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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十六 歌川国芳「大物浦」など) [洛東遺芳館]

(その十六) 歌川国芳「大物浦」など

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歌川国芳(うたがわくによし) 大物浦(だいもつのうら)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

 嘉永(かえい)三年(1850)前後、国芳(くによし)五十代中頃の作品です。平家(へいけ)を滅ぼした後、頼朝(よりとも)に追われる身となった義経(よしつね)が、西国(さいごく)に向かう途中、大物浦(だいもつのうら)(現在は陸地となっていて、尼崎市(あまがさきし)の一地区)で平家(へいけ)の亡霊に襲われる場面です。国芳の傑作のひとつですが、版によって亡霊の姿に少し違いがあります。この版は亡霊の目が黒く、真ん中あたりの亡霊の一体が雲英(きら)で刷ってあるのが特徴です。

 喜多川歌麿が亡くなったのは、文化三年(一八〇六)のことで、北斎は、四十七歳の時である。その翌年(文化四ねん)の頃から、読本『椿説弓張月(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)』の刊行が開始される。北斎は、まさに、当時の浮世絵界の第一人者であった。
 この北斎と共に、浮世絵の花形である色摺りの錦絵版画の第一人者であったのが、歌川豊国(初代)で、その美人画・役者絵は北斎の人気を凌ぐものがあった。この豊国門には俊秀が集まった。二代豊国(豊重)、三代豊国(国貞)、国芳、等々である。
 広重も、十五歳の頃(文化八年=一八一一)、この豊国門の入門を希望したが、その弟弟子の豊広門の方に振り分けられている。この豊広が、名所絵版画の第一人者で、以降、「豊広→広重→二代広重(重宣)」と引き継がれて行く。
 冒頭の「大物浦」の作者・国芳(補記一)と広重は、共に、寛政九年(一七九七)の同年生まれで、共に、歌川派の創始者・豊春の孫弟子に当たり、ほぼ、活躍した時代は同じということになる。この国芳門から、「河鍋暁斎・月岡芳年」等が出て、この芳年門から、「水野芳方→鏑木清方→伊東深水・川瀬巴水」と引き継がれて行く。

細見.jpg
『当代全盛江戸高名細見(江戸寿那古細撰記)』嘉永六年(一八五三)
〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉 (補記二)

 寛永六年(一八五三)というと、江戸時代の末の幕末期ということになるが、当時の浮世絵界のピッグスリーというのが、上記(補記二)のとおり、「豊国(三代目豊国・国貞)→国芳→広重」の順となる。その注にそれぞれ平仮名で、「豊国(にがほ=似顔)」、「国芳(むしゃ=武者)」、そして、「広重(めいしょ=名所)」とある。
 この「豊国(にがほ=似顔)」は、広重が亡くなった折に出版された訃報錦絵である「死絵」(補記三)を描いている。
 冒頭の「大物浦」(補記一)を描いた「国芳(むしゃ=武者)」は、文政十年(一八二七)の頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』(補記四)の『水滸伝』シリーズで、一躍、人気絵師となり、「武者絵の国芳」と称せられるに至った。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。号は、「一勇斎国芳」(文政初年から万延元年)、「彩芳舎(国芳)」(文政中期)、「朝桜楼(国芳)」(天保初年から万延元年)などと変遷している。

 冒頭の「大判竪三枚続」の「大物浦平家の亡霊」(洛東遺芳館「大物浦」)は、国芳に関する様々なことを伝達して来る(補記五)。

 まず、それぞれの画面の右下に、「一勇斎国芳画」とあり、「一勇斎」の号で、嘉永年間(一~五年=一八四八~五二)の、五十歳代のものとされている。「版元」は「遠彦」(遠州屋彦兵衛)、さらに、「検印」(名主印)があるようである(ここでは、名主印=福島和十郎のようである)。

「大判竪三枚続」については、先に、「美濃紙」の「大判・大々判・細判」(初期浮世絵期)の例を引いたが、「美濃紙」ではなく、「大奉書」(「錦絵」の標準的なもの)の「大判」の、その「竪(立て=縦)三枚続(つづき)」(補記)ということである。

 さらに、右の一枚目の右上に、この「大物浦」のストリーの要点が書かれ、二枚目と三枚目との船中の人物については、それぞれ源氏の武将の名が記され、この三枚ものの背景には、「続き物」の共通としての、平家の武将の亡霊がシルエット的に描かれている。これらのことについて、「補記五」では、次のように記されている。

「西国に逃れようと船出した義経一行に、恨みを抱いた平家の亡霊が襲いかかる。飲み込もうとする大きな波に対抗するように船が進む、職人国芳のすごさは、舟に小さな白い浪を配したところである。これで舟が浪に揉まれて上下する動きが感じられる。背景は均一だがそこにシルエットの亡霊を濃淡で描き分け奥行きを出した。歌舞伎の舞台にすぐ使えるような構成である。東京国立博物館蔵」

 この解説(紹介文)に続けるとしたら、「浮世絵界の『青の時代』」の、「ペロ(ベロリン)藍」(ベルリンブルー)の、色鮮やかな、既存の「藍色」(インディゴブルー)とは異質の、一種の「色彩革命」の「新しい青」の、その「波」の現出であろう。
 この「新しい青」は、遠く、西欧のフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて、広重の「ヒロシゲブルー」とも呼ばれるものの源流であって、それは、まぎれもなく、次の、北斎の最高傑作の一つとされている、「冨嶽三十六景」の、「神奈川沖浪裏」(補記七)の、この「ホクサイブルー」と、そして、その国芳がフォローした「ホクサイの『白い浪』」の紋様にあることであろう。

北斎・ブルー .jpg
葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館) 補記七

補記一 歌川国芳 大判3枚続  (パブリックドメイン  浮世絵、 錦絵の世界)

www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/html/1440_kuniyoshi.html

補記二 浮世絵文献資料館

www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/u-yougo/yougo-ukiyoesi-banduke.html

補記三 豊国画「広重の死絵」 (江戸東京博物館象蔵)

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0183200121&sk=%89%CC%90%EC%8D%91%92%E5%28%8F%89%91%E3%29%2F%89%E6

補記四 国芳ヒーローズ~水滸伝豪傑勢揃 (太田記念美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/kuniyoshi-heroes

補記五 ―歌川国芳の傑作武者絵 奇想三枚 悪狐、亡霊、鰐鮫―

http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_6.html

補記六  浮世絵版画のサイズ

http://nobuko.biz/ukiyoe/kubun-3.html

(抜粋)

丈長奉書(たけながぼうしょ)縦72-77cm×横52.5cm
大広奉書(おおびろぼうしょ)縦58cm×横44cm
大奉書(おおぼうしょ)縦39cm×横53.5cm
中奉書(ちゅうぼうしょ)縦36cm×横50cm
小奉書(こぼうしょ)縦33cm×横47cm

大判(おおばん) 大奉書の縦2つ切り。もっとも一般的なサイズ。縦39cm×横26.5cm
中判(ちゅうばん) 大奉書の4分の一。大判の横2つ切り。縦19.5cm×横26.5cm
小判(こばん) 大奉書の8分の一。大判の4分の一。縦19.5cm×横13cm

大短冊判(おおたんざくばん) 大奉書の縦3つ切り。縦39cm×横18cm
中短冊判(ちゅうたんざくばん) 大奉書の縦4つ切り。縦39cm×横13cm
小短冊判(しょうたんざくばん) 大奉書の縦6つ切り。縦39cm×横9cm
色紙判(しきしばん) 大奉書の6分の1。他の紙より厚手。縦20.5cm×横18.5cm
長判(ながばん) 大奉書の横2つ切り。縦19.5cm×横53.5cm

掛物絵(かけものえ) 大判の縦2枚つなぎ。縦78cm×横26.5cm

柱絵((はしらえ)
1.小奉書の縦3つ切り。縦72cm-77cm×横17cm
2.大長奉書の縦4つ切り。縦72cm-77m×横13cm

細判(ほそばん)
1.小奉書の縦3つ切り。縦33cm×横15cm
2.大長奉書の縦2つ切り。縦16cm×横47cm

続絵(つづきえ)
同じ大きさの紙を並べて大画面にしたもの。大判を横に3枚並べた大判3枚続が一般的だが、5枚続や6枚続もある。又、縦に2枚、3枚と繋いだり、まれに3米続を上下に並べて6枚にする場合もあった。続絵は1枚ずつが独立した画でありながら、つなぐことによって、さらにスケールの大きな作品にまとまるよう構成されている。それぞれの画は別々に摺られ、ばら売りされていたので、現在では一枚しか見つからないことも多い。

補記七 葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list17



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