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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その六「山口素絢」) [洛東遺芳館]

(六)山口素絢筆「郭子儀図」(洛東遺芳館蔵)

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山口素絢筆「郭子儀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

郭子儀は唐時代の武将です。自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。山口素絢は円山応挙の弟子です。この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

山口素絢(やまぐちそけん、宝暦九年=一七五九~ 文政元年(一八一八))は、応門十哲の一人に数えられている。通称は武次郎、字は伯後、号は山斎など。京都の人。円山応挙に画技を学び,寛政七年(一七九五)大乗寺障壁画制作(後期)に参加している。文化十年(一八一三))版の『平安人物志』により、そのころ祇園袋町に住していたことがわかる。人物画をよくして時様の和美人を得意とし、兄弟子の源琦の唐美人と併称された。
 さて、冒頭に掲げた「郭子儀図(素絢筆)は、次の「郭子儀祝賀図」(応挙筆)の模写絵である。

郭子儀祝賀図.jpg

「郭子儀祝賀図」(応挙筆)一幅 絹本着色 一七七五(安永四)一一八・〇×五八・五cm
三井記念美術館蔵
「郭子儀は唐時代陜西華州の人で、数々の武功に輝く名将である。八男七女をもうけ孫は数十人、長寿を誇ったという。老夫妻を頂点に人物が環状に配される構図は、この故事を絵画化したものである。本図は三井高美から実弟である高彌へ隠居祝いとして贈られた。商売にあまり熱心でなかった高美に代わり、高彌は三井家の家業をよくまとめたのである。子孫繁栄と長寿を慶ぶ郭子儀の顔は、なんと高彌の肖像で描かれている。」(『もっと知りたい 円山応挙(樋口一貴著)』)

 応挙は、この郭子儀について、大乗寺障壁画の「郭子儀の間」でも、その襖絵を描いているが、これと全く同じ図柄で、その着衣の色だけを異にしたものを描き、さらに、その「郭子儀図粉本」まで、今に残している(「東京国立博物館(植松家旧蔵)」・「郭子儀携小堂図」「郭子儀図粉本」)。
 すなわち、応挙は、「人物画」「花鳥画」「山水画」などの主たる画題(モチーフ)について、この種のマニュアル(粉本・下絵等)を作成しておいて、制作依頼の需に応じて、いわゆる、応挙工房(応挙と側近門人たち)で、門弟たちが応挙の代筆なども可能にしていたように思われる。
 そして、これらのことは、当時の狩野派にしろ琳派にしろ、障壁画などの大作を制作するような場合には、そういうマニュアル・手順書の類いのものは必須であって、今日の芸術品とか美術品とかを鑑賞する視点とはやや異なるという思いを深くする。
 また、当時の応挙にしろ、蕪村にしろ、芸術家と同意義の「画家・画人」という意識よりも、職人的な「絵師・画工」、そして、何人かで制作する場合のリーダー格は、「絵師・画工の棟梁」(「大乗寺文書(応挙書簡)」など)というような意識だったような思いを深くする。
 冒頭の素絢の、師・応挙の「郭子儀祝賀図」の模写絵のような作品も、「子孫繁栄・長寿」の吉祥的な贈答品の類いのものと理解するのが妥当なのかも知れない。
この「郭子儀祝賀図」の郭子儀の顔は、三井家惣領家(北三井家)四代目高美が一族から義絶された後に、暫定的に高美の跡を継いだ高美の実弟高彌(三井新町家三代目当主)の肖像で描かれているとのことで、こと、三井一族に取っては、この高彌肖像の「郭子儀図」というのは、需要が多く、そんなことと関係しているのかも知れない。
 というのは、そもそも、この三井家四代目の高美は、「大乗寺文書(円山派名簿)」(補記一)に、「京都三井八郎右衛門」と、その名が登場する、列記とした「円山派」の画人の一員なのである。そして、その血筋は、面々と、三井家六代目・高祐、七代目・高就、八代目・高福などが、応挙・応瑞・応震と引き継がれていく円山派の画人として、その作品を今に残している(補記四)。
とすれば、「京都三井八郎右衛門」(三井家惣領家)周辺においては、この種のもの(素絢筆「郭子儀図」)の制作依頼も多かったと解することも可能であろう。
 そもそも、絵師になるために画塾のシステムというのは、口伝による秘伝のようなもので、「臨写を以て始め臨写を以て終る」(橋本雅邦「木挽町絵所」)の、模写教育というのが中心であったのだろう。
 しかし、一人前の絵師になるには、この模写の世界から、自らの創意工夫による、いわゆる「新図」的な世界を会得しないと、例えば、後世に「応門十哲」の一人と目せられるようなことはなかろう。
 そして、「応門十哲」の一人と目せられている山口素絢は、まぎれもなく、応挙の「人物画」の世界を超え、素絢ならではの「美人風俗画」的世界を構築していることが(補記五)、その証左の一つになろう。そして、それらのことが、素絢をして「和美人画に関しては円山派随一」との評価を得ている背景なのであろう。

補記一 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21

補記二 大乗寺障壁画「郭子図襖」(応挙筆)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-22

補記三 東京芸術大学蔵(植松家旧蔵)「郭子儀携小童図」(応挙筆)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007134

補記四 三井家当主(六代目・七代目・八代目)の作品など

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記五 山口素絢筆「百美人図」について―関連作品との比較から―

https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/23180/039000140008.pdf



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その五「東洋」) [洛東遺芳館]

(五)東洋筆「冨士三保松原図」(洛東遺芳館蔵)

東洋一.jpg

東洋筆「富士三保松原図」(絹本着色)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。
彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。

 東東洋は、宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町の生まれ、 天保十年(一八三九)、八十五歳で没。当初狩野梅笑に狩野派を学び、のち、上洛して円山応挙・池大雅等に師事し、法眼に叙せられた。姓・氏は東、名・通称は洋。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。晩年は帰郷して陸奥仙台藩の御用絵師となる。近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
 十五歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に絵を学ぶ、十八歳の頃、江戸に出て、さらに、二十歳の頃、上洛し、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば各地を歴訪しつつも、京都を中心に活動する。
 三十歳代初めにかけて、長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、天明五年(一七八五)の頃京に再帰し、応挙に師事したのは、この頃であろうか。そして、応挙を介してであろうが、妙法院真仁法親王と親交を結ぶようになる。
 法眼に叙せられたのは、応挙が没する寛政七年(一七九五)前後のことで、寛政八年(一七九六)、四十二歳の時に、仙台藩の絵画制作に携わるようになるが、その仙台藩の仕事を携わる一方、活動の拠点は京都であり続けた。京都から仙台へ帰郷したのは、文政八年(一八二五)、七十一歳の頃で、墓は、仙台(若林区荒町にある昌傳庵)と、京都(下京区にある聖光寺)にある。
東洋は、呉春の「四条派」の画人としているものもあるが、応挙の「円山派」の画人の方がより妥当であろう(『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」)。
 呉春も東洋も、妙法院宮真仁法親王(光格天皇の兄)の知遇を得、いわゆる、妙法院サロンの有力メンバーの一員なのであるが、それは、応挙の推挙によるものであろう(『応挙・呉春・芦雪(山川武著)』)。ちなみに、応挙の「墓石」に見る「源応挙墓」の四字は、妙法院宮真仁法親王の筆である(『山川・前掲書』、現在「悟真寺」は右京区太秦の地に移されている)。
 そのサロンには、文人・歌人・儒者等の、「伴蒿蹊・小沢蘆庵・慈延法師(大愚)・賀茂季鷹・上田秋成・岡本保考・香川景樹・皆川淇園・村瀬栲亭・釈慈周(六如)」等々、そして、画人には、「応挙・呉春・東洋」等が名を連ねている(「補記一」の画人や「賛」をしている文人等とオーバラップしている)。
 また、東洋については、下記(「補記」三)のものが詳しい。ここでは、冒頭の「富士三保松原図」に関連して、「大雅・応挙」などの「遠近法」などについて触れて置きたい。

 「遠近法」(透視遠近法)というのは、「近くものを大きく、遠くのものを小さく一点に収束するように描く」描法で、古来の日本画や東洋画の描法ではなく、新しく西洋画(ルネッサンス期に体系化された)をルーツとしているものである。
 この「遠近法」について、応挙は、そのスタートの時点で、「玩具店尾張屋」に奉公し、「眼鏡絵」という風景画を描くことを通して、この「遠近法」という描法を自分のものにし、そして、その上で、「写生」を基調とする「応挙風様式」という画法を樹立していった。
 この東洋の「富士三保松原図」は、その応挙の「遠近法」を明確に意識し、「近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士」と、四段階の遠近法を駆使している。そして、この「富士三保松原図」の主題は、大雅が繰り返し主題にしているもので、例えば、「冨士十二景」の「寒林柴扃図(かんりんさいけいず)」(東京芸術大学蔵)と、同一趣向のように解せられる。
 しかし、この大雅の「冨士十二景」(「補記」二)においては、応挙のような、西洋画的な「遠近法」ではなく、東洋的な「遠近法」(高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式、深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式、平遠は近山から遠山を望み見る形式)が主たるものと解せられる。
 そして、この東洋の「富士三保松原図」は、大雅と応挙とに学んだ成果を活かして、大雅が試みていた「高遠・深遠・平遠」の東洋的な「三遠法」を、応挙風の「透視的遠近法」に置き換えている点に、東洋の、この絵に託しての狙いがあるように解せられる。


補記一 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲、「(その一)」などは掲載メモ)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」    (「その五」で「冨士十二景図など) 
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛       (その五)
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

補記二 大雅筆「冨士十二景図」(東京芸術大学蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/239493

補記三 東東洋《花鳥押絵貼屏風》──ほのぼのと味わい深い風情「樋口智之」

http://artscape.jp/study/art-achive/10139894_1982.html

補記四 東洋筆「東方朔(とうほうさく)」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

補記五 二条派から古学派へ―堂上歌学の変容と地方への伝播

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=13&block_id=21&index_id=126&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese

補記六 東洋と芦雪など

 『書画聞見集(澹斎著)』に、仙台の画人東東洋が京都で見聞したこととして、「芦雪は傲慢な性格で、応挙の死後自分が一番と慢心したため、画はいよいよ悪くなり貧窮して、ついに大阪へ行って自ら首を吊った」ということが記されている。(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」安村敏信著)

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その四「呉春」) [洛東遺芳館]

(四)呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

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呉春筆「孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 呉春は京都の生まれですが、一時、摂津の池田に住んでいました。池田で呉春の作品を対象にした「掛物講」が開かれ、その記録が『池田人物誌』に記録されています。披露される掛物の体裁は決まっていて、縦四尺余、絖の唐表具、撥軸の一幅でした。第二回目の掛物講は天明六年(1786)六月四日で、「松樹に孔雀」が披露され、その表具は「柳茶の絖で明朝仕立て、大一文字は茶の竹屋町」でした。この特徴は全て本作品と一致します。

 『呉春(逸翁美術館編)』の「年譜」によると、呉春の池田寓居は、天明元年(一七八一)、三十歳の時から、寛政元年(一七八九)、三十八歳の頃までの八カ年ということになる。
 その「天明元年(一七八一)」には、「三月晦日妻雛路事故死 八月二十八日父匡程江戸で客死 秋摂津池田に移る」とあり、「寛政元年(一七八九)」には、「五月、池田を引払い、京都四条に住 十月二十三日、几董伊丹で急逝 追悼集『鐘筑波』に付句一、発句一」とある。
 この呉春の八年にわたる池田時代の大きな出来事として、天明三年(一七八三)十二月の蕪村の逝去と、天明八年(一七八八)正月二十九日の天明の大火があげられる。
そして、蕪村没後の天明七年(一七八七)の、応挙一門の「大乗寺障壁画」(前期)に参加し、その「郡山露頂図」(襖絵)を描き、それに関する「大乗寺文書」では、「応挙門人」ではなく「蕪村高弟」と記述されている。
 さらに、天明大火後の、応挙が没する寛政七年(一七九五)の「大乗寺障壁画」(後期)にも参加し、応挙の「松孔雀図」(襖絵)の完成に併せて、呉春は「四季耕作図」(襖絵)を完成させている。
 この前期の「郡山露頂図」は、蕪村晩年の「峨嵋露頂図」や「衡岳露頂図」の連作のような、蕪村風の山水画の趣なのであるが、後期の「四季耕作図」は、それまでの蕪村風から写生を基調としての応挙風への接近が如実に顕われているものであった。
 ここで、冒頭に掲げた天明六年(一七八六)の「孔雀図」と、その翌年の天明七年(一七八七)の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」を併せて鑑賞すると、「蕪村・応挙・呉春」の三者の画風について、次のようなことを指摘して置きたい。

一 呉春の「孔雀図」は、蕪村晩年の漢画を基調にしての「山中採薬図」(下記図)と同じ頃の作品であろう。そして、「山中採薬図」の、この「松樹」の描法は、そのままそっくり、「孔雀図」の「松樹」と重なってくる。そして、この「孔雀」は、蕪村の孔雀というよりも、応挙の孔雀に近いものであろう。そして、呉春にとって、蕪村と応挙というのは、蕪村在世中から、やはり、目標とすべき画人であったと解したい。

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呉春筆「山中採薬図」(逸翁美術館蔵)

二 この「山中採薬図」(呉春筆)を介在して、蕪村の「漢画」(「俳画」などを除く)は、応挙の「漢画」(「狩野派・土佐派」に対しての「漢画」)と、「写意(蕪村風)・写生(応挙)」の根本的なものは別にして、やはり、共に、「中国山水画・花鳥画」(「銭舜挙・沈南蘋」等)から多くのものを摂取しようとしていたことが了知され、その点においては、この「蕪村・応挙・呉春」の、それぞれの「漢画」の世界は、同一趣向のものであったと解したい。

三 その上で、呉春の、「蕪村(風)から応挙(風)」の転換というのは、一つの自然の流れで、例えば、天明七年(一七八七)作の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」の、この劇的な変化も、それは、主題(モチーフ)に対する、作者・呉春の姿勢に因るものであって、そして、その自然の流れというのは、その後の、「円山派」(応挙風)と「四条派」(呉春風)との流れにいえることで、その峻別に、ことさら視点を当てる必要がないと解したい。

補記一 呉春筆「郡山露頂図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-06

補記二 呉春筆「四季耕作図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-08

補記三 呉春筆 「山水(襖絵)」「竹に亀・寿老人・松に鶴(掛軸三幅対)」等

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その三「蕪村」) [洛東遺芳館]

(三)蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」(洛東遺芳館蔵)

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蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

真ん中の人物が呂恭です。薬草を採りに大行山に出かけた呂恭は、山中で仙人に会います。二日、仙人たちと過ごして、家に帰ってみると、二百年が経っていたという話です。
 この話は『列仙全伝』という本に出ていますが、それには挿絵があって、そこに描かれている呂恭と二人の従者の姿は、この絵での彼らの姿に似ていて、蕪村は『列仙全伝』の話だけでなく、挿絵も参考にしていたことが分かります。

『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』では、「絵画・完成期(明和七~安永六年)」中に、次のように紹介されている。
[207 呂恭大行山中採芝図 絹本着色 一幅 一三〇・三×六七・六cm 款「呂恭大行山中採芝図 謝春星」 印「謝長庚」(白文方印) 「謝春星」(白文方印)  洛東遺芳館蔵 ]

 先に(その一)、安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の「五柳先生」について紹介し、
蕪村自身、「五柳先生」と題する作品があることについて触れたが、この「呂恭大行山中採芝図」も、その「五柳先生図」と同時の頃の作品であろう。
 『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の、配列(通し番号)は、「207 呂恭大行山中採芝図」「220 五柳先生図(写於夜半亭謝春星)」「221 五柳先生図(謝春星写於三菓堂中)」の順で、この時期は、この種の『列仙全伝』に関わる漢画系統の作品が多い。
 蕪村と応挙との交遊関係が何時頃から始まったのかは定かではないが、蕪村の「絵画・完成期(明和七~安永六年)」の、明和七年(一七七〇、蕪村・五十五歳、応挙・三十八歳)から安永六年(一七七七、蕪村・六十二歳、応挙・四十五歳)の頃が、一応の目安として差し支えなかろう。
 時期は定かではないが、蕪村が応挙を主題とした次の句がある。

  筆灌(そそ)ぐ応挙が鉢に氷哉 (『蕪村全集一』では「安永九年」作で収載)

句意は、「応挙が絵筆を灌ぐ筆洗い鉢に氷が張っている。その氷は、この寒気の中で画作に専心している作者の鮮烈さを象徴しているかのようである」というようなことであろう。

応挙合作一.jpg
「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その二「円満院祐常」) [洛東遺芳館]

(二)円満院祐常筆「冨士」

円満院祐常.jpg

円満院祐常筆「冨士」((洛東遺芳館蔵))

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

祐常(ゆうじょう)は二条家(にじょうけ)の出身で、大津(おおつ)の円満院(えんまんいん)の門主を務めました。円満院の祐常のもとには、円山応挙(まるやまおうきょ)が出入りしていたこと知られていますが、 祐常も瀟洒な作品を残しています。展示した作品は、輪郭線は使わず、薄墨だけで富士を表わしています。賛の和歌「たちのぼる、雲も およばぬ、ふじのねに、けぶりをこめて、かすむ春かな」は九条尚実(くじょうひさざね)の書ですが、絵とピッタリと意気が合っています。

 応挙の前半生に影響を与えた人物の筆頭格は、円満院祐常であろう。祐常は五摂家の一つの二条家の生まれ、実父は右大臣の吉忠である。十二歳で得度して門跡寺院である円満院に入り、後に大僧正に任じられている。
 祐常は、一七六一年から一七七三年まで日常の諸事万端を『萬誌(ばんし)』という書物に残している。そこに、応挙の名が出てくるのは、六五年(明和二年)、三十三歳の時からである。祐常自身、絵の心得があったが、応挙のパトロンであると同時に、応挙門で応挙に絵の指導を仰いでいたのであろう。
 この二人の関係から生まれた代表的な作品が、「七難七福図巻」(「天災巻」「人災巻」「福寿巻」相国寺蔵)で、「天災巻」は、三二・二×一五九〇・八(約一六m)、「人災巻」は、三二・〇×一〇六一・八(約一一m)、「福寿巻」は、三二・二×一二〇八・〇(訳一二m)と、空前絶後の長大横長の図巻である。
 祐常は、応挙に、祐常自身が描いた下絵を示しながら、「何年かかっても良いから応挙自身が見聞き、体験し、そして、目のあたりにしたものをリアルに描いて欲しい」と懇請し、それに応えた応挙は、明和二年(一七六五)から明和五年(一七六八)の、足掛け四年の歳月をかけて、この作品を完成したという。
 この明和二年(一七六五)、応挙、三十三歳から、明和五年(一七六八)の、応挙、三十六歳に掛けての、この「七難七福図巻」に関わる、応挙の真摯な「見聞・体験・実写・模写」等々の、その「創意(計画)・実践(試行)・確認(相互評価)」の繰り返しが、その後の、「応挙・円山派・円山四条派」の礎になったことは、応挙の、その作品の、その前半生と後半生とを分けて、つぶさに鑑賞するならば、自ずから了知されるものであろう。

補記一 洛東遺芳館について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

補記二 萬野美術館と相国寺承天閣美術館など

http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10715.html

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京都の画人たち」(その一「応挙」) [洛東遺芳館]

(一) 応挙筆「五柳先生」

五柳先生.jpg

応挙筆「五柳先生」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の作品です。五柳先生とは陶淵明のことです。
陶淵明の自伝と言われる「五柳先生伝」の中に、「宅辺に 五柳樹あり」とあります。この作品では、その柳と頭巾が陶淵明である ことを示しています。籬の下に菊が描かれているのは、陶淵明の有名な詩の一節「菊を採る東籬のもと」に基いています。いかにも応挙らしい円満な表情が特徴です。」

 この安永五年(一七七六)四月十三日、大雅が五十四歳の生涯を閉じた。当時、六十一歳の蕪村は、「大雅堂も一昨十三日故人と相成り候。平安の一奇物、をしき事に候」との書簡(安永五年四月十五日付け霞夫宛書簡)を今に残している。
 その前年の『平安人物志』(安永四年版)の画家の部には、「応挙(四条麩屋町西エ入町)・若冲(高倉錦小路上ル町)・大雅(祗園下河原)・蕪村(仏光寺烏丸西エ入町)」の順で、今に時めく四人の名が登載されている。
 この四人は、謂わば「応挙工房・画塾サロン」「若冲錦小路サロン」「大雅書画サロン」「蕪村画俳サロン」というような、一部、共通するメンバーを抱え、近接な場に居を構えていながら、それぞれ活動の場を異にしていて、相互の交流関係というのは、それほど密ではない。
 同年齢の「蕪村・若冲」とは、若冲が生粋の京都人とすると、蕪村は浪華の在の生まれで江戸放浪などを経て帰洛した他所人で、蕪村、若冲のどちらの側からも、この二人の直接的な交遊関係の接点というのは見えてこない。
 「蕪村・大雅」とは、共に日本南画の大成者として、画人としては、同じ文人画・南画というフィ―ルドで活躍しながら、今に「十便十宣図画冊」(「十便図=大雅筆」「十宣図=蕪村筆)の合作(鳴海の下郷学海の斡旋)を残すくらいでで、この二人の親密な関係というのも、これまた見えて来ない。
 この四人の中で、「蕪村・応挙」との関係は、この二人が茶屋などで小宴を催し、応挙が猫の戯画、蕪村が杓子の戯画と「ぢいもばばも猫もしゃくしもおどりかな」の戯句を賛しての、「猫も杓子も図画賛」(蕪村・応挙合作)などが今に残されており、比較的親密であったことが了知される。

 ここで、冒頭の「五柳先生」(応挙筆)に関連して、「蕪村」の号の由来は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」とし、続けて、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意であり、すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「『帰るに帰れない』、その脳裏にのみ存在するものであった」(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)というのが、大方の「蕪村の号」の由来の、その根拠というようなことになろう。
 さらに、続けるならば、蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人で、且つ、応挙に、亡き蕪村の高弟として遇せられる月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖節(淵明)詩集』に挟まれていた、師(蕪村)自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 翻って、その文人画家・蕪村のスタートを飾った作品も、「陶淵明山水図(中村美術サロン蔵)」で、『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の第一番目に登載されているのを始め、次のようなものが紹介されている。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)
48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)
二 絵画・完成期(明和七~安永六)
220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

 上記のとおり、蕪村の「五柳先生図」と題するものも、二点ほどあり、これらの、蕪村の「陶淵明(五柳先生)」にあやかり、応挙風の「「陶淵明(五柳先生)」の、応挙にしては、
その、蕪村(「五柳先生」のイメージの強い)への、俳諧(連句)の、挨拶句的な意味合いの強いものという雰囲気で無くもない。

 いずれにしろ、この応挙筆の「五柳先生」(陶淵明)は、陶淵明(五柳先生)」と深い縁のある蕪村との、「応挙と蕪村」との、知られざる何かを語っているイメージを受けるのである。

補記一 蕪村と月渓が描いた陶淵明像

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13

補記二 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

補記三 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-01

補記四 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-03


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応挙工房周辺(円山派・応挙工房・応募画塾) [応挙]

その十八 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

円山派.jpg

大乗寺文書(円山派名簿)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_21.html

(「大乗寺」障壁画などに携わった画人たち)

故主水    応挙   島田主計頭  元直
月渓     呉春   駒井幸之助  源琦
長澤     芦雪   円山主水   応瑞
木下直一 応受   秀権九郎   雪亭
故山本数馬  守礼   山形貫次(?) 鶴嶺
奥順蔵    貞章(?)森文蔵(?)  徹山  
式部治郎(?)素絢   亀岡規十郎   規礼

(※=「応門十哲」などに関係する画人)
(※※と※※※=特記すべき画人、※※※※=支援者など)

※※原    在中          ※楠亭
吉村     蘭洲   岡橋喬快(?) 直珽(?)
三谷逸記   五雲   中村平右衛門  孝敬
※ 奥田兎毛 南岳   ※吉村羊蔵   孝敬
土岐富吉   瑛正   白井忠八    直賢
白井周蔵   白猷   ※※岸雅樂助(?)蘭斎
松村直治   士慎   脇畑栄蔵    守渓
太子堂    自浄   田辺茂兵衛   源章(?)
駒井真蔵   愛延   和田金兵衛   公遵
東部     呉龍   越後      東洋
※※※※冨士山応令 與右衛門(?)※※※双林寺 西阿弥
※※※※京都三井八郎右衛門   池田  宣春
亀山     文蔵   浅井庄兵衛   義篤
島田   内匠 元直息  風折(?)  友丈 故人

 上記のものを、先の「円山四条派関係系図」(下記のアドレス)と照合などすると、次のようなことが浮かび上がってくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-21

一 冒頭の文書は、「故主水 応挙」(一七九五没)「故山本数馬 守礼」(一七九〇没)の記述から、応挙没後の、応挙を祖とする「円山派関係画人一覧」の、大乗寺側の書き留めと解せられる。この内、「応挙・元直・呉春・源琦・芦雪・応瑞・応受・雪亭・守礼・鶴嶺・貞章=文鳴・徹山・素絢・規礼」は、天明七年(一七八七)から寛政六年(一七九四)の、大乗寺障壁画などに係わった画人たちで、その意味で、応挙を棟梁として、その采配下で制作に随時参加するなど、いわゆる「応挙工房の画人たち」という趣である。

①  円山応挙 → 孔雀の間 郭子儀の間 山水の間 (一階)
②  円山応瑞 → 鯉の間  仏間 (一階)
③  木下応受 → (孔雀の間・郭子儀の間 山水の間)小壁(遊亀図)
④  駒井源琦 → 鴨の間 (二階)
⑤  長沢芦雪 → 猿の間 (二階) 
⑥  山本守礼 → 狗子の間(一階)
⑦  亀岡規礼 → 使者の間(一階)
⑧  奥 文鳴 → 藤の間 (一階)
⑨  源 正勤 → 屏風(子猷訪戴図・帰去来図)
⑩  山口素絢 → (鴨の間・猿の間)小壁(蛾蝶図)
⑪  森 徹山 → (猿の間)小壁(山雀図)
⑫  秀 雪亭 → 仙人の間(一階)
⑬  山跡鶴嶺 → (農業の間)小壁(飛燕図)
⑮  呉春   → 農業の間 群仙露頂の間(一階)

二 「応門十哲」との関連で見ると次のようなことが言える。

(「応門十哲」→ 「事典」などの一つの見解)
駒井源琦 (上記一)
長沢蘆雪 (上記一)
山跡鶴嶺 (上記一)
森徹山  (上記一)
吉村孝敬 (大乗寺文書※)
山口素絢 (上記一)
奥文鳴  (上記一)
月僊
西村楠亭 (大乗寺文書※)
渡辺南岳 (大乗寺文書※)

 「吉村孝敬(一七六九~一八三六)」は、吉村蘭洲の長男で、応挙晩年の弟子である。伝統的な狩野派の画法や応挙の写生画を消化し、さらに写生を推し進めた画風で、京都画壇にその足跡をのこしている。 
 「西村楠亭(一七七五~一八三四)」は、西村氏、名は予章、大坂の人。楠亭と号し、寛政から天保初年にかけて、肉筆風俗画をよくしている。
 「渡辺南岳(一七六七~一八一三)」は、京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称猪三郎、小左衛門。画を円山応挙に学んだが、後年尾形光琳に私淑し、流麗な筆使いで美人や魚などを巧みに描いた。晩年江戸に出て、江戸に円山派を伝え、谷文晁、酒井抱一らと交友している。
 「月僊(一七四一~一八〇九)」は、冒頭の「大乗寺文書」には記載がない。名古屋の人で、仏門修行の傍ら雲谷派を学び、上洛して、応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立している。

三 応挙と「原在中・岸駒(岸雅楽助)」そして「月峯(大雅堂二世・西阿弥)」関連について

 冒頭の「大乗寺文書」には、応挙没後の京都画壇に、「円山・四条派」とは別の「原派」を創設する「原在中(一七五〇~一八三七)」と「岸派」を創設する「岸駒(岸雅楽助)一七四九/五六~一八三九」の名も出てくる(上記の※※)。
 「原在中」は、京都の人。名は致遠、字は子重、別号に臥遊など。幼少より画を好み、円山応挙に学んだといわれているが、石田幽汀に師事したとする説もある。明画を独学し、さらに土佐派を学ぶなど諸派を研究、精緻な装飾的作風の原派を興した。
 「岸駒」は、加賀の人。字は賁然(ひぜん)。号は同功館・可観堂など。南蘋派の花鳥画を学び、円山派などの諸派を折衷し、京都画壇の中心となった。天明四年(一七九四)有栖川宮家の障壁画を描く。このころ雅楽介を称する。
 この二人について、「応挙没後、在中は自分は応挙の弟子ではないとし、これに腹をたてた岸駒が応挙の子・円山応瑞のところに行って門人帳を調べると、在中の自筆で入門と名簿に書いてあった」(『古画備考』)との逸話があるが、冒頭の「大乗寺文書」に、二人の名があることは、この二人も応挙系の画人と解して差し支えなかろう
 すなわち、応挙の「円山派」は、呉春の「四条派」と併称して「円山四条派」、それに、「原派」、そして、「岸派」も加えると、応挙の世界(写生を作画の基本に置くという世界)の拡がりというのは、それまでの伝統的な狩野派・土佐派の世界を圧するものがあったことであろう。
 さらに、注目すべきことは、「双林寺 西阿弥」(※※※)で、大雅の跡を継いで、大雅堂二世を名乗った「月峯」のようなのである。

http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/11759/info.html

「名前: 月峯(辰亮)
解説: 月峯( ~天保10年) 僧(時宗画家)名は辰亮、月峯又菊澗、又は可有斎と号した。京都東山双林寺長喜庵主双林寺世一世謙阿明亮の法嗣。先師明亮の勧めにより境内に住み画を描いた池大雅に就いて画を学び其気格を得、且つ篆刻を巧みにした。大雅没後その遣跡を守り大雅堂二世と称したが、天保十年十一月九日没した。年八十。(文化十 文人画 文政五 文人画 文政十三 文人画 再出 篆刻 天保九 文人画 再出 篆刻家)」

 すなわち、日本の文人画(南画)を樹立した、蕪村と大雅は、その後継者たるべき、呉春(蕪村門人)と月峯(大雅門人)とが、蕪村と大雅亡き後の、京都画壇の中枢を獲得した応挙と結びつき、その後の、「西洋画」そして「東洋画」に匹敵する真正なる「日本画」の趨勢を方向づけたということに解したい。
 こうして見てくると、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)は、途轍もない、「十八世紀の京都画壇とその後の日本画の趨勢」について、一つの示唆を含む貴重な資料ということになろう。

四 「京都 三井八郎右衛門」と「冨士山応令 與右衛門」などについて

 この「京都 三井八郎右衛門」(※※※※)とは、応挙と応挙一門の最大の支援者ともいうべき、三井十一家の惣領家である北三井家四代目の「三井 高美」その人であろう。この高美と応挙とは昵懇の間柄で、この高美が、片手に団扇を持ち、裸でくつろぐ後ろ姿を、応挙が軽いタッチで描いた「夕涼み図」が今に残されている。
 この高美は、経営者的センスよりも文雅的嗜好が強く、家業は実弟の高弥(新町家)が取り仕切り、晩年は一族から義絶されるなど、毀誉褒貶の多い生涯を送るが、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に、その名があるということは、応挙の庇護者であったと同時に、応挙に絵の指導などを受けていたと解すべきなのであろう。 
 三井家は、この高美が亡くなった以降も、応挙と応挙一門との関係は良好で、応挙の国宝「雪松図屏風」をはじめ、今に、三井記念美術館は、「円山・四条派」関係作品の宝庫でもある。
 次に、「冨士山応令 與右衛門」は、これまた、応挙と京都の三井八郎右衛門(高美)と関係と同じように、富士山麓の東海道沼津原宿の大素封家である「植松與右衛門」(「植松家」当主の名跡)のことで、その「応令」は、応挙門での画号なのであろう(「応令」の父は、応挙と親交のあった「蘭渓」で、応令は蘭渓の仲介で応挙門に入っていた時期があり、応挙門の一員に数えられていたのであろう)。
 この蘭渓・応令親子について、次のようなことが紹介されている。

「駿河国、原(静岡県沼津市郊外)資産家植松家の当主蘭渓(与右衛門)は妙心寺海福院住職斯経和尚を介して応挙と相識となり、息子の季英(応令)を京都に出して応挙に入門させた程であったが、植松家に残された応挙書簡によると、応挙は蘭渓から再三富士見物の誘いを受けながら遂にそれを果たさなかったらしい。応挙の場合、未知の土地に新鮮な奇勝を求めるというよりは、馴れ親しんだ畿内の風物を繰返しとり上げ、むしろ平凡な日常的風景のなかに温和な抒情性をうたいこもうとしていたように思われる。」(『応挙・呉春・芦雪―円山・四条派の画家(山川武著)』)

 これらの、京都の豪商の三井高美(「三井八郎右衛門」)や、駿河沼津の大素封家「植松家(応令)」は、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に記載されていることからして、単なる、応挙の庇護者や愛好者ではなく、謂わば、「応挙画塾」で、応挙の直接的な指導を受け、応挙門人の一員として遇せられていたと解すべきなのであろう。
 そして、この二人のように、画家を職業とはしていないが、応挙門人として遇せられていた者は、例えば、儒者として名高い、皆川淇園など相当数が存在していると解して差し支えなかろう。
 さらに、応挙そして応挙派の庇護者・愛好者ということになると、例えば、京都を中心として三都にわたって呉服・紙・塗物問屋を多角経営していた「柏原家」(今日の「洛東遺芳館」の同家旧邸に所蔵作品等)など、その輪は、これまた、相当数に達すると解して差し支えなかろう。

 これら、十八世紀の京都画壇の中枢を占めた、円山応挙と円山派は、その応挙の統率・指導下にあって、謂わば、「専門画家集団・準専門画家集団・庇護者・愛好者・理解者」という輪を拡大させながら、それが、単に、京都、そして、三都とを問わず、例えば、日本海に面する、但馬香住の、凡そ百六十五面に及ぶ「大乗寺障壁画」を完成させた、その原動力であったのであろう。
 そして、応挙と応挙一門とが、常に目指していた、その象徴的なものは、やはり、天明六年(一七八六)、応挙、五十四歳時頃の、今に国宝とされている「雪松図屏風」と、そして、それは、応挙が常に目標としていた、狩野探幽の世界(伝統的な世界)に、新しい息吹(革新)を齎したたいという応挙の赤裸々な思いだったこと実感する。

図-22.png

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

補記一 三井記念美術館について

http://www.mitsui-museum.jp/gaiyou/gaiyou4.html

補記二 駿河原宿植松家の帯笑園

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/59/5/59_5_9/_pdf

補記三 帯笑園 における高家大名等 の訪 問 につ いて

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/60/5/60_5_395/_pdf

補記四 洛東遺芳館(「柏原家」)について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

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応挙工房周辺(大乗寺(その十五 応挙の「十六羅漢図」など) [応挙]

その十七 大乗寺(その十五 応挙の「十六羅漢図」他)

 兵庫県北部、旧但馬国の日本海に臨む香住に、別名応挙寺として夙に知られている、高野山真言宗寺院の亀居山大乗寺がある。
この大乗寺の客殿に、応挙を筆頭として、嫡子の応瑞や門人の源琦・芦雪、そして、蕪村高弟の呉春(後に応挙に朋友として迎えられる)たち総勢十四名が、凡そ百六十五面に及ぶ障壁画を完成させている。
 この客殿再建に携わった大乗寺の中心人物は、密蔵上人(一七一六~八六)と密英上人(一七五三~一八〇二)で、密蔵上人は、その応挙らの障壁画が着手される天明六年(一七八六)七月以前の、その年の二月に遷化し、その密蔵上人の志を引き継いだのが密英上人ということになる。
 応挙と大乗寺側(密蔵上人など)との、この障壁画に係わる逸話としては、「応挙が幼いころ大乗寺の世話になった恩返し説」(石田幽汀の門に入る頃、大乗寺の密蔵上人が資金を援助したと伝えられている)などが、その背景の内容であるが、それらは、あくまでも逸話の域を出ないのであろう。
 これらのことに関して、大乗寺の所蔵の、応挙筆「十六羅漢図屏風」(二曲一隻・八隻)
は、一つの示唆を与える縁のものと解したい。

応挙羅漢一.jpg

応挙筆「十六羅漢図屏風」(二曲一隻・八隻)の内の「第一隻」(大乗寺蔵)

 この「十六羅漢図屏風」の裏面には、「此尊影求密英上人 本所京東福寺什宝 渡唐之十六羅漢願 拝借則於彼方丈使 画師源應擧令寫焉 文政七申夏仕堅密円」とあり、「密英上人が、応挙にこの十六羅漢の制作を依頼している」との文面(文政七年=一八二四・密円記)のようである。そして、「応挙が三十才代初期に模写したものと伝えられる」としている。

 この「応挙三十歳代」を、「応挙年譜」で見ると次のとおりとなる。

宝暦13[1763]  応挙31歳 この頃、宝鏡寺蓮池院尼公との係わり深くなる。
明和2[1765] 応挙33歳 この頃、円満院門主祐常との親交はじまり、応挙の円満院時代始まる。
明和3[1766] 応挙34歳 この頃、名を「応挙」と改名し、作品には主に「応挙」の落款を用いる。円山応瑞生れる。(応挙二男)
明和8[1771] 応挙39歳 「牡丹孔雀図」(萬野美術館蔵)を描く

 ここで、この「十六羅漢図屏風」の裏面に記載されている、「本所京東福寺什宝 渡唐之十六羅漢願 拝借則於彼方丈使 画師源應擧令寫焉」の「本所京東福寺」に注目したい。
 この応挙筆の「十六羅漢図」は、京都東福寺の「渡唐之十六羅漢」の、応挙が「古画」の模写絵に没頭していた頃の、その応挙の古画の模写絵の真骨頂を示すものの一つの証しであろう。
 そして、応挙と「京東福寺」との関係は、大乗寺の密蔵・密英上人もさることながら、上記の応挙年譜の「円満院門主祐常」(近江円満院三十七世、関白二条吉忠の三男、母は栄子内親王。法諱は祐常、号は月渚・素円・由清)が大きく関与していることであろう。
 その、応挙のスタート地点を証しする、応挙三十代の、「十六羅漢図」の全貌と共に、その最晩年の亡くなる年、寛政七年(一七九五)正月作の「鍾馗図」が、大乗寺に残されている。

応挙・関雨図.jpg

応挙筆 掛軸 紙本墨画淡彩 寛政七年(一七九五)正月

補記一 大乗寺蔵の「円山応挙作品一覧と文書」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_01.html

補記二 大乗寺蔵の「円山応瑞作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_02.html

補記三 大乗寺蔵の「木下応受作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_03.html

補記四 大乗寺蔵の「源琦作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_04.html

補記五 大乗寺蔵の「長澤芦雪作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_05.html

補記六 大乗寺蔵の「山本守礼作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_06.html

補記七 大乗寺蔵の「亀岡規礼作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_07.html

補記八 大乗寺蔵の「奥文鳴作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_08.html

補記九 大乗寺蔵の「源正勤(注・奥文鳴の別号?)作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_09.html

補記十 大乗寺蔵の「山口素絢作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_10.html

補記十一 大乗寺蔵の「森徹山作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_11.html

補記十二 大乗寺蔵の「秀雪亭作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_12.html

補記十三 大乗寺蔵の「山本鶴嶺作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_13.html

補記十四 大乗寺蔵の「呉春作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_14.html



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応挙工房周辺(大乗寺(その十四「嶋田元直」他) [応挙]

その十六 大乗寺(その十四「嶋田元直」他)

平安人物誌.jpg

『平安人物志』(安永四年版・画家の部)

上記の「画家の部」の五人の記載は次の通りである。

藤応挙 字僊斎 号僊斎 四条麩屋町西エ入町 円山主水
(円山応挙 1733~1795 )
滕汝鈞 字景和 号若冲 高倉錦小路上ル町  滕 若冲
(伊藤若冲 1716~1800 )
池魚名 再出(注・「書道」の部と再出)    池野秋平
(池大雅  1723~1776)
謝長庚 字春星 号三菓 仏光寺烏丸西エ入町 与謝蕪村
(与謝蕪村 1716~1783 )
紀元直 字子方 号鸞洞 新町綾小路下ル町  嶋田内蔵助
(嶋田元直 1736~1819)

 この安永四年(一七七五)版の『平安人物志』の「画家の部」に記載されている五人は、当時の「平安(京都)」の、「画家五人衆」と解して差し支えなかろう。「円山応挙→伊藤若冲→池大雅→与謝蕪村」、それに続く、「紀元直(嶋田内蔵助)」とは、天明七年(一七八七)の、応挙の大乗寺障壁画(第一次)に取り組む、その画人の内、応挙に次いで出てくる「嶋田主計頭四位元直」その人である。

 『平安人物志』(平安四年版)に出て来る「嶋田内蔵助」は、応挙の大乗寺障壁画に係わる文書の「嶋田主計頭四位元直」とは、全くの同一人物で、単に、「内蔵助」から「主計頭」への、その役職が上に行ったことを示しているということに他ならない。

書簡二.jpg

(「大乗寺文書・部分=書簡A)応挙書簡・襖絵依頼と費用覚 天明七年、寛政元年、天明四年(辰)

 天明七年(一七八七)の、大乗寺障壁画(第一次)に参加した六名の画人(円山応挙・嶋田元直・呉月渓・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞)である。

書簡三.jpg

(「大乗寺文書・部分=書簡B)呉春、嶋田元直、山本守礼、秀雪亭、應瑞書簡(画料受取)

 上記の、大乗寺障壁画(第一次)に参加した六名の画人のうち、応挙を除いた五名の、その折りの「画料受取」の書簡である。
 嶋田元直のものは、「御襖花鳥挨拶金千弐百疋/送リ被下辱落手仕候以上/九月八日 嶋田主計頭」とあり、「花鳥画」の襖を描いた、その画料の受け取りの書状である。しかし、この嶋田元直の「花鳥画」の襖絵だけが現存しない。
 このことについて、「行方知れずの絵」として、次のようなことが、紹介されている。

http://museum.daijyoji.or.jp/05temple/05_09.html

「大乗寺客殿建築後20年ほど後、裏山に地崩れがあり、客殿の山側の3部屋に被害を受けたようです。壊れた3部屋は客殿では住職の私的な部屋で、それぞれ「牡丹の間」「竹の間」「雪の間」の名が付いていました。その後、壊れた部分の資材の一部はもらわれて行き、豊岡の福田での寺の建築に利用されたといいます。応挙が大乗寺から襖絵の依頼を請けた際の書付が残っており、そこには制作にあたるメンバーに当時人気の絵師であった島田元直の名があります。しかしながら現在の大乗寺には元直の絵は1枚も残されていないのです。壊れた3部屋に描かれていたといわれる牡丹、竹、雪の絵は島田元直の筆によるものではないかと思われます。 もらわれていった資材の中に島田元直の絵も混じっていたのでしょうか? 豊岡福田の寺では1995年頃の改築時にいらなくなった廃材を焼却したということです。」

 嶋田元直は、元文元年(一七三六)生まれ、文化二年(一八一九)に没、八十四歳と、冒頭の「画家五人衆」の中では、最も長命であった。本姓は紀、名は元直、字は子方、号に、鸞洞・後素軒など。もともとは、嶋田家は院長官を勤めるなどの公家。元直は従四位下主計頭となる。円山応挙に画を学び、寛政二年(一七九〇)の御所造営にも応挙一門として参加している。


補記一 大乗寺文書について

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06.html

補記二 「平安人物志」上の嶋田元直について(「明和五年版・安永四年版・天明二年版・文化十年版)

http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/11499/info.html

補記三 高精度画像でみる円山派の筆づかい(図一 嶋田元直筆「遊鯉図」)

http://museum.kwansei.ac.jp/guidance/wp-content/uploads/sites/5/2014/04/b2ca0ae2cb6d3785217d929af82e96a9.pdf

補記四 応挙書簡(大乗寺文書)天明七年(一七八七)・天明四年(辰・一七八四)の上半分→翻刻文

応挙工房周辺(大乗寺(その五 遊鯉図)) [応挙]

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/

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応挙工房周辺(大乗寺(その十三「群猿図」)) [応挙]

その十五 大乗寺(その十三「群猿図」)

芦雪.jpg

芦雪筆「群猿図(部分図)」(大乗寺「猿の間」)

【 群猿図 長沢芦雪筆 猿の間
 本図は客殿二階にある部屋で、海辺の岩場に猿の群が描かれており、子猿を背負った母親や岩の上でのんびりと甲羅干しをする猿、更には海で泳いだ後岩場へ上がろうする猿など、実に表情豊かに描かれている。驚かされることは、猿の輪郭線で、象(かたど)ってから毛描きするのではなく、平筆を横に使って、毛描きと体そのものの形態描写とを、一回で済ませてしまっていることである。普通は画面は寝かせて描くものであるが、芦雪は仕立てられた白襖を立てたままで、下書きもせず、いきなり直に描いていったものと考えられる。画面には墨が垂れた後があり、芦雪の速写の力量を物語っている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「猿の間」)

 芦雪は、宝暦四年(一七五四)生まれ、源琦が亡くなった二年後の寛政十一年(一七九九)に大阪で客死する。奔放な性格ゆえに、応挙門を破門されたとか様々な逸話が残っているが、応挙が亡くなる最晩年の寛政七年(一七九五)の、第二次(後期)大乗寺障壁画制作に応門二哲(源琦と芦雪)が揃って参加し、応挙の「孔雀の間(松に孔雀図)」に、「鴨の間(梅花遊禽図)・源琦筆」と「猿の間(群猿図)・芦雪筆」が花を添え、天明七年(一七八七)から続く、応挙の、その一大障壁画制作が完成したということになる。
 この応門二哲の、源琦も芦雪も、応挙風の「山水画・花鳥画・人物画」の、それぞれの傑作画を今に残しているが、源琦は夙に、その源琦に連なる応門十哲の山口素絢共々、美人画(特に唐美人画)で、その名が高い。しかし、ともすると、応挙門の異端児とか「奇想画の旗手」として名を馳せている芦雪も、これまた、応挙風の美人画の世界で、源琦や素絢と肩を並べての名手なのである。

芦雪二.jpg

芦雪筆「呉美人図(部分図)」(東京国立博物館蔵)一幅 107.1×40.6

補記一 山口素絢 「大乗寺・鴨の間」の「蛾蝶図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_10.html

補記二 森徹山 「大乗寺・猿の間」の「山雀図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_11.html

補記三 木下応受 「大乗寺・山水の間・郭子儀の間」の「遊亀図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_03.html

補記四 山跡鶴嶺 「大乗寺・農業の間」の「飛燕図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_13.html

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応挙工房周辺(大乗寺(その十二「梅花遊禽図」) [応挙]

その十四 大乗寺(その十二「梅花遊禽図」)

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源琦筆「梅花遊禽図(部分画)」(大乗寺「鴨の間」)紙本淡彩

【 梅花遊禽図 源琦筆 鴨の間
 本図は客殿二階の東南に位置する部屋で、アーチ型に湾曲した梅の木とその下の芦の茂る池には水鳥の姿が描かれている。源琦は応挙の数ある弟子の中で只一人の内弟子であった絵師で、応挙の画法を最も忠実に受け継ぎ、応挙の右腕となって常に師を支え続けた。真面目で勤勉実直な性格を反映した素直で平明な作風は、師の応挙画を彷彿とさせるものがあり、画面奥へと続く水景は描かれていないその先までも、空間が広がるかのような表現方法である。鳥の姿の表現に見られるような丁寧な写生をもとにした作画姿勢は、叙情味に傾くことの多い弟子達の中にあって、一人師風を厳しく守り続けている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「鴨の間」)

 源琦は、延享四年(一七四七)の生まれ、 応挙が亡くなった二年後の寛政九年(一七九七)に没している。姓は駒井、本姓は源、名は琦で、駒井源琦と表記されることも多い。
 安永四年(一七七五)、源琦、二十九歳時に刊行された『平安人物誌』にも搭載され、同誌に載る応挙弟子は、源琦と島田元直と二人だけである。他には応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、呉春、曾我蕭白らの名が並び、源琦はこれらの絵師に並んで京都画壇の一角に名を連ねたということが解る。
 長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。 他に、『木村蒹葭堂日記』にもその名が登場しており、両者には交流があった事が読み取れる。

源琦二.jpg

源琦筆「楊貴妃図」(MIHO MUSEUM蔵)H-120.8 W-61.7

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001879.htm


補記一 円山応挙の門人について(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/oukyomonjin.pdf

補記二 池大雅の作画と文人性(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/5-sugi.pdf

補記三 「鯉図屏風」と画家・渡辺南岳について(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/7-sugi02.pdf

補記四 江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料-事項一覧編‐(黒川古文化研究所) 

http://www.kurokawa-institute.or.jp/9-sugi.pdf
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応挙工房周辺(大乗寺(その十一「藤花禽鳥図」)) [応挙]

その十三 大乗寺(その十一「藤花禽鳥図」)

奥文鳴.jpg

奥文鳴筆「藤花禽鳥図」紙本着色(大乗寺「藤の間」)

【 藤花禽鳥図 奥文鳴 藤の間 
 奥文鳴は応門十哲の一人に数えられる、力ある弟子である。山水の間北側の廊下に面した壁貼付である本図は、大きな三面から構成されており、曲がりくねる藤を刷毛で巧みに表現した「付立」と呼ばれる速写描法が使用されている。藤花には胡粉の白い色がさされ、通常より白い紙の地の上に、更に白さを増した花の存在を意識させ、小鳥に施された微かな色が、墨画で描かれた画面のアクセントとなっている。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「藤の間」)

 この部屋は、「山水の間」の東側裏で、武者隠し(要人の座の近くに警備の武者を隠しておく小部屋)に当たる。この部屋には、襖はなく壁面に襖と同様の仕様で表装されたパネル状の表具がはめ込まれており、その上に描かれている。落款は「源貞章」と署名している。

 奥文鳴は、安永二年(一七七三)生まれ、文化十年(一八一三)の没。寛延七年(一七九五)、二十三歳の時の、この大乗寺障壁画制作(第二次の後期制作)の「藤花禽鳥図」が、現在確認できる制作年が判明する最も早い作品で、生涯最大の作品である。
 寛政二年(一七九〇)の御所造営に伴う障壁画制作にも、応挙一門の一人として、若干十八歳の若さで参加している(しかし、この時の障壁画は嘉永七年=一八五四の火災で焼失し、現存していない)。
 天明七年(一七八七)の大乗寺障壁画第一次の前期制作時は、年齢が十五歳当時で、まだ参加するだけの力量はなかったのであろう。
 文鳴の父は、賀川玄悦の弟子の、賀川流産科医・奥道栄で、応挙と昵懇の関係にあり、その関係で応挙門に入り、応挙門では、応挙の嫡子・応瑞(明和三年=一七七六生まれ)、応挙の三男・木下応受(安永六年=一七七七生まれ)共々、応挙の最側近の一人であったのであろう。
 しかし、木下応受は、文化十二年(一八一五)に、二十九歳で没、文鳴も、文化十年(一八一三)に、四十歳、さらには、山本守礼も、寛政二年(一七九〇)に、やはり、四十歳で没しており、応挙一門、そして、円山(応挙系)四条(呉春系)派の周辺というのは、幾多の変遷を経ながら、京都画壇の主流として脈々と受け継がれ今日に至っている。
 なお、文鳴の、享和元年(一八〇一)に著した『仙斎円山先生伝』は、応挙が没した寛政七年(一七九五)から六年しか経ていない時のもので、また、応挙の最側近の伝記ということで、応挙伝記、そして、応挙画論を知る上で、最も枢要なものとされている(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「応挙に見る伝統と革新」(河野元昭稿))。

補記一 奥文鳴「寒塘水禽図」(敦賀市美術館蔵)

http://www.city.tsuruga.lg.jp/about_city/news_from_facility/gaibu_shisetsu/hakubutsukan/past_exhibactivities/jyousetsutenshinshun.html

奥文鳴2.jpg

補記二 円山応挙と清朝花鳥画 ―近衛家煕の唐物趣味をふま えて―

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/10017/1/KU-1100-20151101-04.pdf

補記三 奥文鳴「仙斎円山先生伝」

https://books.google.co.jp/books?id=s6FMotKqLRkC&pg=PA7&lpg=PA7&dq=%E5%A5%A5%E6%96%87%E9%B3%B4%E3%80%80%E4%BB%99%E6%96%8E%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%85%88%E7%94%9F%E4%BC%9D&source=bl&ots=Hbw4vehRTk&sig=fZYuPzVdUNRd8O3CrJ4vxQCSkkI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiytMnwzLPXAhUBv7wKHQv4BeoQ6AEINDAC#v=onepage&q=%E5%A5%A5%E6%96%87%E9%B3%B4%E3%80%80%E4%BB%99%E6%96%8E%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%85%88%E7%94%9F%E4%BC%9D&f=false

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