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醍醐寺などでの宗達(その十九・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十九「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その二)

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)

 前回のものをアップして、その時に、「モヤモヤとしていた」ものを次のように記した。
今回は、その「モヤモヤとしていた」、その「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる」ということに関連に焦点を絞って、その周辺を探索したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

 これは、これで、「なかなか面白い」と思ったのだが、次の『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータとの関連をクリアするのが、これまた、厄介である。

「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 】

角倉了以別邸.jpg

「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)

 宗達の「風神雷神図屏風」は、「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだきんのり)」が、「臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念」に寄贈するため製作を依頼したもの」という妙光寺伝来の、「糸屋の打它公軌(糸屋十右衛門)」とは、謎につつまれた宗達と同じように、その全体像はなかなか正体不明の人物である。
 下記のアドレスでは、「豪商・打它公軌は越前(福井県)敦賀の豪商・糸屋彦次郎の子として生まれ、家業を継がずに京都に出て、驚月庵に営み、歌を大名・歌人である木下長嘯子、俳人・歌人である松永貞徳、公卿・歌人である中院通勝に学び、木下長嘯子の「挙白集」を編集した」と、ここでも、「中院通村」の実父「中院通勝」(嵯峨本『伊勢物語』校閲者)が出てくる。

https://kyototravel.info/kenninjifuujinraijinzu

 さらに、この打它公軌の「糸屋」は、当時の俗謡に次のようにうたわれているようなのだが、この「糸屋」も、様々にうたわれており、その「糸屋」の住所などは、今一つ分からない。

「〇〇〇〇糸屋の娘/姉は十六妹は十四/諸国(諸)大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は眼で殺す」

 この「〇〇〇〇」には、「京都三条糸屋の娘」(梁川星巌)とか「大阪本町糸屋の娘」(頼山陽)とかの、その漢詩の「起承転結」の用例で出てくるやら、その他に「三条木屋町」とか「京の五条の」とか、そして、「姉の年齢は十八だとか、妹の年齢も十五」だとか、どうにもややっこしい。
 この俗謡を、「三条木屋町糸屋の娘」とすると、上記の「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)が、角倉了以・素庵親子が開削した運河の「高瀬川」に添う「木屋町通り」で、ここに、打它公軌の「糸屋」があったとすると、「光悦・素庵・宗達」(「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」に携わった「光悦グループ」)の「素庵」との接点が浮かび上がってくる。
 ここに、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を重ね合わせると、「五条は扇の俵屋」の「俵屋宗達」との接点も、これまた浮かび上がってくる。
 この『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の「五条は扇の俵屋」関連については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここでは、この「三条木屋町」の「打它公軌」の「糸屋」(繊維問屋)の、その「絲印」(室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印)と、宗達の印章として使用されている「伊年」印、そして、「「対青軒」の円印などとの関連である。
 この宗達の「伊年」そして「「対青軒」の円印と、「絲印」との関連について指摘したのは、下記のアドレスでの、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」においてであった。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 宗達の「伊年」印、「対青軒」の円印、そして、「絲印」などを、参考に、掲載して置きたい。

和歌巻21.jpg

「四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

対青軒印.jpg

「対青軒」=典拠は模刻印(摹刻印)。典拠は「野村宗達」で立項。典拠によると「印径二寸□カ」。印文は典拠に従った。
https://dbrec.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_DB=G0038791ZSI&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0038791ZSI&GRP_ID=G0038791&IS_START=1&IS_EXTSCH=&SUM_TYPE=normal&IS_REG_S1=none&IS_TAG_S1=Identifier&IS_KEY_S1=G0038791ZSI:47531&IS_LGC_S2=AND&IS_CND_S1=ALL&IS_NUMBER=1&XPARA=&IS_DETAILTYPE=&IMAGE_XML_TYPE=&IMAGE_VIEW_DIRECTION=

絲印.jpg

<絲印の由来>
絲印とは、室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印のことをいい、小さな鈕(ちゅう)のついた印である。
https://ameblo.jp/mammy888/entry-11927032659.html

 ここで、最初の振り出しに戻って、【「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】ということに関連しては、次のように解して置きたい。

(「宗達ファンタジー」その二)

一 宗達の最高傑作と言われる「風神雷神図」は、「家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つ」なのであるが、何らかの経過を経て、当時の上層町衆の一人である、当時の「三条木屋町」で「糸屋」(繊維問屋)を営む「打它公軌」(糸屋十右衛門)に下賜され、「打它公軌」(糸屋十右衛門))のものとなっている。

二 その「打它公軌」(糸屋十右衛門)の所有している「風神雷神図」は、妙光寺再興の記念に、同寺に寄贈される。この間の「寛永十四年(一六三七)~元文四年(一七三九)」までの、
下記のアドレスの「妙光寺編年表」より、主要なものを掲載して置きたい。
 これによると、「※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英) 後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。」と、後水尾天皇は、この「妙光寺」で、御所に進呈され、それを、下賜した「風神雷神図屏風」に再会したということになる。
 また、この「風神雷神図屏風」が、建仁寺へ移管された時期は、「※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅) 東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。」の頃で、尾形光琳や乾山が、この「風神雷神図屏風」に接したのは、建仁寺ではなく、この妙光寺の方丈に於てであると思われる。

https://kyoto-bunkaisan.com/report/pdf/kiyou/02/06_mase.pdf

【寛永14年8月12日(1637年9月30日) 
打宅公軌が建仁寺霊洞院の所管の北山妙光寺屋敷並びに山薮の再興と管理をまかされる。

寛永16年10月13日(1639年11月8日 三江和尚)
妙光禅寺再建,開山法燈円明国師忌を降魔室において行う。

正保4年3月14日(1647年4月18日  三江和尚)
打宅公軌死去,驚月庵香林良亭居士と号す。

慶安元年9月13日(1648年10月29日  三江和尚)
打宅景軌が妙光寺の永代檀那となすことを常光大和尚に約定。妙光寺山のうち,西の方3分の1は,驚月庵へ永代地として除くが,それは良亭遺骨と祖父宗貞の遺骨を納めた石塔を建置く打宅一門の墓とするためである。

慶安3年8月23日(1650年9月18日  雲菴覚英)
三江和尚遷化,雲菴覚英継住

※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英)
後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。

寛文6年(1666年  雲菴覚英)
打宅景軌により山門が再建落成される。

天和2年2月19日(1682年3月27日 乙檀西堂)
雲菴覚英遷化し,乙檀西堂が継住

元禄3年11月2日(1690年12月2日 乙檀西堂)
打宅十兵衛雲泉が驚月庵並びに山薮一式を預かるとともに,妙光寺のことも管理することを約定する。

元禄9年11月21日(1696年12月15日  東明覚沅)
乙檀西堂遷化,東明覚沅継住

享保6年8月22日(1721年10月12日 東明覚沅)
打宅十右衛門死去,實乗院観海雲泉居士と号す。

※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅)
東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。

※※元文4年10月29日(1739年11月29日 東明覚沅)
東明和尚,建仁寺へ再住開堂する。     】

(参考)  尾形乾山略年表

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/244188/1/kenzan2019.pdf

1663(寛文3) 1歳 京都の呉服商尾形宗謙の三男として誕生。幼名、権平。次兄は市丞(のちの光琳)。
1687(貞享4) 25 歳 父・宗謙没(67 歳)。家屋敷・金銀諸道具などの遺産を受け継ぐ。
1689(元禄2) 27 歳 仁和寺の門前、双ヶ岡の麓に習静堂を建てて隠棲する。
1694(元禄7) 32 歳 福王子村鳴滝泉谷にある山屋敷を二條家より拝領する。
1699(元禄 12) 37 歳 3月、仁和寺へ開窯を願い出て許可される。9月、窯を築く。
11 月、初窯。乾山焼と命名し、仁和寺門跡へ茶碗を献上する。
1700(元禄 13) 38 歳 3月、二條綱平 (1672-1732) へ乾山焼香炉を献上。その後 20 年近くにわたって、二條綱平へ乾山焼を献上する。
1712(正徳2) 50 歳 鳴滝乾山窯を廃窯する。二条丁子屋町へ移転し、「焼物商売」を継続する。
1731(享保 16) 69 歳 輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下向か。猪八(二代乾山)、聖護院門前で乾山焼を生産する(聖護院乾山窯)。
1737(元文2) 75 歳 3月、技法書『陶工必用』完成。9月、下野国佐野を訪れ、『陶磁製方』執筆。
1743(寛保3) 81 歳 6月2日、乾山没。
1744 ~ 1747(延享1~4) 二代乾山、聖護院門前で、乾山窯を継続か(「延享年製」銘の火入あり)。

(尾形光琳関連メモ)

http://www.kyoto-yakata.net/artist/2416/

1658年 万治元京都で呉服商の「雁金屋(かりがねや)」の当主、尾形宗謙の次男として生まれる。絵画、能楽、茶道などに親しむ。 30歳の時に父が死去し、財産を相続した為に40代頃まで放蕩・散財生活を送ったと考えられている。画業の始まりは画家が30代前半におこなった改名した頃と同一視されるも、本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測される。40歳のころ、ようやく絵師として立つことを決心します。

1701年 44歳で朝廷から優れた絵師に贈られる法橋の位を得る。もって生まれた天賊の才と公家や銀座の役人、中村内蔵助(くらのすけ)らをパトロンとして、光琳は瞬く間に絵師としての地位を確立します。順風満帆な光琳が屏風「燕子花図」を描いたのはこのころのようです。

1704年 しかし画業の成功も束の間、生来の派手好みは収まらず、やはり借金漬けの生活が続きます。そして京の経済が陰り始めたころ、光琳は江戸に出仕した中村内蔵助を追うようにして、自らも東下り、江戸に赴きます。

1709年 この時期、雪舟(せっしゅう)や雪村(せっそん)の写に没頭し、その画風を学びます。とはいえ如才のない光琳は大名家からも気に入られ、京に戻って新しい屋敷を構えるほどには成功したようです。

1711年 新町通りに新居を構え、精力的に制作を行う。「風神雷神図」「槇楓(まきかえでの図」「松島図」

1716年 逝去。また、辻惟雄が「艶隠者」と呼んだ貴族的・唯美主義的作家であり、 宮廷風に美しく立派な美学を打ち出した。
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yahantei

 この冒頭の「風神雷神図」の、その「《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)」からの、「あれかこれか」しての、下記のアドレスのものを、これをつくるのが難儀した。(Pc上の「作画」的な経験=無)→ その出来上がったものが、今回のものの続きということで、この種のものは、少し、間をおくことにしたい。


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-18
by yahantei (2021-04-18 17:01) 

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