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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十四 葛飾北斎筆「潮来絶句」など) [洛東遺芳館]

(その十四) 葛飾北斎筆「潮来絶句」など)

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葛飾北斎画「潮来絶句」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「潮来絶句(いたこぜっく)」は、江戸の吉原で流行っていた潮来節(いたこぶし)を、藤堂良道(とうどうよしみち)が漢詩に翻訳し、谷文晁(たにぶんちょう)の弟の東隄(とうてい)が書き、北斎(ほくさい)が絵を描いたものです。蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が出版しましたが、 発禁処分を受けていました。享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴(きょくていばきん)の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました。展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません。」

「天才浮世絵師」「画狂人」「HOKUSAI」(「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」の86位にランクインした世界的画家」=「Life Millennium;1999」)と様々な異名を持つ葛飾北斎というのは、どうにも得体の知れない画人である。
 この「北斎の生涯と画業」について、「北斎館」(補記一)では、次の七区分で概括している。

● 幼少年時代 
1760(宝暦10)~1778(明和7)
●「春朗」の年代 
1779(安永8)~1794(寛政6)
●「宗理様式」の年代 
1795(寛政7)~1804(文化1)ころ
●「葛飾北斎」の年代 
1805(文化2)~1810(文化7)ころ
●「戴斗」の年代 
1810(文化7)~1820(文政3)
●「為一」の年代 
1820(文政3)~1833(天保4)
●「卍」の年代 
1834(天保5)~1849(嘉永2)

 上記の「『春朗』の年代」がスタートとする安永八年(一七七九)に、「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内が、五十歳の若さで不慮の死を遂げる。源内は画家というよりも、静電気の「エレキテル」などの発明などの蘭学者・発明家として知られている。 
 アメリカ「Life」(1999)の「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」のトップは、アメリカの発明家の「トーマス・エジソン」である。そして、その第五位が、イタリアのルネッサンス期を代表する芸術家の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」である。
 源内の静電気の「エレキテル」とエジソンの「白熱電球」、そして、「江戸の浮世絵師(町絵師)・北斎」と「イタリア・ルネッサンス期の世紀の天才画家、レオナルド・ダ・ヴィンチ」との取り合わせは、何か因縁めいたものすら抱かせる。
 この北斎の「春朗時代」は、役者絵界の大御所であった「勝川春章」の門人の一人として、その春章の様式に倣った役者絵や美人画、黄表紙の挿絵などを、ひたすら描いていた時代であった。デビュー作は、二十歳の時の『吉原細見』の挿絵などである。
 この時代は、喜多川歌麿が、『婦女人相十品』などの「美人大首絵」で人気絶頂の時で、
北斎こと春朗は、はるかに後塵を拝していた時代である。

 寛政七年(一七九五)正月、数えで三十六歳の時から、北斎こと春朗は、「宗理」に改号する。この「宗理」という号は、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」に連なる京都の「宗達・光琳」の、その「俵屋宗達」に関係するもので、抱一とは別の琳派の「俵屋」派の「宗理」を襲名してのものなのかも知れない。
 「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」との知己中の知己の大田南畝(蜀山人)が、その原撰した『浮世絵類考』で次のように記している。

「 古俵屋宗理ノ名ヲ続
二代目
宗理 寛政十年の比北斎と改む
三代目
宗理 北斎門人
これまた狂歌摺物の画に名高し浅草に住す
すへて摺物の絵は錦絵に似ざるを尊ぶそ  」(『浮世絵類考』=補記二―「P141」以降など)

 すなわち、寛政十年(一七九八)の、三十九歳の頃、北斎こと宗理は、それまでの「勝川春章」門の「春朗」でもなく、続く「俵屋宗理(初代)」を引き継いでの「宗理(二代目)」でもなく、完全に、独立しての「北斎」(「北極星」に因んでの号)を名乗るようになる。
この「北斎」に、画姓の「葛飾」を冠して、「葛飾北斎」と名乗るのは、文化二年(一七八〇五)、四十六歳の頃からで、この翌年に、喜多川歌麿が亡くなっている。
 そして、文化七年(一八一〇)、五十一歳の時な、「葛飾北斎戴斗画」と「戴斗(たいと)」の号を用いるようになる。この号は、文政二年(一八一九)までの役九年間にわたり用いられている。
 この「戴斗の時代」の、文化十一年(一八一四)に、西欧の芸術家たちに多大な影響を与え、その北斎を象徴する作品の一つと評せられている『北斎漫画』(ホクサイ・スケッチ)の、その初編が、名古屋の版元「永楽屋東四郎(東壁堂)」から刊行され、江戸での販売は奥付に名を連ねている「角丸屋甚助」であった(後に、もう二店の版元が参加している)。
そして、この『北斎漫画』のシリーズは、弘化四年(一八四七)に及ぶ大ロングセラーとなり、その完結編の十五編は、北斎没(嘉永二年=一八四九)後の、明治十一年(一八七八)のことだったという(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)。

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葛飾北斎画『北斎漫画』初編(山口県立萩美術館)の「巻末」(補記三)

 この『北斎漫画』初編の「巻末」に出て来る「大石真虎」は、北斎の門人(名古屋の浮世絵師)で、北斎は、これらの『北斎漫画』の下絵(三百余図)を、北斎の門人「月光亭墨仙」こと「牧墨僊」(名古屋の浮世絵師)宅で描き、その一端が、上記の初編として刊行されたのであろう。
 その初編の版元の跋(永楽屋東四郎)にある通り、この『北斎漫画』は、いわゆる「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのがその本態なのであろう。

『北斎漫画』初編・二編・三編
「興に乗じ心にまかせてさまざまの図(かたち)を写す篇を続(つい)て全部に充(ミでん)こと速(すみやか)也」
同四編
「草筆に加え席上の臨本にしからしむることを要す」(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)

 「漫画」というのは、「興に乗じ心にまかせて描く画」(「初編」等)というのが、その本態とされるが、それは、「草筆に席上の臨本にしからしむることを要す」(四編)と、いわゆる、蕪村等の「草画・席画」を加味しての世界のものなのであろう。そして、この蕪村の「草画」の代表的な世界の「俳画(俳諧・俳句と合体している画)」は、その「俳諧・俳句=狂句(俳句・川柳)」の世界で、それらは、まさしく、「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのが、最も相応しいであろう。
 この「戴斗の時代」に、例えば、文政元年(文化十五年・一八一八)の「東海道名所一覧」(補記四)のような「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)を数多く手がけている。
 これらの北斎の、「北斎漫画」(ホクサイ・スケッチ)の「狂画」と「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)は、北尾政美(鍬形蕙斎)から、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)との背景となっている。

 次の「為一(いいつ)の時代」は、文政三年(一八二〇)、六十一歳の時からスタートとする。それは、還暦で振り出しに戻るという意を背景にしての「為一」の号で、この「為一期」こそ、北斎を象徴する時期ということになろう。

一 風景画 「富岳三十六景」(補記五)など
二 名所絵 「琉球八景」(補記六)など
三 古典画 「詩歌写真鏡」(補記七)など
四 花鳥画 「北斎花鳥画伝」(補記八)など
五 雑画ほか(怪談・幽霊画・玩具絵・団扇絵・その他) 「百物語」(補記九)など

 上記の分類などは、『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』を参考としているが、「浮世絵」の代名詞ともなっている「春画」については、触れられていない。上記に、「春画」の項目を追加して置きたい。

六 春画 「蛸と海女」(補記十)など

 北斎は、天保五年(一八三四)、七十五歳の時に、富士図を集大成した『富嶽百景』初編(補記十一)を刊行する。この『富嶽百景』初編の巻末に初めて、最後に用いた「画狂老人卍」の画号で「自跋」を載せている。その北斎の「自跋」は、次のようなものである。

「己(おのれ)六才より物の形状(かたち)を写(うつす)の癖(へき)ありて、半百の此(ころ)より、数々(しばしば)画図を顕(あらハ)すといへども、七十年前画(ゑが)く所は、実に取るに足るものなし。七十三歳にして、稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木(さうもく)の出生(しゅっしゃう)を悟(さと)し得たり。故に八十歳にしては、益々進み、九十歳にして、猶(なほ)其(その)奥意(あうい)を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)、百有(いう)十歳にしては、一点一格にして生(いけ)るがごとくならん、願くは長寿の君子、予(よ)が言(こと)の妄(まう)ならざるを見たまうべし。画狂老人卍述 」

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『富嶽百景』巻末(補記十一)

 これが、北斎の「画狂老人卍期」のスタートである。そして、八十歳の中頃より、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸へと複数回訪ねている(小布施には、北斎の最晩年に描いた「冨士越龍図」を蔵する「北斎館」と妖怪画で名高い「高井鴻山美術館」とがある)。
 北斎が没したのは、嘉永二年(一八四九)四月十八日、江戸・浅草聖天町、遍照院境内の仮宅で、その九十年の生涯を閉じている。
辞世の句は、「人魂(ひとだま)で行く気散じや夏野原」、そして、北斎が最晩年の絶筆に近い「冨士越龍図」(補記十二)に、天に昇って行く「龍」(北斎の「人魂」)が描かれている。

補記一 北斎の生涯と画業 (北斎館)

https://www.book-navi.com/hokusai/life/life.html

補記二 『浮世絵類考』(大田南畝著) (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068946

補記三 葛飾北斎『北斎漫画』 初編 (山口県立萩美術館)

www.hum2.pref.yamaguchi.lg.jp/sk2/book/manga1.htm

補記四 「東海道名所一覧」 (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/43

補記五 葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き

http://fugaku36.net/

補記六 浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1 №2

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/8cb4940e55988c8770b6dd85a9ec729f?fm=entry_awp_sleep

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/e70b89e9d2a8039310123c4fb1f7e119

補記七 「詩歌写真鏡」  Ritsumeikan University

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0170-211

補記八 「北斎花鳥画伝」 国立国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851635

補記九 百物語 こはだ小平二  (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/74

補記十 蛸と海女  (江戸ガイド)

https://edo-g.com/blog/2015/11/shunga.html

補記十一 『富嶽百景(初編)』  (ARC古典籍ポータルデータベース)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results1024.php?f1=BM-JIB0214&f12=1&enter=portal&max=1&skip=0&enter=portal

補記十二 「冨士越龍図」

北斎先生の生涯③~北斎、天にのぼる編~
http://hokusai-kan.com/w/北斎新聞

大英博物館 国際共同プロジェクト― 北斎 ―富士を超えて―
https://www.artlogue.org/event/joint-international-project-with-the-british-museum-hokusai2017/

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北斎筆「冨士越龍図」(「北斎館」蔵)


追記一 葛飾北斎画「潮来絶句」(洛東遺芳館蔵)について、

 冒頭の「潮来絶句」に関連して、その「作品解説」中の、「享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました」の、「享和二年版」のものは、「補記十」で、その全文(全画)が閲覧できる。
 また、この「作品解説中」の、「藤堂良道が漢詩に翻訳し、谷文晁の弟の東隄が書き、北斎が絵を描いたものです。蔦屋重三郎、 発禁処分を受けていました」に関連して、蔦屋重三郎(初代)は、寛政九年(一七九七)に四十八歳で没しており、「発禁処分を受けた」、その初版のものは、北斎の「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということになろう(ここに描かれて美人像は、まさしく、北斎こと宗理の描く抒情性を漂わせている細面のものが多い)。
 それが、「作品解説」中の、「展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません」の、発禁処分を受けた「初編」なのかどうかは、定かではない。
 なお、「享和二年版」の版元は、二代目の蔦屋重三郎で、北斎は、その「初代」と「二代目」の、両方の「蔦屋重三郎」と「版元と浮世絵師」との関係にあるのだろう。そして、その背後には、「曲亭馬琴」が居り、それらが、文化四年(一八〇七)の、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本『鎮西弓張月』の刊行開始と連動してくるように思われる。
 ここで、発禁処分を受けた「初版」のものと、曲亭馬琴が前面に出て来る「再版」との、その時代史的背景、そして、この『潮来絶句』の、「藤堂良道、谷文晁の弟・東隄、北斎、蔦屋重三郎」との、この四者の関係というのは、「北斎」からの視点ではなく、「寛政年間の谷文晁」(補記十三)、「享和、文化年間の谷文晁.」(補記十四)、そして、トータル的に、「谷文晁」(補記十四・十五・十六)などに視点を当てると、その実像が見えてくるような、
そんな感じでなくもない。

補記十三 潮来絶句 / 富士唐麻呂著・葛飾北斎画 (早稲田大学図書館蔵)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he07/he07_04653/index.html

補記十四 寛政年間の谷文晁― 福島大学附属図書館

www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005035/16-165.pdf

補記十五 享和、文化年間の谷文晁. (磯崎康彦稿)

http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005092/16-177.pdf

補記十六 ARC古典籍ポータルデータベース ― 谷文晁関係

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f7=%E8%B0%B7%E6%96%87%E6%99%81



追記二 『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』の著者逝去

訃報:永田生慈さん 66歳=浮世絵研究家、元太田記念美術館副館長
毎日新聞 · 14時間前

https://mainichi.jp/articles/20180207/ddm/041/060/206000c

永田生慈氏が死去 北斎研究の第一人者
日本経済新聞 · 22時間前

永田生慈氏死去=66歳、北斎研究の第一人者
時事通信 · 20時間前

葛飾北斎美術館の永田生慈館長が2月24日、ティエリー・ダナ駐日フランス大使により、芸術文化勲章オフィシエに叙されました。

https://jp.ambafrance.org/article9838
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