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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十一 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など) [洛東遺芳館]

(その二十一) 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など

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縦401.0×横1704.0㎝
幕末明治の戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が、明治前期に東京を代表する劇場であった新富座に贈った引幕。明治13年(1880)6月30日に、魯文の友人である暁斎が、酒を楽しみつつ4時間で書き上げたという。当時の歌舞伎界を代表する9世市川団十郎、5世尾上菊五郎 をはじめとする人気役者たちをモデルとした妖怪が、葛籠からぞろぞろと飛び出して新富座の客席へと繰り出す趣向が描かれている。個性溢れる絵師暁斎の作品としても、引幕が保存された稀有な例としても、非常に興味深い。

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

早稲田大学演劇博物館「河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (かわなべきょうさいが しんとみざようかいひきまく)」

新富座妖怪引幕
明治十三年(㈠八八〇)六月三〇日/㈠張/布墨画着色/縦401.0×横1704.0㎝/早稲田大学演劇博物館

幅十七m、高さ四mという歌舞伎舞台の引き幕である。いろは新聞の社長の仮名垣魯文が、開場二年目の新富座に贈ったもの。同年六月三十日午前十時頃、暁斎は門人一人を伴って京橋区銀座の二見写真館に現われ、まず二、三本の酒瓶を傾けたのち、おもむろに筆を執って一気呵成に描き上げたという。幕の天地は葛籠と、その蓋であり、そこから歌舞伎役者の似顔である妖怪たちが飛び出してくるという趣向。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一(上記の右から、「地(下)=「葛籠」の一部省略)

一 「いろは新聞社長 歌舞伎新報補者」の肩書で、安政二年(一八五五=暁斎・二十五歳、魯文・二十七歳)の「安政の大地震」に係わる「安政見聞誌」(戯文=魯文、鯰絵=暁斎)以来のコンビの、「仮名垣魯文」(戯作者・報道記者)に依頼されて、明治十三年(一八八〇・暁斎=五十歳)に、河鍋暁斎が「一気呵成に描いた即興の大作、桁外れの席画」である。

二 上段(天)の「葛籠の蓋」に描かれた紋様は、右から、「市川左団次→中村仲蔵あるいは坂東家橘→市川小団次」で、右上の「奴凧」と右下の「化け猫」の中央に描かれている妖怪の「怪座頭(ばけざとう)」は、「三世中村仲三」である。
 その下の大盃を被っている妖怪(「般若湯大盃の鉢かつぎ)が、「三世河原崎国太郎」で、その左上の妖怪「蝦蟇/がま」は、「初世市川団右衛門」である。その下の妖怪(「難倫坊/なりんぼう」)が、「五世市川小団次」である。

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その二(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「市川団右衛門→河原崎国太郎→中村宗十郎」である。右の鬼の妖怪(「鬼の念仏米」)は、「初世中村宗十郎」である。その左の妖怪(狐町/こまち)は、「八世岩井半四郎」である(「五世尾上菊五郎」という説もある)。
 その「狐町/こまち」の左側に、「惺々暁斎 於二見写真館 席画」と署名されている。この「二見写真館」は、下記(補記一)で見ることが出来る。

二 この暁斎の「席画」について、次のような記述がある。

【 真ん中に踊るような文字で記された「席画」という言葉は、この引幕が、二見朝隈が銀座に構えた写真館二階で、他人が見守る中で描いたことを意味している。しかも、その時、暁斎は酔っ払っていた。筆の代わりに棕櫚箒を揮った。幕の上には、歩き回った暁斎の足跡がぺたぺたと付いている。
 このすべてが、その後の画家たちには嫌われてゆく。画家はアトリエという名の密室、あるいは聖域に籠り、妖怪の代わりに生身のモデルを前にし、制作に十分な時間をかけ、しかし自らの姿を見せず、完成作のみを展覧会に出品する。観客はそれを黙って眺める。会場での会話、飲食は厳禁である。これが「美術鑑賞」と呼んで、われわれの身つけてきたいささか窮屈な態度である。
 そして、暁斎の絵の中にみなぎる力やスピード、笑いや楽しさ、パフォーマンス性や身体性を見失う結果となった。それらを美術の世界に取り戻すためには、もう一度、暁斎の絵の前に立ち、「誇張の弊」や「風調野鄙」に代わる暁斎を語る言葉を手に入れなければならない。 】『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」  

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「尾上菊五郎→中村鶴助→岩井小紫→中村鶴蔵」である。

二 右側の舌を出している妖怪(「大目玉のろくろ首」)は、「九世市川団十郎」である。その舌の先の中央の妖怪(「化け猫」)は、「五世尾上菊五郎」と言われている(八世岩井半四郎という説もある)。その後ろの小さな妖怪(老婆)は、「五世中村鶴助」で、一番左側の妖怪(「鼻美人」)が、「三世岩井小紫」である。

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その四(上記の右から、「地(下))=「葛籠」省略)

一 上段(天)の紋様は、右から「坂東家橘あるいは中村仲蔵→岩井半四郎→市川団十郎」である。

二 右側の妖怪(「天狗面の金毘羅業者」)は、初世市川左団次、中央の後ろの妖怪(「業平猿冠/なりひらさるかぶり」)は、初世坂東家橘、その手前の妖怪(「有材餓鬼/うざいがき」)は、二世中村鶴蔵である。そして、左端の蓮華の妖怪(「散蓮華の物の怪」)は、坂東喜知六とのことである。

(上記の記載は、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)」に因っている。)

恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 上記の「席画」に関しての、「誇張の弊」や「風調野鄙」については、「ことさらに筆力を示すところ、誇張の幣に陥りて、風調野鄙に流れざるを得ず」(藤岡作太郎著『近世絵画史』)から来ている。また、岡倉天心(東京美術学校長)は、「(狩野派)の最後の変革者として、狩野芳崖と橋本雅邦を高く評価する一方、河鍋暁斎については、徳川時代の狩野派が世襲ゆえに『其の技大いに退歩するに至れり』と論じたあと、『彼の河鍋暁斎氏は其の門(駿河台狩野派)より出づ』と、たったひと言で片付けているとのことである(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」)。

要は、岡倉天心流の「狩野芳崖・橋本雅邦」、そして、それらに続く、「文部省美術展覧会」(「文展」「日展」)の出品画家・出品作品等を基準として、「絵画・造形芸術一般」が、その主流となり、それらに逸脱するものは枠外として、「誇張の幣」「風調野鄙」として、排斥され続けたということであろう(((;◔ᴗ◔;)))

これらは、俳諧(連句・俳句・川柳)の世界ですると、蕉風俳諧流の「高悟帰俗」「造化随順」「不易流行」「風雅の誠」などを基準として、それらに逸脱する、談林俳諧流の「夢幻の戯言(ざれごと)」(宗因)「無心所着(むしんしょじゃく)」(「心の到る所なく」、いわば「興のおもむくままによむ」ことの意。しかし、そこには、意外にことばの味が表われる)などは、見向きもされないということと、歩を一にするのであろう(((;◔ᴗ◔;)))

ここで思い起こされるのは、談林俳諧の雄である井原西鶴が、一昼夜の間に発句(俳句)をつくる数を競う「矢数俳諧」の創始を誇り、貞享元年(一六八四)に、摂津住吉の社前で一昼夜に、二万三千五百句の独吟し、以後、「二万翁」と自称しているという事実である。まさしく、暁斎の、この「新富座妖怪引幕」は、「幅十七m、高さ四m」という、巨大な画面で創作するという、西鶴の『西鶴大矢数』の二万三千五百句に匹敵するものであろう。また、西鶴の「一昼夜」に比して、暁斎のそれは「四時間」程度で仕上げたということになると、西鶴すら唖然とすることであろう。また、西鶴にしても暁斎にしても、これらの一大事の偉業を「公衆の面前」で壮行していることも、「アトリエ」や「句会」という、いわば、狭い温室でのみで創作作業する輩は、想像を絶して、発する言葉もなかろう。それが故に、暁斎のこの種のものに、「誇張の幣」や「風調野鄙」を高言する輩は、言わば、「負け犬」の遠吠えのようなものであろう☻☻♫•*¨*•.¸

二 この暁斎の「新富座妖怪引幕」を一瞥して、やはり、暁斎の師である、浮世絵の大家・歌川国芳の「武者絵・妖怪画」、さらには、暁斎を引き立てていた三代豊国(国貞)の「役者絵」などの影響が顕著であるということを痛感する☻☻♫•*¨*•.¸


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「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」(歌川国芳)ボストン美術館蔵

この国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」の右端の上が「土蜘蛛」の妖怪で、その下で眠っているのが「源頼光」である。この「土蜘蛛」と、冒頭の「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一」の「化座頭」とが、何やら似通っている。さらに、中央の「ろくろ首」の妖怪は、ずばり、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一・その二・その三」の「大目玉のろくろ首」と繋がっている。さらに、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三」の「化け猫」は、三代豊国(国貞)の「花野嵯峨猫魔稿‐化け猫‐」などが連想されてくる☻☻♫•*¨*•.¸

ともすれば、「妖怪画の暁斎」というのが独り歩きしているが、暁斎に取って、「妖怪画」というのは、ほんの一部であって、「美人画」「風俗・故事人物」「仏界・冥界」「戯画」等々、
「狩野派と浮世絵の最終地点いる暁斎」(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収(天明屋尚稿)」)というネーミングが、より相応しいであろう☻☻♫•*¨*•.¸

もう一点、上記の国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図」は、遠く、「ボストン美術館」にもあるようである(補記三)。「ボストン美術館」と言えば、先の芳年の「猫鼠合戦」も同美術館の所蔵であった。これは、どうやら、上記に出てくる岡倉天心の右腕でもあったフェノロサ(帰国後、ボストン美術館東洋美術部長に就任している)が、何らかの関与をしていることであろう。暁斎の作品では、「風神雷神図」「地獄太夫」(補記四)などを所蔵しているようである。岡倉天心や藤岡作太郎は、暁斎を「誇張の弊」や「風調野鄙」と低い評価であったが、フェノロサの方が、日本の先達よりも、より「目利き」であったということなのであろうか。このことに関連して、暁斎が亡くなる一年前の明治二十一年(一八八八)に、天心とフェノロサが河鍋家を訪ねて、東京美術学校(現東京芸術大学)の指導者として要請したとの記述も見られる。もし、これが実現していたとしたら、日本の美術界というのは、大きく様変わりをしていたことであろう☻☻♫•*¨*•.¸

ここまで来て気が付いたことだが、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』の、その掲載「作品リスト」は、「本画」「錦画・版画・版本など」「意匠」「伝記・絵日記など」の四分類で、「本画」(肉筆画)が圧倒的に多く、今更ながらに、妖怪画などの浮世絵師というよりも、本格的な、言わば、「最後の狩野派・肉筆画絵師 河鍋暁斎」という思いを深くする☻☻♫•*¨*•.¸


補記一 河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (早稲田大学演劇博物館)

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

補記二 写真師・二見朝隈の写真館(二丁目)

https://jaa2100.org/entry/detail/037560.html

補記三  源頼光公館土蜘作妖怪図

(早稲田大学図書館)
www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

(ボストン美術館)
www.mfa.org/collections/object/the-earth-spider-generates-monsters-at-the-mansion-of-lord-minamoto-yorimitsu-minamoto-yorimitsu-raikô-kô-no-yakata-ni-tsuchigumo-yôkai-o-nasu-zu-464901

補記四 「ボストン美術館×東京藝術大学 ダブル・インパクト」展  東京藝術大学大学美術館

河鍋暁斎 「風神・雷神」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館
河鍋暁斎 「地獄太夫」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館

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