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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十三 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など) [洛東遺芳館]

(その十三) 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など

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北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

賛は大田南畝の狂詩と狂歌です。題には「百富士」とあって、百枚シリーズとして企画されたようですが、実際には、わずかしか作られなかったようです。吉田暎二の『浮世絵事典』には「七枚を知っている」とあります。当館も七枚所蔵しています。河村岷雪の『百富士』(明和4年)の影響を受けていますが、風景画としては、はるかに完成度が高く、特にこの作品では、鳥瞰図を得意にした政美の特徴がよく出ています。

 この「北尾政美」は、後の「鍬形蕙斎」その人である。先に、北尾政演(山東京伝)に関連して、同門(北尾重政門)・同年齢(宝暦十一年=一七六一)で紹介したが、政美は、明和元年(一七六四)の生まれで、三歳後輩のようである。
 また、酒井抱一に関連して、『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の挿絵を掲載し、その登場人物の一人は、「酒井抱一」としているものもあるが、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎」であるとしたものを紹介した(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「北尾政美」(鍬形蕙斎)も、「北尾政演」(山東京伝)に劣らず、狂歌名は「麦蕎雄魯智(麦野大蛇麿=おろち)」、戯作名は「気象天業=てんごう」など、マルチの多種・多芸・多才のスーパータレントの一人である。
 安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)が初筆とされ、巻末に「北尾重政門人三治郎十五歳画」と署名している。この「三治郎」は俗称で、父が畳職人であったことから、その俗称と併せ「畳屋の三公」が、そのあだ名である。
 その「畳屋の三公」が、寛政六年(一七九四)、三十一歳の時に、津山藩の御用絵師(大役人格、十人扶持、別に絵の具料三両支給)となり、破格の抜擢で、剃髪し、名も「鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)」を称するようになるのである。しかも、
御用絵師になった後も、主たる本拠地は江戸で、津山藩には、文化七年(一八一〇)、四十七歳当時、一年弱の赴任の程度なのである。

 大田南畝が深く関与している『増補浮世絵類考』では、「政美(鍬形蕙斎)は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又(ハ)光琳(尾形)或(イハ)芳中(中村)が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評している。
この政美(蕙斎)の「略画式」(補記一)や「鳥瞰的な一覧図」(補記二)は、同時代の葛飾北斎に、「北斎漫画」や「東海道名所一覧」「木曽名所一覧」といった形で真似されたとも伝えられ、政美(蕙斎)はこれを苦々しく思っていたらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)。

 平成十一年(一九九九)の、『ライフ』(アメリカの有力雑誌」)の企画の、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)で、日本人として唯一ランクインしている「北斎」に比すると、その北斎が生きていた、日本の「江戸時代」では、「北斎嫌いの、蕙斎好き」という評が一般的であったほどの「蕙斎(政美))」は、今や、完全に北斎の後塵を拝して、影の薄い存在に追いやられているということは、どうにも致し方のない現実の一端なのであろう。

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鍬形蕙斎(北尾政美)筆『略画式大全』(冒頭画)→(「補記三」の内『略画式大全』の内)

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レオナルド・ダ・ヴィンチ筆「ウィトルウィウス的人体図」(補記四)

 上記の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)では、日本で唯一ランクインされた「北斎」は、八十六番目だが、その五番目にランクされているのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 (イタリア)である。
そのダ・ヴィンチの、上記の「ウィトルウィウス的人体図」は、夙に知られている作品で、その「モナ・リザ」が、芸術的な傑作画(ペインティング)とすると、こちらは、科学的な医学の専門的な分野でも高く評価されている、ペインテイク(色彩画など)というよりも、理想的な人体図を意図してのドローイング(デッサン・素描など)の傑作画ということになろう。

 ここで、思い起こされて来るのは、杉田玄白の『解体新書』の表紙絵などを描いた、秋田蘭画の「小田野直武」と、その小野田直武を、杉田玄白に紹介・推薦をした、「日本のダ・ヴィンチ」との異名も有する「平賀源内」との二人である。
 この小田野直武が、この『解体新書』の作業に取り掛かったのは、安永三年(一七七四)、二十五歳、秋田の片田舎から江戸に出て来て、目を白黒している直武は、当時、四十一歳の玄白に、『ターヘル・アナトミア』を始め、全く「未聞・未見の洋書を五・六冊預けられて、一挙に世紀の大事業への直接参加を強いられる」(補記五)という、前代未聞の珍事ともいうべきことに遭遇するのである(補記五には、『解体新書』と『ターヘル・アナトミア』の表紙絵が併記して掲載されている)。
 この直武には、重要文化財に指定されている「東叡山不忍池図」(秋田県立近代美術館蔵)がある(補記六)。
 その画面前景(「芍薬の大輪」など)は、「立体を意識した陰影法・遠近法」、そして、中景から遠景(「不忍池」など)は、「遠くに淡色、近くに濃色を使った空気遠近法」が駆使され、日本画の中に西洋画の技法を応用したという、直武作品の傑作画とされている。
 この直武の「東叡山不忍池図」の前景の「芍薬の大輪」に、次の平賀源内の「西洋夫人図」を入れ替えると、これは、紛れもなく、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と鑑賞して差し支えなかろう。

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平賀源内筆「西洋婦人図」(神戸市立博物館蔵)

 その、もう一人の「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」等々と、これはまさしく前代未聞の、多種・多芸・多才のマルチ・スーパータレントの元祖のような人物として、これまた、差し支えなかろう。

 この平賀源内は、安永八年(一七七九)に、五十歳で不慮の死を遂げる。そして、その不慮の死に関係するかのように、小田野直武も、その翌年に、その三十年の生涯を閉じている。
 そして、この平賀源内が没する一年前の、安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)に、当時、十五歳の、「北尾重政門人三治郎十五歳画」の、その「三治郎」こと、鍬形蕙斎(北尾政美)がデビューして来るのである。

 こうして見て来ると、「安永三年(一七七四)のフットボール時代」(杉田玄白→平賀源内→小田野直武)は、「蕪村(五十九歳)→大雅(五十二歳)→応挙(四十二歳)」等々の「京都画壇のフットボール時代」であった。
 これらの「江戸中期のフットボール時代」の流れが、次の「抱一(一七六〇生まれ)→北斎(一七六〇生まれ)→山東京伝(一七六一生まれ)→文晁(一七六三生まれ)→蕙斎(一七六四生まれ)」等々と、「江戸後期の江戸(東京)フットボール時代」へと変遷して行くということになる。
 この変遷の背景には、老中・松平定信が断行した「寛政の改革」がある。寛政三年(一七九一)の、山東京伝作洒落本三部作(版元・蔦重)の摘発などは、酒井抱一らに対する陰に陽にの圧力となって、それらが、「江戸後期の江戸(東京)のフットボール」の大きな陰となっているのは歪めない事実のことであろう。
 しかし、この白河候は、一方で、谷文晁や鍬形蕙斎の創作活動を重視し、それを積極的に、己が目指している「寛政の改革」に関する施策の実行に当たり、取り入れ、且つ、それらを活用しているのである。
 その一つの現れが、定信の近習として仕えた文晁の「公余探勝図」、また、その定信の命を受け、古文化財を調査しての図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に繋がって来る。
 さらに、定信は、鍬形蕙斎の略画の絵手本『略画式』を高く評価し、それらに連なる技法を駆使して、蕙斎に、「近世職人尽絵詞」(東京国立博物館所蔵)(補記一)や「黒髪山縁起絵巻」(寛永寺所蔵)(補記七)などの作品を手がけさせている。その「鳥瞰的な一覧図」(補記二)なども、定信との何らかの関連があるものなのであろう。

 ここで、当時の幕藩体制の中心に位置する松平定信が、当時の、一介の画人の、谷文晁や鍬形蕙斎などを重視し、一方で、同じ画人でもある、山東京伝などに厳しい姿勢で臨んだ、その背景の一端には、その「風俗観・風俗施策」などと深く関わるものなのであろうが(補記八)、そういうことを抜きにして、ズバリ、現在の、「写真家、リポーター(現地・現場の情報収集者・報告者)」のような才能を、文晁や蕙斎に見出していたように思われる。

「いま画というものは、浮世絵なりといふは激論なり。されど唐の十八学士の図をみて、そのころの服をもしるぞかし。(中略)さればこのうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水をものちの証とはなすべし。」(『退閑雑記(巻一))』

 この「いま画というものは、浮世絵なり」というのが、当時の江戸中期から後期にかけての、 松平定信(楽翁)の名言なのだが、その「浮世絵」の中にあって、その「真の山水」の、この「真」こそ、定信が、谷文晁や鍬形蕙斎(北尾政美)に期待してものと、そんな思いを深くするのである。

補記一 近世職人尽絵巻(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13984

(抜粋)鍬形蕙斎(1764-1824)は浮世絵師北尾重政の門人だが,津山藩松平家のお抱え絵師となった異色の経歴を持つ。本図巻は白河侯松平定信の需めにより描いたもので,江戸における多種多様な職業に従事する人々を,軽妙かつ生き生きとした筆致でとらえている。

補記二 江戸一目図屏風(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86296

補記三 ARC古典籍ポータルデータベース

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?-format=results-1.htm&f7=北尾政美(画)&-max=10&enter=portal

www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Ebi0574&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal#

補記四 レオナルド・ダ・ヴィンチ 「ウィトルウィウス的人体図」

https://www.musey.net/48

補記五 秋田蘭画の不思議 ―小田野直武とその同時代世界―(芳賀徹 稿)

http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1402.pdf

補記六 絹本著色不忍池図〈小田野直武筆/〉文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921

補記六 平賀源内記念館

http://hiragagennai.com/hiragagennai/

補記七 銘石「黒髪山」 附、箱・紙本着色黒髪山縁起絵巻(鍬形蕙斎画)

www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/kurokamiyama.html

補記八 松平定信のジェンダー観 ―風俗政策の背景― (鬼頭 孝佳 稿)

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol11/07.pdf

補記九 『退閑雑記』(松平定信著)

http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547

補記十 退閑雑記. 巻之1-13 / 定信 [撰]

www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he10/he10_05194/index.html


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