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「源氏物語画帖(その八)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春

花宴・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/2

花宴・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  詞・大覚寺空性
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/1

(「大覚寺空性」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/09/%E8%8A%B1%E5%AE%B4%E3%83%BB%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%AE%B4_%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%88%E3%82%93%E3%83%BB%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%82%91%E3%82%93%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9

朧月夜に似るものぞなき、とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女恐ろしと思へるけしきにて、あな、むくつけ。こは、誰そ、とのたまへど、何か、疎ましきとて、「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)

1.2.5 「 朧月夜に似るものぞなき」(「朧月夜に似るものはない」)
1.2.6  とうち誦じて、 こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、( と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。とても嬉しくなって、とっさに袖をお捉えになる。女、怖がっている様子で、)
1.2.7 「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、(「あら、嫌ですわ。これは、どなたですか」とおっしゃるが、)
1.2.8 「 何か、疎ましき」とて、(「どうして、嫌ですか」と言って、)
1.2.9 「 深き夜のあはれを知るも入る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」(「趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも、前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます」)

花宴・挿絵.jpg

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第八帖 花宴
 第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴
 第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う
 第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる
 (「大覚寺空性」書の「詞」→ 1.2.5/1.2.6/ 1.2.7 /1.2.8/1.2.9 )
第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲
 第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1820

源氏物語と「花宴」(川村清夫稿)

【光源氏が20歳になった年の二月に、紫宸殿にて桜花の宴が催された。その夜に彼は弘徽殿(飛香舎と共に、清涼殿のすぐ北にあった後宮の殿舎、現存しない)に入り、「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき」という、大江千里の和歌を口ずさんでいた朧月夜と知り合った。

 後で光源氏は彼女が、彼を敵視する弘徽殿女御の妹であることを知るのである。江戸城の大奥と違い、平安宮内裏の後宮は男子禁制ではなかった。内裏の宴会の後で、酒に酔った男性貴族が後宮に入り込み、女官と睦み合うことは珍しくなかったのである。 】

https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1018&item_no=1&page_id=33&block_id=62

「寛永文化」(中村直勝稿)

【 藤堂高虎が藤堂という名字は、藤原氏に関係があると称して、巧みに関白近衛信尹に接近し、後陽成天皇に要請して、将軍徳川秀忠の女和子(慶長十二年十月生)を後水尾天皇の中宮として、入内さすことに成功した。元和六年六月十八日のことである。
  そのときに、一つの波乱があった。
 和子の入内は、その前年秀忠が上洛した時に、殆んど、きまったのであったが、元和五年六月廿日後水尾天皇に一人の皇女が生れた。四辻公遠の妹「およつの局」が母であった。
幕府は、それを耳にした。秀忠は和子入内以前に、かかる内寵のあったことは、宮中風儀の乱れを示すものであるから、とて、和子入内を辞退すると申入れた。幸にして後水尾天皇の御母である中和門院(近衛信尹の妹)が、懇々として申披きをされ、かかる事は絶無である、ということにして、漸く和子の入内が実現したのであった。言わば、宮中は恥さらしをされたのであった。
 東福門院のためには、宮中は荊蘇の巷であったが、東福門院の婦徳は、後水尾天皇の震襟を充分になごめ奉って、宮廷の平和は、破れなかった。この複雑なる宮廷事情が、どうした文化を生み出すものだろうか。

 (中略)

 さきに豊臣秀吉が他日の万一に備えて、迎えて猶子とした後陽成天皇の皇弟桂宮知仁親王は、相当な御料地を持たれたまま、豊臣氏滅亡と共に、影を淡めて行く外はなかった。それに準じて徳川家康に迎えられた皇弟曼殊院宮良尚親王は、徳川幕府の地盤が固まるにつれて、もう無用の長物となり、幕府の関心は刻々に消え去って行った。
 後水尾上皇の消すに消せない御不満は、修学院離宮の造営ということで、真綿をかけられ、勃発すべくもない状態に押し流されてしまった。
 関白近衛信信尹とその養子信尋(後水尾天皇皇弟)との勢力は莫大であったけれども、幕府の後援があるだけに、宮廷人には、畏敬されたにしても、親愛さは持たれなかった。人望はそれよりも、同じく皇弟であって一条家を嗣がれた一条兼遐に集った。深く大きかった。
 後水尾天皇譲位。明正天皇の御宇になると兼遐は信尋に代って関白になり、摂政になり、後光明天皇の御宇にも再び摂政になり、また関白になっておる。人望の高さを示すものである。
 宮廷には、この外に大納言鳥丸光広が範を超えた横着さで構えておるし、孜々として後水尾天皇に学問を以て奉仕した中院通村がおった。就中、通村は古今伝授の把持者として有名であり、後水尾天皇にその秘伝を伝えて、今後の朝廷をして古今伝授の家元のような立場においたことは、大きな功績であろう。

(中略)

 寛永の文化を概観略述してみると、慶長元和の戦乱時代がすぎて平和の時代に到達した事が如実に示され、学問文芸の方面は百華練乱という文字が示す通りの壮観であった。
 民間学者には源氏物語の『湖月抄」を著わして源氏研究に著しい進境を与えた北村季吟がおるし、大坂には近松門左衛門の浄瑠璃や、松永貞徳の俳諧が、新分野の獲得と拡張を見せておるし、堅い方面では、伊藤仁斉の古学派的儒学が、中国儒者の悌をそのままに伝えて、漢学を民間に波及させた効果も著しい時であった。
 狩野探幽が、土佐光興の古典画や狩野永徳や山楽の装飾画から脱出して、写生画に新らしい画筆を動かせ、従来の狩野派や土佐派には見られなかった衆民住宅に適応した画境を開いた時である。
 本阿弥光悦及び俵屋宗達が、豪壮無比なる工芸的な画風をもって、富裕者の嗜好に投じたと共に、絵画工芸方面に新希望を燃え上らせ、新機軸を見せた時代であった。
 茶道にあっても、古田織部正重然が、南蛮陶器に暗示を得たのであろう"織部焼"を新たに案出し、形態から釉に及んで、一種の前衛的な作品を世に問い、極めて破格的な茶垸をもって茶道を新鮮にし、茶道に、なお、未来のある一道を宏め出した。
 江戸においては田畠の永代売を禁止したり、歌舞伎役者を追捕したりすることが目立って来た。社会層の著しき変化あるべきを、想わすることになった。これは要するに、文化の中心が上層位の公武から、中層位の町民に移って来たからである。  】
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yahantei

「徳川和子の入内と藤堂高虎」(久保文武稿)という論稿を、下記のアドレスで閲覧することが出来る。その抄録は、下記(抜粋)のとおり。

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19881200-1002.pdf?file_id=1589

(抜粋)

【徳川秀忠の息女和子が元和六年(一六二〇)六月十八日、後水尾天皇の女御として入内したが、武家側よりの入内は約四百年前平清盛の女徳子(建礼門院)入内以来のことで、この件が決して円滑にはこばなかったことは周知の事実として、江戸初期の朝幕関係を物語る格好の史料とされている。そして、後水尾天皇の再三にわたる拒絶とも解せられる譲位の意志を醜意させた、最後の詰めの段階での画策、奔走は幕府側では京都所司代板倉勝重と一外様大名の藤堂高虎であった。しかも、事の紛糾後はむしろ高虎の奔走が中心的役割を果したといえる。和子入内に至る経緯については、徳川家の正史ともいえる「徳川実紀」も何らふれず、元和六年五月八日の和子江戸出発より、六月十八日の入内当日の記事のみが華々しく記述されているのみである。和子入内は家康の遠望と秀忠の政略によるものであるが、詰めの段階での紛糾の解決についてはほとんど記述された論稿がない。ことに武家側の史料を根拠にした論稿は全くなかったともいえる。昭和五一年度の京都大学文学部研究紀要16号に、朝尾直弘氏が京大国史研究室蔵の「元和六年案紙」をもとにの発表せられたのが唯一のものといえる。同論稿は元和六年案紙を武家側当事者の有力な根本史料として、公家側の日記類に匹敵する価値ある史料として、史料考証をまじえながら、従来、明らかにされていなかった重要事実を説述している。本稿ではこの朝尾教授の学恩を蒙りつつ、畿内の数ある有力な親藩・譜代の大名を差しおいて、何故、一外様大名の藤堂高虎がこの難しい交渉の任に選ばれたかの疑問を追求してみることにする。】
by yahantei (2021-05-01 16:13) 

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