻き立てる語らざる世界)」なのである。

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)→H図 

宗達の最高傑作と言われている、友松筆「雲龍図」(襖八面)と同じ「建仁寺」所蔵の、「風神雷神図」(部分拡大図・H図)である。
 この宗達の、右の「風神図」の「風神」の口は「開いて」、さながら、友松の「阿の龍」(G図の二)で、その「眼」の視線も同じ方向である。
 そして、この宗達の、左の「雷神図」の「雷神」の口は「閉じて」、これもまた、友松の「吽の龍」(G図の一)さながらで、その「眼」の視線も、これまた、同じ方向である。

(これまでに、下記のアドレスで「風神雷神図」幻想(その一~二十))と題して、その周辺を探索したことがあるが、新たに「宗達ファンタジー」と題して、その続きをフォローして行きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306151768-1

【「風神雷神図」幻想(その一~二十)
2018-03-1  (その一)   河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)
2018-04-24 (その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界 】

タグ:雲龍図屏風
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yahantei

過去のデータと、現時点でのデータとを結びつけて行くことは、なかなか容易でない。と同時に、過去のデータを見て、どうしても修正したい箇所などと共に、なかなか核心を突いているものとか、これらのことに拘泥すると、なかなか先へ進まない。
 そして、これまでの過去のデータと、現時点でのデータを、「年譜」的に、「照合・羅列」などとして行くと、だんだんと「見えてくる」ものがある。
 特に、「近衛信尹(三藐院・没五〇)、角倉了以(没六一)、海北友松(没八三)した」、慶長二十年(一六一五)、そして、元和元年(一六一五)は、大きな、「節目の年」であったことを痛感する。
by yahantei (2021-04-11 16:37) 

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