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 「源氏物語画帖(その二)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏

光吉・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

後陽成院・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/03/%E5%B8%9A%E6%9C%A8_%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%81%8E%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

木枯に吹きあはすめる笛の音を ひきとどむべき言の葉ぞなき(第二章 女性体験談 第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語))
《「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける」(2.2.6=男の歌)への(2.2.8=女の歌=返歌) 》


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二帖 帚木
第一章 雨夜の品定めの物語
第一段 長雨の時節
第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将
第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる
第四段 女性論、左馬頭の結論
第二章 女性体験談
第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)
第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)→この「場面」での「画と詞」(下記「参考」)
第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)
第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)

(参考)

帚木二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-01

【 (再掲)

土佐光吉・澪標二.jpg
  
B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

《 宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー  》

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

《 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 》 

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、過大な過誤のある指摘でもなかろう。 】
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yahantei

和泉市久保惣記念美術館所蔵の「源氏物語手鑑」が、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010148000.html

[「土佐久翌」の墨文二重円印をともない、久翌と号した土佐光吉(1539〜1643)の手になることは明らかであるが、制作には光吉を中心とした土佐派の絵師による分業が想定される。伝統的なやまと絵の作風を継承する土佐派の絵は、『丹青若木集』など江戸時代の画史に「動勢なく美細」と評されているが、源氏物語など情趣にあふれた物語を絵画化するには、まことにふさわしいものであるといえよう。平安時代の源氏物語絵巻にくらべ、視覚的な華やかさに主眼がおかれるとともに、画面構成や場面の整理も進められている点で、以後の源氏絵の規範ともなっており、江戸初期における源氏絵制作や需要のありかたが端的に示されている。詞書筆者の一人山科言緒の日記によって、大坂の役で武功をたてた石川忠総(1582〜1650)の依頼により、中院通村が斡旋して成った作品で、制作年代も慶長十七年(1612)であることがほぼおさえられる。]
by yahantei (2021-04-23 10:39) 

yahantei

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3021
源氏物語と「帚木」(川村清夫稿)
【源氏物語は、紫式部の自筆本も平安時代の写本も現存しない。鎌倉時代の文学者である藤原定家による青表紙本と源光行、親行父子による河内本までしかたどれないのである。それでも明治時代以降に確立された史料批判研究によって、源氏物語全54帖は最初から一気に書かれたものでないことが明らかになった。
源氏物語を初めて現代語訳した与謝野晶子は、翻訳しているうちに33番目の藤の裏葉の帖までと34番目の若菜の帖からとは本文と和歌の出来に明らかな相違があることに気付き、紫式部が書いたのは藤の裏葉までで、若菜からは娘の大弐三位が書いたのだと唱えた。また彼女は、源氏物語は2番目の帚木の帖から書きはじめられ、最初の桐壺の帖は物語の体裁を整えるために後から付け加えられたのだと主張している。

(明融臨模本原文)
光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世に聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚り、まめだちにたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。

(渋谷現代語訳)
光る源氏と、名前だけはご大層だが、非難されなさる取り沙汰が多いというのに、ますます、このような好色沙汰を、後世にも聞き伝わって、軽薄である浮き名を流すことになろうかと、隠していらっしゃった秘密事までを、語り伝えたという人のおしゃべりの意地の悪いことよ。とは言うものの、大変にひどく世間を気にし、まじめになさっていたところは、艶っぽくおもしろい話はなくて、交野少将からは笑われなさったことであろうよ。

与謝野晶子が原初源氏物語の最初の帖と考えた帚木の帖の冒頭部分は、完成された源氏物語の最初の帖である桐壺の帖の冒頭部分が格調高いのに比べて、まるで風俗小説みたいなすべり出しである。

(末松英訳)
Hikal Genji-the name is singularly well known, and is the subject of innumerable remarks and censures. Indeed, he had many intrigues in his lifetime, and most of them are vividly preserved in our memories. He had always striven to keep all these intrigues in the utmost secrecy, and had to appear constantly virtuous. This caution was observed to such an extent that he scarcely accomplished anything really romantic, a fact which Katano-no-Shosho would have ridiculed.

(ウェイリー英訳)
Genji the Shining One… he knew that the bearer of such a name could not escape much scrutiny and jealous censure and that his lightest dallyings would be proclaimed to posterity. Fearing then lest he should appear to after ages as a mere good-for-nothing and trifler, and knowing that (so accursed is the blabbing of gossips’ tongues) his most secret acts might come to light, he was obliged always to act with great prudence and to preserve at least the outward appearance of respectability. Thus nothing really romantic ever happened to him and Katano no Shosho would have scoffed at his story.

(サイデンステッカー英訳)
“The shining Genji”: it was almost too grand a name. yet he did not escape criticism for numerous little adventures. It seemed indeed that his indiscretions might give him a name for frivolity, and he did what he could to hide them. But his most secret affairs (such is the malicious work of the gossips) became common talk. If, on the other hand, he were to go through life concerned only for his name and avoid all these interesting and amusing little affairs, then he would be laughed to shame by the likes of the lieutenant of Katano.


 原文にある「名のみことごとしう」を末松はthe name is singularly well known、ウェイリーはhe knew that the bearer of such a nameと訳しているが、訳し切れていない。サイデンステッカーがit was almost too grand a nameと訳したのが最も原意に近い。

 いささか長いが、原文の「いとど、かかる好きごとどもを、末の世に聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ」を、末松はIndeed, he had many intrigues in his lifetime, and most of them are vividly preserved in our memories. He had always striven to keep all these intrigues in the utmost secrecy, and had to appear constantly virtuous.と訳したが、原文の言葉の綾を表現できない素人翻訳である。

ウェイリーはFearing then lest he should appear to after ages as a mere good-for-nothing and trifler, and knowing that (so accursed is the blabbing of gossips’ tongues) his most secret acts might come to light,、サイデンステッカーもIt seemed indeed that his indiscretions might give him a name for frivolity, and he did what he could to hide the, But his most secret affairs (such is the malicious work of the gossips) became common talk.と訳したが、冗漫で説明調である。
ここも読者をひきつけることができるか決定する重要な部分なので、もっと気を利かせてHe tried to keep these romances to himself in order not to go down in history as a frivolous womanizer; unfortunately, all his efforts yielded to the passion of mean gossip lovers.ぐらいの翻訳にできなかっただろうか。

 末尾の「交野少将」は、平安時代に流行したが、散逸してしまった好色小説の主人公である。少将は近衛少将の意味で、律令制では四位、五位の高官なので、lientenant(中尉)と解釈したサイデンステッカーは間違っている。

 この前置きの後に、源氏物語の内容を決定する、光源氏たち男性貴族による女性談義「雨夜の品定め」が続くのである。  】
by yahantei (2021-05-03 08:12) 

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