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「源氏物語画帖(その五)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

5-1 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳

若紫・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1


(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/06/%E8%8B%A5%E7%B4%AB_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B8%96%E3%80%91

雀の子を犬君が逃がしつる伏籠のうちに籠めたりつるものをとていと口惜しと思へりこのゐたる大人例の心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそいと心づきなけれ (第一章 紫上の物語 若紫の君登場 第三段 源氏、若紫の君を発見す)

1.3.5 「 雀の子を 犬君(いぬき=紫上が召使っている女童の名)が逃がしつる。伏籠のうちに 籠めたりつるものを」(雀の子を犬君が逃がしてしまいましたの、伏籠の中に置いて逃げないようにしてあったのに)
1.3.6 とて、いと口惜しと思へり。 このゐたる大人、(たいへん残念そうである。そばにいた中年の女が、)
1.3.7 「 例の、心なしの、かかるわざをして、 さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。 い
づ方へかまかりぬる。 いとをかしう、やうやうなりつるものを。 烏などもこそ見つくれ」
(「またいつもの粗相やさんがそんなことをしてお嬢様にしかられるのですね、困った人ですね。雀はどちらのほうへ参りました。だいぶ馴れてきてかわゆうございましたのに、外へ出ては山の鳥に見つかってどんな目にあわされますか」)

5-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

若紫・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第五帖 若紫
 第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
  第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く
  第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす
  第三段 源氏、若紫の君を発見す→「西洞院時直」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7 
       →「青蓮院尊純」」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7
  第四段 若紫の君の素性を聞く
  第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京
  第六段 内裏と左大臣邸に参る
  第七段 北山へ手紙を贈る
 第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語
  第一段 夏四月の短夜の密通事件
  第二段 妊娠三月となる
  第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る
 第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
  第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る
  第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々
  第三段 源氏、紫の君を盗み取る

(参考)

若紫三.jpg

http://www.genji-monogatari.net/

「西洞院時直」周辺

西洞院時直(にしのとういん ときなお) 生誕・天正12年(1584年) 死没・寛永13年10月9日(1636年11月6日)
 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公家・歌人。参議・西洞院時慶の長男。官位は従二位・参議。西洞院家27代当主。後水尾天皇の側近。天正13年(1585年)叙位。天正20年(1592年)、元服し、従五位上侍従となる。少納言、右衛門督を経て、寛永3年(1626年)参議。寛永8年(1631年)、従二位となった。歌人としても知られ、『参議時直卿集』が現存している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「尊純法親王」周辺

http://kourindo.sakura.ne.jp/sonjyun.html

尊純法親王(1591-1653)は江戸前期の天台宗の僧。応胤法親王の王子。後陽成天皇の猶子。諡号は円智院。1598年天台宗青蓮院に入り良恕法親王の門に従う。25歳で大僧正に任じられ天台座主。尊朝法親王から青蓮院の書道を近衛信伊に和歌を伝授される。御家流中でも尊純流の祖として重んじられ後水尾天皇に書を指導した。門跡寺院の故事にも通じていた。狩野探幽や狩野重信、岩佐又兵衛、住吉派などとの合作も残っている。江戸初期、門跡寺院の重鎮の一人として活躍。八坂神社や多賀大社など神社仏閣の扁額を著すこともあった。

「天台座主(応胤法親王→良恕法親王→尊純法親王)」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

https://www.kyototuu.jp/Temple/TermTendaiZazu.html

※165 応胤法親王(第165世。伏見宮貞敦親王第5王子)
※170 良恕法親王(第170世。誠仁親王第3王子。後陽成天皇の弟。曼珠院門跡)
171  堯然法親王(第171、174、178世。後陽成天皇第6皇子)
※172 慈胤法親王(第172、176、180世。後陽成天皇第13皇子)
※173 尊純法親王(第173世、177世。第165世・応胤法親王王子)

「後陽成天皇(後陽成院)の系譜」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
※第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
※第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
※第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
※第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主  
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yahantei

 「猪熊事件(いのくまじけん)」関連については、下記のアドレスが詳しい。

https://core.ac.uk/download/pdf/292913343.pdf

【(慶長一四=一六〇九)十月一日、問題の女房衆五人と御末衆五人・女嬬三人が楊林院に同行されて駿府に下り、そのまま女房衆五人と女嬬二人が伊豆の新島へ配流となった。さらにこの月、捕らえられていた猪熊教利と兼保頼継が、京で斬罪に処せられた。公家衆七人についても、十一月、幕府によって、花山院忠長が蝦夷、飛鳥井雅賢が隠岐、大炊御門頼国・中御門宗信が薩摩の硫黄島、難波宗勝が伊豆にそれぞれ配流となり、烏丸光広と徳大寺実久は 配流を免れた。こうして一件は落着するが、この処分をめぐって天皇と幕府間のみならず、天皇と女院らとの間にも隔意が生じたことは、天皇を刺激し、同年十二月の譲位発言につながっていくことになり、その後に影を落とした。】
by yahantei (2021-04-25 10:17) 

yahantei

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1526
源氏物語と「若紫」(川村清夫稿)

【原初の源氏物語は「帚木三帖」(帚木、空蝉、夕顔)からはじまる。これらの帖を第1章とすれば、若紫の帖とその次の末摘花の帖は第2章に相当する。

 夕顔を六条御息所と思しき女の生霊によって失った後の光源氏は瘧病(わらわやみ、マラリア)を患い、その治癒のための加持祈祷を依頼しに北山のさる寺にやって来る。
 そこで彼は、藤壷の女御に似た美少女と出会う。この美少女こそ光源氏の生涯の伴侶となる紫上である。

(大島本原文)
中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
「何ごとぞや。童女と腹立ちたまへるか」とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、(光源氏は)「子なめり」と見たまふ。
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。

(渋谷現代語訳)
その中に、十歳くらいかと見えて、白い袿の上に、山吹襲などの、糊気の落ちた表着を着て、駆けてきた女の子は、大勢見えた子供とは比べものにならず、たいそう将来性が見えて、かわいらしげな顔かたちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔はとても赤く手でこすって立っている。
「どうしたの。童女とけんかをなさったのですか」と言って、尼君が見上げた顔に、少し似たところがあるので、(光源氏は)「その子どもなのだろう」と御覧になる。
「雀の子を犬君が逃がしちゃったの。伏籠の中に、閉じ籠めておいたのに」と言って、とても残念がっている。

(ウェイリー英訳)
Among them was one who seemed to be about ten years old. She came running into the room dressed in a rather worn white flock lined with stuff of a deep saffron color. Never had he seen a child like this. What an astonishing creature she would grow into! Her hair, thick and wavy, stood out fanwise about her head. She was very flushed and her lips were trembling.
“What is it? Have you quarreled with one of the other little girls?” The nun raised her head as she spoke and Genji fancied that there was some resemblance between her and the child. No doubt she was its mother.
“Inu has let out my sparrow – the little one that I kept in the clothes-basket,” she said, looking very unhappy.

(サイデンステッカー英訳)
Much the prettiest was a girl of perhaps ten in a soft white singlet and a russet robes. She would one day be a real beauty. Rich hair spread over her shoulders like a fan. Her face was flushed from weeping.
“What is it?” The nun looked up. “Another fight?” He thought he saw a resemblance. Perhaps they were mother and daughter.
“Inuki let my baby sparrows loose.” The child was very angry. “I had them in a basket.”

 ここでは、ウェイリー訳はより原文に忠実で冗漫な訳文であり、サイデンステッカー訳は思い切った簡潔な訳文になっている。

 まず紫上のいでたちである「白き衣、山吹の萎えたるを着て」に関しては、ウェイリーはdressed in a rather worn white flock lined with stuff of a deep saffron color、サイデンステッカーはin a soft white singlet and a russet robesと表現している。原文では「萎えたる」なので、softよりrather wornの方が正確である。

 紫上の容姿について見てみよう。「あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり」については、ウェイリーはNever had he seen a child like this. What an astonishing creature she would grow into!と、いささか大袈裟な訳をしているのに比べて、サイデンステッカーはMuch the prettiestとShe would one day be a real beauty.に分けて簡潔に訳している。

 そして紫上の髪形「髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして」では、ウェイリーはHer hair, thick and wavy, stood out fanwise about her head.と、原文にない表現も加えてしまっている。他方サイデンステッカーはRich hair spread over her shoulders like a fan.として、この方が正確である。

 最後に紫上の台詞を見てみよう。「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」を、ウェイリーはInu has let my sparrow - the little one that I kept in the clothes basket.と、サイデンステッカーはInuki let my baby sparrows loose.とI had them in a basketとに分けて翻訳している。「犬君」はInuki、「伏籠」はbasketの方が正確な訳語である。

 この出会いからしばらく経って光源氏は紫上を、祖母である尼君の死後、強引に自宅に引き取り、実の娘のように育てながら英才教育をほどこして、平安王朝最高の貴婦人に成長させ、正妻である葵上亡き後は自らの伴侶とするのである。以後紫上は源氏物語の準主役として、御法の帖まで登場する。 】
by yahantei (2021-05-03 08:30) 

yahantei

土佐光吉と長次郎の画風の違い(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』)

【どちらも、光源氏が北山で美しい少女(のちの紫の上)を垣間見る有名な場面である。画面右上に少女のいる建物を、左下に光源氏と従者を配する構図は、両画面とも同じである。ただし、光吉の画面は、建物が左奥に続き、奥行を感じさせる構図になっている。簀子に立つ少納言の乳母と犬君、室内の尼君に立つ少女の視線は、左手の桜の花咲く山へと飛んでいく雀の子を追っている。そのようすを光源氏は、小柴垣の外から夢中になって覗いているようである。
 これに比べて長次郎の画面は、建物の傾斜の角度が小さく、平板な印象を与える。空間が多く、やや散漫ではあるが、背丈が低く頭部が大きな人物はかわいらしく、小柴垣を金泥線であらわすところは装飾的である。ふたり少女のうち、少納言の乳母の傍らに立ち、白い衣にまとっている法が紫の上かと考えられる。丹の衣をつけた犬君は伏籠をあけて、いかにも雀の子を逃がしてしのったように描かれており、ふたりの少女の違いをポーズや衣の色で表現している。つまり、光源氏が垣間見ている紫の上を、犬君とは区別し、目立たせているのである。
 長次郎の絵は、中間色を多用し、衣や調度の文様は繊細である。すやり霞のような細長い金雲も併用している。光吉に比べて画技の劣る分、細部を整えていく傾向があったと考えられる。こうした長次郎の画風は、光吉の次世代の土佐光則に受け継がれていくのである。 】
by yahantei (2021-05-06 08:06) 

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