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源氏物語画帖(その十四・澪標)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)   源氏28歳冬-29歳

光吉・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/2

信尹・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/15/%E6%BE%AA%E6%A8%99_%E3%81%BF%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%83%BB%E3%81%BF%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B

例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。いとはしたなければ、立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。

(第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅 第二段 住吉社頭の盛儀)

4.2.7 例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
(普通の大臣などが参詣なさる時よりは、格別にまたとないくらい立派に奉仕したことであろうよ。)
4.2.8 いとはしたなければ、
(とてもいたたまれない思いなので、)
4.2.9 立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。
(あの中に立ちまじって、とるに足らない身の上で、少しばかりの捧げ物をしても、神も御覧になり、お認めくださるはずもあるまい。帰るにしても中途半端である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十四帖 澪標
 第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり
  第一段 故桐壺院の追善法華御八講
  第二段 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
  第三段 東宮の御元服と御世替わり
 第二章 明石の物語 明石の姫君誕生
  第一段 宿曜の予言と姫君誕生
  第二段 宣旨の娘を乳母に選定
  第三段 乳母、明石へ出発
  第四段 紫の君に姫君誕生を語る
  第五段 姫君の五十日の祝
  第六段 紫の君、嫉妬を覚える
 第三章 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向
  第一段 花散里訪問
  第二段 筑紫の五節と朧月夜尚侍
  第三段 旧後宮の女性たちの動向
  第四段 冷泉帝後宮の入内争い
 第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅
  第一段 住吉詣で
  第二段 住吉社頭の盛儀
  (「近衛信尹」書の「詞」) → 4.2.7/4.2.8/4.2.9   
第三段 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
  第四段 源氏、明石の君に和歌を贈る
  第五段 明石の君、翌日住吉に詣でる
 第五章 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い
  第一段 斎宮と母御息所上京
  第二段 御息所、斎宮を源氏に託す
  第三段 六条御息所、死去
  第四段 斎宮を養女とし、入内を計画
  第五段 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
  第六段 冷泉帝後宮の入内争い

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2590

源氏物語と「澪標」(川村清夫稿)

【 朧月夜との密会が弘徽殿女御の逆鱗にふれた光源氏は、都を離れて明石入道のもとに隠棲したが、弘徽殿女御の一族が政権を失ったので、都に戻り社交界に復帰した。「澪漂」の帖では、権勢を取り戻した光源氏が死の床についた六条御息所を見舞い、彼女の一人娘である斎宮の後見を依頼される場面がある。六条御息所と光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「心細くてとまりたまはむを、かならず、ことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。かひなき身ながらも、今しばし世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまにものを思し知るまで、見たてまつらむことこそ思ひたまへつれ」

(渋谷現代語訳)「心細い状況で先立たれなさるのを、きっと、何かにつけて面倒を見て上げてくださいまし。また他に後見を頼む人もなく、この上もなくお気の毒な身の上でございまして、何の力もないながらも、もうしばらく平穏に生き長らえていられるうちは、あれやこれや物の分別がおつきになるまでは、お世話申そうと存じておりましたが」

(ウェイリー英訳)I had hoped having cast the cares of the world aside, to live on quietly at any rate until this child of mine should have reached an age when she could take her life into her own hands...

(サイデンステッカー英訳)She will have no one to turn to when I am gone. Please do count her among those who are important to you. She has been the unluckiest of girls, poor dear. I am a useless person and I have done her no good, but I tell myself that if my health will only hold out a little longer I may look after her until she is better able to look after herself.

 サイデンステッカー訳は原文に忠実だが、ウェイリー訳は省略部分が目立つ。

(大島本原文)「かかる御ことなくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにもあらぬを、まして、心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこえむとなむ思うたまふる。さらに、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」

(渋谷現代語訳)「このようなお言葉がなくてでさえも、放ってお置き申すことはあるはずもないのに、ましてや、気のつく限りは、どのようなことでもご後見申そうと存じております。けっして、ご心配申されることはありません」

(ウェイリー英訳)Even if you had not mentioned it, I should always have done what I could to help her, but now that you have made this formal request to me, you may be sure that I shall make it my business to look after her and protect her in every way that lies in my power. You need have no further anxiety on that score…

(サイデンステッカー英訳)You speak as if we might become strangers. It could not have happened, it would have been quite impossible, even if you had not said this to me. I mean to do everything I can for her. You must not worry.

 ここではウェイリー訳は原文に忠実であるのに比べて、サイデンステッカー訳は前半部分を意訳している。そこで六条御息所は、プレイボーイである光源氏に、斎宮を決して愛人にしないでと注意するのである。

(大島本原文)「いとかたきこと。まことにうち頼むべき親などにして、見ゆづる人だに、女親に離れぬるは、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして、思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交り、人に心も置かれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身を抓みはべるにも、女は、思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、いかでさる方をもて離れて、見たてまつらむと思ふたまふる」

(渋谷現代語訳)「とても難しいこと。本当に信頼できる父親などで、後を任せられる人がいてさえ、女親に先立たれた娘は、実にかわいそうなもののようでございます。ましてや、ご寵愛の人のようになるにつけても、つまらない嫉妬心が起こり、他の女の人からも憎まれたりなさいましょう。嫌な気のまわしようですが、けっして、そのような色めいたことはお考えくださいますな。悲しいわが身を引き比べでみましても、女というものは、思いも寄らないことで気苦労をするものでございますので、何とかしてそのようなこととは関係なく、後見していただきたく存じます」

(ウェイリー英訳)It will not be easy, even a girl whose welfare has been the sole object of devoted parents often finds herself in a very difficult position if her mother dies and she has only her father to rely upon. But your task will, I fear, be far harder than that of a widowed father. Any kindness that you show the girl will at once be misinterpreted; she will be mixed up in all sorts of unpleasant bickerings and all your own friends will be set against her. And this brings me to a matter which is really very difficult to speak about. I wish I were so sure in my own mind that you would not make love to her. Had she my experience, I should have no fear for her. But unfortunately she is utterly ignorant and indeed is just the sort of person who might easily suffer unspeakable torment through finding herself in such a position. I cannot help wishing that I could provide for her future in some way that was not fraught with this particular danger…

(サイデンステッカー英訳)It is all so difficult. Even when a girl has a father to whom she can look with complete confidence, the worst thing is to lose her mother. Life can be dreadfully complicated when her guardian is found to have thoughts not becoming a parent. Unfortunate suspicions are sure to arise, and other women will see their chance to be ugly. These are distasteful forebodings, I know. But please do not let anything of the sort come into your relations with her. My life has been an object lesson in uncertainty, and my only hope now is that she be spared it all.

 ウェイリー訳は説明的で冗長だが、サイデンステッカー訳は簡潔で情感に乏しい。

 六条御息所は一週間後に死去し、光源氏は彼女との約束を守って斎宮を引き取り、梅壺女御(秋好中宮)に成長させるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その五)

「近衛信尹」(プロフィール)  ( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕 永禄8年11月1日(1565年11月23日)
死没 慶長19年11月25日(1614年12月25日)
改名 信基(初名)→信輔→信尹
諡号 三藐院
官位 従一位、関白、准三宮、左大臣
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇
父母 父:近衛前久、母:波多野惣七の娘
兄弟 信尹、尊勢、宝光院、前子、光照院
子 太郎姫、養子:信尋
(生涯)
天正5年(1577年)、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。
天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。
同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞した。
→ 〇近衛殿さま「きやうき」(狂気=強度の神経衰弱)に御成候。「れうざん」(龍山)様の御子さまの事也。『北野社家日記』天正十八年(一五九〇)三月条(信輔=信尹=二十六歳)。
文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、同年12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、文禄3年(1594年)4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。信尹は薩摩国の坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。
慶長元年(1596年)9月、勅許が下り京都に戻る。
慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
慶長6年(1601年)、左大臣に復職した。
慶長10年(1605年)7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。だが、この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。
慶長19年以降、大酒を原因とする病に罹っていたが、11月25日(1614年12月25日)に薨去、享年50。山城国(京都)東福寺に葬られる。
(書)
書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。

檜原図屏風.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237246

【京都府 桃山/16世紀末~17世紀初頭 紙本墨画 屏風装 縦 151.5㎝  横 345.6㎝ 1隻 大阪市立美術館 大阪市天王寺区茶臼山1番8号 京都市指定 指定年月日:20110415 宗教法人禅林寺 有形文化財(美術工芸品) 
水墨で檜林を描く6曲1隻の屏風に,寛永の三筆として知られる近衛信尹(1565~1614)が「初瀬山夕越え暮れてやどとへば(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」という和歌を大書している。
本図が伝来した禅林寺(永観堂)には,信尹の書が揮毫された「いろは歌屏風」6曲1隻があり,本図と1双とされてきたが,画面の紙継や金泥引きの状態,書の下絵となる水墨画の作風などが異なっていることから,本来別々の屏風であったものが,後世になって組み合わされたと考えられる。信尹は,屏風に直に大書する作例をいくつか残しているが,下絵の水墨画と融合して,和歌の世界を表現する例は本図のみである。
 また,和歌の「三輪の檜原に」をあえて書かず,絵が代わって表現する趣向や,賛を予定してモチーフが中央に寄せられた構図など,水墨画と書との計算し尽された関係は特筆に値する。檜林は,抑制の効いた筆致と墨の階調で巧みに表現されており,絵師の優れた技量がうかがえる。落款はなく,筆者は不詳であるが,長谷川等伯(1539~1610)とする説が提出されている。 上質の絵画と書をあわせもち,近世初期の書,工芸,絵画の動向が深く絡み合う貴重な作例である。 】

はつせ山
ゆふこえ
くれて
やとゝ
へは
(三輪の檜原に)
秋風

ふく

 この「檜原図屏風」は、二〇一〇年に開催された「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」(下記は『図録』の「章・出品目録」)に出品されていた。

<第1章 能登の絵仏師・長谷川信春>
<第2章 転機のとき-上洛、等伯の誕生->
<第3章 等伯をめぐる人々-肖像画->
<第4章 桃山謳歌-金碧画->
<第5章 信仰のあかし-本法寺と等伯->
<「第6章 墨の魔術師-水墨画への傾倒-」>
<「第7章 松林図の世界」>
76 国宝 松林図屏風 東京国立博物館蔵 六曲一双 各 156.8×356.0㎝ 
77 月夜松林図屏風           六曲一双 各 150.5×351.0㎝
78 檜原図屏風 京都・禅林寺      六曲一隻   151.5×345.6㎝ 

檜原・いろは歌屏風.jpg

近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上) いろは歌屏風(下) (禅林寺蔵)
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p235) 

【 素性法師歌屏風(六曲一隻)  禅林寺蔵 (上)
いろは歌屏風(六曲一隻)   禅林寺蔵 (下)
 紙の状態や、一対とする必然性のない二隻の書写内容から、これを一双とするには無理があるようであるが、禅林寺に納められた時には、すでに一双となっていた。
 素性法師の和歌「はつせ山ゆうこえくれてやどゝへば」「三輪の檜原(ひばら)に)「秋風ぞふく」を書く。中央の「三輪の檜原」の部分を、文字ではなく水墨画で表現する。古来の歌絵(うたえ)の趣向である。檜原の図は国宝の長谷川等伯筆の「松林図屏風 を連想させる。
 いろは歌屏風も、ダイナミックに文字を散らしていく。どのような筆を用いたのであろうか。木刀で容赦なく斬り込んでいくような激しさである。末尾の「前三々後三々(踊り文字)」というのは、『碧語録』(第三十五則、文殊前三三〇に見える公案。無著文喜が文殊菩薩に参禅する夢を見た。問答の後、無著の「ここでの修行者はどのくらいか」という問いに、文殊は「前三三、後三三―あちらに三人、こちらに四人」と答えたという。今に用いられる公案。これを信尹は最後に付け加えている。   】(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p234-236) 

この「はつせ山ゆふこえくれてやとゝへば(三輪の檜原に=水墨画で表現)秋風ぞ吹く」は、『新古今和歌集』では、「素性法師」ではなく「禅性法師」の作として、次のとおり収載されている。

    長月のころ、初瀬に詣でける道にてよみ侍りける
966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く 禅性法師
(初瀬山を夕方越えていくうちに日が暮れて、宿をさがしていると、三輪の檜原に秋風が吹くことだ。)
(出典:『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』 )

 「禅性法師」は、後鳥羽天皇の『新古今和歌集』時代の人で、仁和寺の僧都といわれている。それに対して、三十六歌仙の一人の「素性法師」は、桓武天皇の孫の六歌仙・三十六歌仙の一人「僧正遍照」の在俗時の子で、『古今和歌集』には、三十六首入集(入集数第四位)と、「紀貫之・凡河内躬恒・紀友則・壬生忠岑」(撰者)と並ぶ大歌人で、「屏風歌」(屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌。屏風にはられた色紙形に書く)の名手といわれている。
 そして、『新古今和歌集』に収載されている、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、素性法師などの、次の『古今和歌集』の歌と深く関わっているようなのである。

https://core.ac.uk/download/pdf/223207637.pdf

秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555「素性法師」)
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691・百人一首21「素性法師」)
来ぬ人待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ(古今777「家持」)
三輪の山いかに待ち見む年経(ふ)ともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

さらに、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」に登場する架空の人物浮舟を題材に制作されたとされている、謡曲「浮島」(世阿弥〈作詞:横尾元久=室町幕府管領 細川満元の被官の武家歌人〉の、そのスタートの「道行」で、下記のとおり、この本歌取りの「謡」(詞章)が使われている。

http://soxis.blog112.fc2.com/blog-entry-12.html

http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-ukifune.html

(シテ詞)

これは諸国一見の僧にて候 われこのほどは初瀬に候ひが 
これより都に上らばやと思ひ候

(道行)

初瀬山 夕越えくれし(来・暮)宿もはや 夕越え暮れし宿もはや
檜原のよそにみわ(見・三輪)の山 しるしの杉もたちわかれ(立つ・立ち別れ)。
嵐とともになら(鳴る・奈良・楢)の葉の しばし(柴・暫し)休らふほどもなく
こま(狛・駒)の渡りや足早(あしはや)み
宇治の里にも着きにけり 宇治の里にも着きにけり 

 ここで、この『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の、そのスタート点に戻って、下記のアドレスの、その欠落部分(源氏物語』(第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」の、その原典となっている、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と見事に一致することになる。
 すなわち、近衛信尹にとって、『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の欠落部分の、その「第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」までの六帖は、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」が、それに代わっているということになる。
 そして、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の「素性法師歌屏風」は、より正確的には「素性法師由来歌屏風」ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木   (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋   (欠)                薫26歳秋
51 浮舟    (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳         】

(追記)

【 檜原図屏風 六曲一隻 近衛信尹和歌 長谷川等伯筆 紙本墨画 京都禅林寺
 「松林図屏風」(作品76)と同じく、樹林(檜原)を主体として描いた水墨の屏風絵である。画中には、寛永の三筆のひとり、近衛信尹(一五六五~一六一四)によって素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)が大書されていることから、この檜林が古来、名所として有名な「初瀬(あるいは三輪)の檜原」をあらわしたものとわかる。となれば、檜林の左手奥に配された雪山は初瀬山、その背後に見える寺塔は長谷寺ということになろう。また、和歌には「三輪の檜原に」の部分は書されていないが、これは図様からそれを読み取らせるというもので、蒔絵意匠などに見受けられる洒落た趣向である。その点、本図は和歌が書されるのを想定して描かれた可能性が高く、全体がやや薄めの墨であらわされていることや余白を多く取っている点にもそうした配慮をうかがうことができるよう。
 筆遣いはきわめて秀逸である。とくに前掲の木々の描写は精緻なもので、粗放さを旨とする「松林図屏風」のそれとは相違するが、墨の濃淡を駆使することで霧がかかったような視覚効果を生んでいる点は全く同じである。
 また、画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。  】(「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」図録)所収「作品解説78(山本英男稿)」)

 この「作品解説78(山本英男稿)」でも、《素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)》になっているのだが、《素性法師由来の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集966 (禅性法師作)』所収)》が、より正確ということになろう。
 それよりも、《画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。》は、やはり、特記して置く必要があろう。
 ここに、下記のアドレスの、「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美稿」の知見を加味していくと、その全体像が見えてくる。

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

【 「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美(大阪大学)」
永観堂禅林寺に伝来する「檜原いろは歌屏風」は、「檜原図屏風」と「いろは歌屏風」の二隻からなる紙本墨画墨書の六曲一双屏風である。両隻の書はともに近衛信尹(1565~1614)筆と見做され、大字仮名の嚆矢として日本書道史上重要な位置を占めるが、そうした知名度に反し、実証的な考究はほとんど進められてはいない。近年「檜原図屏風」の画については長谷川等伯(1539~1610)筆に比定されたものの、「いろは歌屏風」の簡略な画は閑却されており、また、両隻には内容的にも関連性が見出せないとの指摘から、現在では本来別個の作であるとする見方が強い。
本発表では、まず二隻の現状と伝来を明らかにする。「檜原図屏風」は、熟考された構成と錬度の高い筆致から、慎重な制作状況が推察される。対して「いろは歌屏風」は、第一扇~第三扇は後補である可能性が高いが、当初とみられる第四扇~第六扇の墨垂れと軽妙な筆致から、むしろ即興的な制作状況が推察される。こうした相違に鑑みれば、確かに二隻は別個の作である蓋然性が高い。
ところが、『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。
そこで両隻の書画を再検討すると、画のモチーフはほぼ同じ位置に配され、書の字形や章法も近似する箇所が多いなど、意外な親近性が見出される。ことに、「いろは歌屏風」の終行「(前三々後三)々●」の踊り字にあえて用法上の誤りである「くの字点」を用い、「檜原図屏風」の終行の「(ふ)く●」と同じ形状の字で書き終えることは、「檜原図屏風」を意識しつつ「いろは歌屏風」を制作した可能性を示唆する。
こうした二隻の関係から、先行する「檜原図屏風」に即興的に制作した「いろは歌屏風」を加えて一双とした、という成立事情を想定することができよう。
さらに、「檜原図屏風」に表出された三輪地方が柿本人麻呂(660~720?)に縁深い地であることから、その主題は人麻呂の鎮魂にあるとの推察が可能であり、一方「いろは歌屏風」の主題はいろは歌の諸行無常観にあると考えられる。近年の和歌研究においては、人麻呂の歌にいろは歌と諸行無常偈を併記して解釈するといった、和歌文学における仏教的付会の傾向が指摘されており、二隻は内容的にも関連性を認めることができる。
なお、こうした書画の理解には和漢の文芸や仏教理念に関する知識が必須であろう。現段階では推察の域を出ないが、二隻の享受者が公家や五山の禅僧ら知識層、さらに言えば、当該期に盛行した和漢聯句や連歌の連衆であったという可能性も提起したい。 】
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yahantei

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

上記のアドレスの、、《『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。》に関して、

『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p150-159)
の、信尹の遺言(『信尹公卿書置)」 に、「永観堂(ようかんどう)の長老(果空俊弐=永観堂禅林寺第三十七世住持」)と記述があり、この「果空俊弐=永観堂禅林寺第三十七世住持」」と「近衛信尹」とは、やはり、そのキィーポイントということになろう。
 そして、ここから、いわゆる、「寛永三筆」の、「信尹(寛永時代には没している)」、それに続く、「光悦(「琳派」の祖とも崇められてディレッタントのアーティスト)」と、「松花堂昭乗」(「公家」出身の「信尹」でもなく、勃興する「有力町衆」出身の「光悦」でもなく、「惺々翁(せいせいおう)・空識(くうしき)」と号した」と称した、いわゆる、「寛永時代」以降の、そして、それは、即、次の世代の、「芭蕉」そして「蕪村」の時代に通ずるのであるが、今回は、大きな発見をした。

http://soxis.blog112.fc2.com/blog-entry-12.html

http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-ukifune.html

(シテ詞)

これは諸国一見の僧にて候 われこのほどは初瀬に候ひが 
これより都に上らばやと思ひ候

(道行)

初瀬山 夕越えくれし(来・暮)宿もはや 夕越え暮れし宿もはや
檜原のよそにみわ(見・三輪)の山 しるしの杉もたちわかれ(立つ・立ち別れ)。
嵐とともになら(鳴る・奈良・楢)の葉の しばし(柴・暫し)休らふほどもなく
こま(狛・駒)の渡りや足早(あしはや)み
宇治の里にも着きにけり 宇治の里にも着きにけり 】
by yahantei (2021-05-15 20:48) 

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