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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その七「源琦」) [洛東遺芳館]

(七)源琦筆「布袋図」(洛東遺芳館蔵)

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源琦筆「布袋図一」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

布袋は唐時代の末に実在していた僧侶です。名を契此(かいし)といいますが、いつも布袋を背負っていたので、布袋と呼ばれました。後に禅僧たちにあがめられ、弥勒の化身とされました。民間でも信仰をあつめ、日本では七福神に入っています。この絵の画家は駒井源琦(こまい・げんき)です。円山応挙の弟子で、応挙の弟子の中でもっとも応挙の画風に忠実でした。この絵も全く応挙風です。

源琦は、延享四年(一七四七)京都の生まれ、寛政九年(一七九七)、師の応挙没後、二年の後に没している。一般に姓の源(みなもと)を音読みする。琦はその名。氏は駒井、字は子韞(しおん)、通称幸之助。とくに唐美人図を得意とし,同門山口素絢の描く和美人と併称された。また彩色に長じ,芦雪とともに応挙門の二哲と呼ばれた。応挙没後,応瑞を補佐して円山派を盛り立て,応挙画風を素直に継承した温雅な画趣を特色としている。
 さて、応門二哲の芦雪と源琦もともに布袋図を描いているが、源琦が冒頭の布袋図のように、応挙の「伝統性・理想性」に比重を置いているとすると、芦雪は応挙の「革新性・奔放性」に比重を置いているように思われる。
そして、それは、師の応挙の二面性に多く由来するもので、芦雪は、応挙の「革新性・奔放性」、そして、源琦は、応挙の「伝統性・理想性」に、より多く身を置いていたということが出来よう。

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応挙筆「布袋図二」(名古屋市立博物館蔵)

 雪舟の室町時代から布袋図は水墨画の主要な画題一つで、多くの画人が布袋図を残している。この応挙の「布袋図」は、それらの伝統を踏まえつつ、応挙ならではの革新性と奔放性とを重ね有している。そして、芦雪は、こういう応挙の革新性や奔放性を重視し、その視点を置いての多くの作品を残している。

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応挙筆「布袋図三」(個人蔵)

 この応挙の「布袋図三」は、先の「布袋図二」(「革新性・奔放性」)に比すると、応挙の作品の多くに見られる「伝統性・理想性」に比重が置かれた作品と理解できよう。そして、源琦は、終始一貫して、師の応挙の、この「伝統性・理想性」の世界により多く身を置いていたということになろう。
この源琦の、ひたすらに応挙一筋、ひたすらに、その「伝統性・理想性」一筋が、冒頭の「布袋図一」のように、師の応挙以上の、「応挙風・応挙らしさ・応挙様式」を具有して来るという、ここに源琦の世界があるように思われる。それは、応門随一といわれる源琦の「唐美人画」の世界に置いて、より顕著に窺い知れるであろう。


補記一 大乗寺(その十二 源琦筆「梅花遊禽図」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11

補記二 源琦 富士図 

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「源琦は円山応挙の弟子の中でも、最も師の画風に忠実な画家でした。この作品も、応挙が描いた「四季富士図」四幅のうちの「春」によく似ています。近景の山並みには、稚松図から出てきたような若々しい松が描かれていて、春らしい雰囲気を醸しています。筆の線はほとんど残さず、穏やかな濃淡表現でまとめていて、とても新鮮な墨画という感じがします。」
(特記事項) 応挙は、「植松文書」(沼津原宿)によると、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、上記の「四季富士図」の「春」を描いたのであろう。そして、応挙門の側近の源琦も、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、この「富士図」を描いたのであろう。しかし、これは紛れもなく、応挙の「富士山」を踏まえての、未だ、応挙が描いていない「冨士山」の景を水墨画で描いている。

補記三 応挙筆「冨士巻狩図屏風」

https://blogs.yahoo.co.jp/nagoyawalker/62134735.html


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