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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その八) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その八)「シーボルト」の『日本』の「捕鯨図」周辺

〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」、絹、和額装)

鯨漁之図.jpg

ライデン国立民族学博物館蔵

〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)

捕鯨図1.gif

ブランデンシュタイン城博物館蔵

〔28〕捕鯨図(『NIPPON』図版)

捕鯨図2.gif

九州大学付属図書館医学分館蔵
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906477&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=442%2C640%2C3251%2C3631

≪7.捕鯨

 捕鯨に興味をもつシーボルトは、鳴滝の門人高野長英・岡研介・石井宗謙に日本捕鯨に関するオランダ語論文を提出させ、参府途中の下関では当時最大の捕鯨業者であった平戸の益冨又左衛門と面会した。彼らから収集した情報をもとにヨーロッパ捕鯨と比較しつつ日本捕鯨の特徴を『NIPPON』に記し、1枚の図版を出した。詳細については2009年の別稿をご参照いただきたい(1)。
図版には「日本の絵にならってファン・ストラーテンが石版に描き、ファン・デル・ハントが印刷した」という意味のラテン語が印刷されている。2009年夏までその原画を見出すことはできなかった。
原画はライデン国立民族学博物館の補修室にあり、補修待ちの状態だった。絹に描かれた捕鯨図は所々破損し、しかも杉板で和額装されている。

〔26〕捕鯨図の整理番号は1-4278のシーボルトコレクション。外寸は縦60㎝×横116㎝。絵の部分は縦42.2㎝×横102.5㎝である。左上隅に「鯨漁之図」のタイトルと「携山(?)」の印がある。
この捕鯨図と同じような絵として、1-4275(武者絵)、1-4276(祭礼行列)、1-4277(祭礼行列)、1-4278(関所を通る行列)、1-4280(花見)、1-4281(室津明神社)、1-4282(室津長風閣眺望)、1-4286(武者絵)の8点があり、どれも状態は悪く破損していたり日に焼けている。例として(花見)のスナップ写真をあげている。収蔵庫の中で見せてもらった程度の調査で、詳しくはできなかったが、杉板が露出しているように、どれも杉で額装され、縁には同じ模様の千代紙が使用されている。
 その千代紙は、門人が提出したオランダ語文の表紙にも使われている。シーボルトは、門人が提出した論文を和綴にし、いろいろな千代紙で表紙をつけ、自ら記したタイトルを表紙に貼り付けている。それら門人論文は、ドイツのボフム大学図書館に所蔵されており、インターネット上(九大デジタルアーカイブ http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/siebold/)でも画像を見ることができる。例示した門人論文のうち、高野長英論文の表紙に使われている千代紙は、捕鯨図や武者絵などの縁にも使われているのである。
 当時のオランダにおいて、和装本・和額装の作成技術や杉板があったとは考えられないので、これらは日本で仕立てられたことになる。つまり、捕鯨図などの額装された絵は出島にあったシーボルトの部屋に掛けられ、オランダではライデンにある今の「シーボルト・ハウス」(シーボルトが1832年に購入しさまざまな日本コレクションを展示した家、2004年に改装されて一般公開中)の壁にも掛けられていたことを想像させる。日焼けや損傷の激しさもそのことを裏付けていよう。
 さて、〔26〕捕鯨図の作者については今のところ明らかでないが、シーボルトはこの絵をもとに『NIPPON』下絵をヨーロッパの画家に描かせた。〔27〕が洋紙に水彩の下絵であり、ブランデンシュタイン城に残る。原画をほぼそのままに写しているが、「日の出」は省略されている。そして、『NIPPON』図版の〔28〕では「日の出」が復活し、しかも原画以上に輝く太陽となっている。クジラの姿を原画と比べると、『NIPPON』図版の方が実物に近い。シーボルトは1833~50年に『日本動物誌』を刊行し、クジラについても研究しているから原画よりも正確になっている。
 なお、捕鯨図の原作者は捕鯨の実態をあまり知らなかったのではないかと思われる。日本の捕鯨は冬から春の仕事であり、玄界灘の寒風のなかを羽指(はざし)たちは「フンドシ」のみの姿で鯨に銛(もり)を打ち込んだ。唐津藩の小川島で捕鯨を実際に見聞し、安永2年(1773)に絵巻に仕立てた木崎攸軒「小児の弄鯨一件の巻」には上半身裸の男たちが描かれ、それは他の捕鯨絵巻にも共通する。しかし〔26〕捕鯨図はしっかりと着物を着ている。〔26〕は1枚で当時の捕鯨の様子をよく表しているが、よく見ると誤りも少なくない。特にクジラの尾ビレは間違っており、シーボルトはこの部分を修正して使っている。 ≫(「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」所収)

 この原画に相当する「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」、絹、和額装)」(作者不明)の「落款・印章」と「1-4280(花見)」の「板絵(杉戸絵?)」の部分図は、次のとおりである。

鯨漁之図・落款.jpg

「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」,絹,和額装)」(作者不明)の「落款・印章」

花見図・板絵.jpg

「1-4280(花見)」の「板絵(杉戸絵)」(「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」と同一作者か?)

 この「携山(?)」は、初期の長崎画壇に大きな影響をあたえた「小原慶山(不明-1733)」の「携山(?)」という見方もあるのかも知れない。

https://yuagariart.com/uag/nagasaki08/

小原慶山(不明-1733)
丹波生まれ。名は雅俊、字は霞光。別号に渓山、景山などがある。京都に出て、その後江戸で狩野洞雲の門に入った。さらに長崎に移り住んで漢画の法を河村若芝に学んだ。花卉人物山水すべてすぐれていた。唐絵目利兼御用絵師をつとめたともされるが定かではない。門人に唐絵目利石崎家初代となる石崎元徳らがいる。享保18年死去した。

石崎元徳(1693-1770)
元禄10年生まれ。通称は清次右衛門、字は慶甫。館を香雪斎といい、別号に香雪斎がある。はじめ西崎氏でのちに石崎氏と称した。父は西崎威山。幼いころから画を好み、古人の筆蹟を研究し、のちに小原慶山に師事した。特に仏像を得意とした。享保9年、上杉九郎次の後を継いで、唐絵目利手伝となり、元文元年唐絵目利本役になり御用絵師を兼ねた。宝暦7年、65歳の時に病のため役を辞した。明和7年、78歳で死去した。

荒木元融(1728-1794)
享保13年生まれ。通称は為之進、字は士長。円山と号した。居は鶴鳴堂、薜蘿館などと称した。石崎元徳に師事して画法を学び、蛮画の法をオランダ人に受けたとされる。幼くして経学を真宗の僧教戒に学び、さらに詩文を長崎の渡辺暘谷について修めた。明和3年、荒木元慶の跡を継ぎ唐絵目利兼御用絵師となった。寛政6年、67歳で死去した。

石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

川原香山(生没年未詳、川原慶賀の父)

川原慶賀(1786-不明)
天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

 川原慶賀の父であり師である「川原香山」にも、下記の「長崎港図」がある。

川原香山・長崎港図.jpg

「川原香山・長崎港図」(「長崎歴史文化博物館蔵)
≪ 一介の町絵師、画壇に名無し
出島にいたオランダ人は出島絵師以外が描いた絵を持ち帰ることが許されていませんでした。カメラのない時代、日本の風景や風俗文化、動植物、出島の生活などは絵師によって記録されていました。その出島絵師のひとりが川原慶賀です。
 慶賀(通称登与助、号慶賀、字種美)は、1786年(天明6)に長崎で生まれました。父の香山は町絵師で、蘭船、唐船が浮かぶ港を描いた作品「長崎港図」を残しています。慶賀は香山から絵の手ほどきをうけ、その後、長崎で活躍していた画家の石崎融思(いしざきゆうし)から絵画を学んだといわれています。
 江戸時代、長崎の画家を記した『崎陽画家略伝』、『長崎画人伝』、『続長崎画人伝』などに、慶賀の名はありません。厳しい身分制度の時代、慶賀が一介の町絵師だったからだといわれています。正統な画家の家系の出ではなかった慶賀でしたが、才能に恵まれ町絵師として身を立て、その後「出島出入絵師」となります。
 1820年(文政3)から1829年(文政12)、秘書、会計係、倉庫の管理者として出島で働いたフィッセルや1817年(文化14)に商館長に就任したブロンホフらの求めに応じて絵を描いた慶賀ですが、シーボルトのパートナーとして膨大な作品を残したことで知られています。≫http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226195849&offset=2

 さて、「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)」は、「日本の絵にならってファン・ストラーテンが石版に描き、ファン・デル・ハントが印刷した」の、「ファン・ストラーテン」(「van Straaten 」)の作ということになる。
 そして、この「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』くに下絵)」は、最終的に、「シーボルト」その人が、下記のとおり、その図の「右端」の下方に、川原慶賀の描く「〔図25〕『人物画帳』の網元」と「〔図26〕『人物画帳』の羽指」とが、追加して描かれ、その「右端」の上方には「日いずる国、日本の、その旭日光」が、燦燦と上り始めているのである。

捕鯨図・比較図f.gif

「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)」と「〔28〕捕鯨図(『NIPPON』図版)」の比較図

〔図25〕『人物画帳』の網元(「川原慶賀」画)

『人物画帳』の網元.jpg

ミュンヘン国立民族学博物館蔵

〔図26〕 『人物画帳』の羽指(「川原慶賀」画)

『人物画帳』の羽指.jpg

ミュンヘン国立民族学博物館蔵
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