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「風神雷神図」幻想(その二) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(二)

 平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」は、「江戸(近世)から東京(近代)」への激動期の日本の絵画の動向を知る上で画期的なものであった。 
 このネーミングの「ダブル・インパクト」の「ダブル」とは、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」とを指し、その「インパクト」というのは、「相互交流」のようなことを意味してのものなのであろう。
 何故に、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」なのかというと、それは、「東京芸術大学」の創設した原動力が、「岡倉天心とアーネスト・フェノロサ」の両人であり、そして、「ボストン美術館」の初代の「東洋部長」が、「アーネスト・フェノロサ」であり、その後を引き継いだのが「岡倉天心」であると、この両人を意図してのものなのであろう。
 このボストン美術館には、「フェノロサ」の知己の、大森貝塚の発見者の「モース」、そして、岡倉天心の「日本美術院」の創設に寄与した、医師の「ビゲロー」の、この三人が、日本の美術の蒐集に当たり、それらの、「フェノロサ=ウェルド・コレクション」や「ビゲロー・コレクション」が、ボストン美術館所蔵の日本関係の美術品(約十万点)の中心になっている。
 平成十一年(一九九九)には、このボストン美術館の姉妹館として「名古屋ボストン美術館」がオープンして、ボストン美術館所蔵の優れたコレクションを恒常的に紹介するまでに、ボストン美術館と日本との結びつきは深い。
 さて、ボストン美術館所蔵の日本美術品に多く関わったフェノロサとビゲローのお二人が、共同して購入したのが、先に紹介した、「風神雷神図」(ボストン美術館)である。ここで、それらを再掲して置きたい。

風神雷神一.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)

 この「風神雷神図」が、フェノロサとビゲローとで、共同して購入したということについては、次のものに因っている。

【ボストン美術館】
 キュレーターの協力を得て収蔵室の戸棚を探したところ、フェノロサ旧蔵品から絹本彩色の風神図、ビゲロウ・コレクションから同じく雷神図が見つかった。本来双幅だったものを二人で購入したことが分かり、以来一緒に展示されるようになった。同館には他にビゲロウ寄贈の「猿」「鴉」「布袋」「花魁」の図がある。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「回想 暁斎作品海外探索記(山口静一稿)」

 ここで、暁斎の、明治十四年(一八八一)から明治十九年(一八八六)までの動向を追うと、次のとおりである。

【☆ 明治十四年(1881)
 ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)
 ◇絵本(明治十四年刊)
   河鍋暁斎画
   『暁斎漫画』初編一冊 画工河鍋洞郁 牧野吉兵衛板〔漆山年表〕
   『暁斎画譜』二帖   河鍋洞郁図  武田伝兵衛板〔漆山年表〕
 ◯ 第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)
  (『内国勧業博覧会美術出品目録』より)
   河鍋暁斎
    河鍋洞郁 本郷区湯島四丁目
     掛物地(三)絹 国姓爺南洋島城中放火ノ図 彩色画
     掛物地(一)絹 妲巳蠆盆刑ヲ看ル図    彩色画
     掛物地(二)絹 蛇雉子ヲ巻ク図      彩色画
    河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画
 
☆ 明治十五年(1880)
  ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)
  ◇絵本(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『暁斎酔画』三冊 河鍋洞郁画〔漆山年表〕
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『民権膝栗毛』初編二冊 暁斎画 蛮触舎蘇山著 二書房
 ◯ 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)
  (『近代日本アート・カタログ・コレクション』「内国絵画共進会」第一巻 ゆまに書房 2001年5月刊)
  ◯第二区 狩野派
   河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神
 
☆ 明治十六年(1883)
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『滑稽笑抱会議』三巻 暁斎画 井上久太郎著 北村孝二郎
 
☆ 明治十九年(1886)
 ◯『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編・絵画堂刊・七月刊)
  (東洋絵画共進会 明治十九年四月開催・於上野公園))
「河鍋暁斎は開場後参観の序、諸子の請に応じ即座に筆を染め、咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなしと云ふも過賞にあらざるべし。」】浮世絵文献資料館

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/kobetuesi/kyosai.html

 この暁斎の動向記事から、興味深いことを記して置きたい。

一 明治十四年(1881)「第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)」に「河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画」を出品する。

 これが、次の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」で、その作品解説は次のとおりである。

「明治十四年(1881)の第二回内国勧業博覧会に出品され、最高賞である妙技二等賞牌を受賞した作品。暁斎はこの作品に百円という破格な値段を付けた。あまりの法外な値段に非難されると、『これは烏の値段ではなく長年の苦学の価値の値である』と答えたという。それを江戸時代から続く菓子の老舗榮太樓二代目細田安兵衛が買い取ったため大きな話題となった。この烏の図がもとになって制作依頼が増えたため、暁斎は多くの烏の絵を描き、烏に『萬国飛』とある印章も誂えている。」
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木江里子稿)

寒鴉図.jpg

「枯木寒鴉図」一幅 絹本墨画 明治十四年(一八八一)個人蔵
一四八・二×四八・二cm

二  明治十五年(1880) 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)に、「河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神」を出品する。

 この「内国絵画共進会」に出品した「風神・雷神」が、何やら、上記に再掲した、ボストン美術館蔵の「風神雷神図」と、一脈通じあっているような印象を受けるのである。

三 明治十九年(1886)『東洋絵画共進会論評』の暁斎評は、当時の暁斎の風姿をよく伝えている。

「咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなし」の、「雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く」にも注目したい。

 ここで、この「風神雷神図」に接しての連想や連想を飛躍しての幻想に近い感想などを記して置きたい。

一 この「風神雷神図」は、絹本着色というよりも、絹本墨画淡彩という、やはり水墨画の世界のものであろう。「風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもの」というのも、そもそも、探幽本は、「六曲一双・屏風」(各一一四・〇×三四九・八cm)の大画面で、その大画面における雷神も風神も、比重的には小さく、それに比して、空間の「雲・風」などの、広大無限の宇宙を表現するような、いわゆる、探幽様式の「余白の美」を前面に出しているもので、探幽本の「風神=青、雷神=赤」と、この暁斎の「風神=青(群青と緑青系)、雷神=赤(岱赭と金茶系)」とは、異質のものという印象を受ける。

探幽・雷神図.jpg

「雷神図屏風(右)」(一一四・〇×三四九・八cm)

探幽・風神図.jpg

「風神図屏風(左)」(一一四・〇×三四九・八cm)

「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

二 暁斎の「風神雷神図」の、その「雲・風」などの空間の、墨の濃淡による処理は、やはり、狩野探幽の「筆墨飄逸」「豊穣な余白」「端麗瀟洒」などの雰囲気なのであろう。そして、この暁斎の「風神雷神図」の見どころは、左の「雷神」の赤を受けて、右の「風神」の足元の下方に描かれている「風に吹かれて舞い上がる紅葉(もみじ)の葉」、そして、それに対応しての、左の「雷神」の稲光の、見事な相互の交響にある。

三 そして、右の「風神」の「青」を受けて、左の「雷神」の風に舞う衣の「青」、そして、右の「風神」の大きな白の「風袋」に対応するかのように、左の「雷神」の小鼓の吹きかけたような金泥などの対比、その見事な相互の交響には、上記、明治十九年(1886)の『東洋絵画共進会論評』の「筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明」という感を大にする。

四 ここで、先の虎屋本・「風神雷神図」(その一)の「老樹の柳の葉」に比すると、このボストン美術館本の「風神雷神図」での風に舞う「紅葉(もみじ)の葉」がクローズアップされて来る。ここに着目すると、『風俗鳥獣画譜』の「木嵐の霊」が思い起こされてくる。

木嵐の霊.jpg

「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』十四図中の一帖)絹本著色 明治二・三年(一八六九、七〇)
個人蔵

五 暁斎の『風俗鳥獣画譜』は、「阿国歌舞伎の念仏踊」「三夕(さんせき)」「雷神」「前田犬千代」「鷹」「猫」「お多福」「敗荷白鷺」「髑髏と蜥蜴」などの十四帖からなる画帖である。この「三夕」が、どういうものかは未見であるが、「見立て三夕」(鈴木春信作)などが、連想されてくる。

新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)

新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)

新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)

 この「三夕の歌」は『新古今和歌集』の「秋上」に3首連続(361、362、363)で並んでいる。

春信 三夕.jpg

鈴木春信「見立三夕 定家 寂蓮 西行」大判(細判三丁掛)紅摺絵 宝暦(1751-64)末期 
ボストン美術館蔵

六 この「見立絵(みたてえ)」というのは、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」ですると、「三人の美女の、それぞれの、その背後の景を見て、それぞれの『三夕の歌』言い当てる」、そのようなことを内容としている絵ということになろう。

七 ここで、より正確に、「浮世絵と見立絵」についての記述は、次のとおりである。

【浮世絵とは、江戸時代の町人の日常生活を描いた絵のことです。「浮世」という語は、昔の仏教用語の一つで、「はかない世」、「苦界」、「無常の世」という意味でした。十七世紀末、「浮世」という語は、喜びと楽しみに満ちたこの世、現世のことを意味するようになりました。日本の版画、浮世絵は、十八世紀末に開花しました。浮世絵の主人公は、遊女、役者、相撲取り、戯曲の登場人物、歴史上の英雄、つまり第三身分の代表者たちでした。そして各々に、次のようなそれぞれのジャンルが生まれました。すなわち、「遊郭」の美女の像、役者の肖像や歌舞伎の舞台の場面、神話や文学が主題の絵、歴史上の英雄の絵、有名な侍たちが戦う合戦の場面、風景画、そして花鳥画などです。
「見立絵」は「たとえ」または「パロディ」と日本語から外国語に訳されることがしばしばです。その芸術的手法をより正確に述べるなら、文学や宗教上の、または歴史上の人物を現代の服装で描いたり、或いはその反対に、今の出来事を昔に移しかえたり、過去の時代設定で描いたりすることです。しばしば、そのような場面は娯楽に興じる美人たちの姿や、子供や動物が戯れる姿で描かれました。この手法の裏には、同時代または近い過去にあった政治的事件を描くのを権力が差し止めるのを避けるという目的がありました。そのまた一方で、絵の発注者や絵師にユーモアの要素を含んだ知的な遊びを作りたい、または版画の内容をぼかして、観る人が隠された内容や、古の詩人が詠んだ古典的な詩を暗号化したものを言い当てる、謎遊びや判じ物を作りたいという止みがたい気持ちもありました。見立絵の版画の題名には、「風流」とか、現代を意味する「今様(いまよう)」という語がしばしば含まれています。見立絵にかけては、鈴木晴信と喜多川歌麿の右に出る者はいません。】

www.japaneseprints.ru/reference/themes/mitate_e.php?lang=ja

プーシキン国立美術館の日本美術

八 さて、また、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に戻って、この鈴木春信のものは、またしても、「ボストン美術館」蔵のものなのである。それだけでなく、この作品を含む「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」が、「千葉市美術館」(2017年9月6日(水)~ 10月23日(月)「名古屋ボストン美術館」(2017年11月3日(金2)~2018年1月21日(日)で、日本で公開されていたのである。そして、これは、「あべのハルカス美術館」(2018年4月24日(火)− 6月24日(日))、「福岡市博物館」(2018年7月7日(土)− 8月26日(日)と続くようである。

http://harunobu.exhn.jp/

九 ここで、冒頭のボストン蔵の、暁斎の「風神雷神図」に戻って、何やら、連想の連想の、幻想に近い、春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に行き着いたのだが、この「風神雷神図」も、この「風神図」の足元の風に舞う「紅葉の葉」を添えると、これも一種の「見立絵」のように思われて来る。

十 その暁斎の「風神雷神図」を「見立絵」と解して、そのヒントとして、その暁斎の、その「風俗鳥獣戯画」の、その「木嵐の霊」の、その風に舞う「紅葉の葉」を見て来た。その「風俗鳥獣戯画」の、その一枚に、夙に知られている、「髑髏(しゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」がある。

十一 これまでの連想(幻想)を辿ると、暁斎の「風神雷神図」の「風神の足元の風に舞う紅葉の葉」→この「風神雷神図」」は、暁斎が前に描いた『風俗鳥獣戯画』の、その一枚の「木嵐の霊」の、その「紅葉の葉」と同じ。→ その「紅葉の葉」は、「見立絵」の「三夕」と連なり、そこに、「三夕」のドラマが始まる。そして、そのドラマは、次の、「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」に行き着くのである。

髑髏と蜥蜴.jpg

「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』全十四図のうちの一帖) 個人蔵
 一九・一×一四・六cm

十二 この「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」は何を意味するのか?
その答は、冒頭の暁斎の「風神雷神図」、そして、「見立絵」に関連して紹介した春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」が、共に、ボストン美術館所蔵のものに鑑み、同美術館所蔵のもので、その答の方向を探って行きたい。

十三 またまた、冒頭の、平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」に戻って、そこに、暁斎の「地獄大夫」が公開されていたのであった。
 これは、何と、ボストン美術館が、平成ニ十二年(二〇一〇)に購入したもので、ここにも、ボストン美術館所蔵の「風神雷神図」と何か呼応しているような印象を受けるのである。

十四 暁斎の「地獄大夫(と一休)」は、いろいろに趣向を変えて、何種類のものかを目にすることが出来る。

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/

 この「『地獄大夫』あれこれ」の中でも、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」とは、背景の一部が異なるだけで、全く、同一作品と見まちがうほどである。

十五、この種のものは、「肉筆浮世絵」の範疇に入るものだが、一枚の原画から多数の複製画を生み出す木版画(浮世絵)と違って、一人の画家が絵筆をとって描く、原則一点限りの作画である。しかし、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」のように、同一作品のようなものが誕生するのは、肉筆画の浮世絵師の工房には、通常、数人の徒弟がいて、師の与える手本を忠実に従って作画する方式がとられているからに他ならない。
 しかし、暁斎は、他の浮世絵師とは違って、席画を得意とする、何から何まで独りでやらないと気が済まない画人で、当時の通常の方式を以て判断するのは危険な点はあるが、この「地獄大夫」に関しては、要望の多い作品で、そのような方式も一部取り入れられているような印象を受けるのである。

十六 とした上で、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れを「見立絵」として、暁斎は、これらに、如何なる「謎」を潜ませているかという問い掛けに対して、その答の一つとして「地獄大夫」を提示しても、それは、「謎」に対して「謎」を以て答えている感じで、今一つ、何かすっきりしない感じで無くもない。

十七 ここで、「地獄大夫」の、次の辞世の歌を補充して置きたい。

「我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 飢えたる犬の 腹をこやせよ」(『諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 西日本編』人文社編集部)

これは、小野小町の辞世の歌ともいわれているが、両者とも絶世の美女での、そこから来る伝承的なものと解すべきなのであろう。
 その上で、この辞世の歌をして、暁斎の「髑髏と蜥蜴」を鑑賞すると、「この髑髏は、野に捨てて、野犬が貪った後の、地獄大夫(小町)の髑髏である。その髑髏の眼の穴窪から、妖しい色をぎらつかせて、今まさに蜥蜴が這い出て来る。これは、地獄大夫(小町)の再生の化身なのであろう。
 こんなところが、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の、一つの標準的な解として置きたい。

十九 ここで、これまで、名古屋ボストン美術館が開催した、日本美術関係の展覧会をフォローしていて、次のとおり(第62回 ボストン美術館最終展)、今年度で、名古屋ボストン美術館は、閉館してしまうのである。

第2回 岡倉天心とボストン美術館 (1999年10月23日~2000年3月26日)
第3回 平治物語絵巻 (2000年4月11日~5月7日) 
第20回 肉筆浮世絵展ー江戸の誘惑 (2006年6月17日~8月27日)
第29回 日米修好通商条約150周年記念ーペリーとハリス~泰平の眠りを覚ました男たち (2008年10月18日~12月21日)
第37回 ボストン美術館浮世絵名品展ー錦絵の黄金時代~清長 歌麿 写楽 (2010年10月9日~2011年1月30日)
第43回 日本美術の至宝(前期) (2012年6月23日~9月17日)
第44回 日本美術の至宝(後期) (2012年9月29日~12月9日)
第49回 ボストン美術館浮世絵名品展 北斎 (2013年12月21日~2014年3月23日)
第52回 華麗なるジャポニスム-印象派を魅了した日本の美 (2015年1月2日~5月10日)
第53回 ダブル・インパクトー明治ニッポンの美 (2015年6月6日~8月30日)
第56回 俺たちの国芳 わたしの国貞 (2016年9月10日~12月11日)
第60回 ボストン美術館浮世絵名品展鈴木春信 (2017年11月3日~2018年1月21日)
第61回 ボストン美術館の至宝展ー東西名品、珠玉のコレクション (2018年2月18日~7月1日)
第62回 ボストン美術館最終展ーハピネス~明日の幸せを求めて~ (2018年7月24日~10月8日)

二十 その「名古屋ボストン美術館開館十周年記念」は、「30回 ゴーギャン展 (2009年4月18日~6月21日)」で、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が、日本初公開となった。

http://www.nagoya-boston.or.jp/gauguin/guide.html

 その紹介記事に、次のようなことが記されていた。

【横長の画面の上には、人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開する。画面右下には眠る幼児と三人の女性(上図A参照)。その左上に「それぞれの思索を語り合う」紫色の着物の二人の女性と、それを「驚いた様子で眺めている」不自然なほどに大きく描かれた後姿の人物(B参照)。中央には果物をつみ取る人がいて、その左には猫と子供と山羊、背後にはポリネシアの月の神ヒナの偶像が立ち、「彼岸を指し示しているように見える」(C参照)。その前にしゃがむ女性は顔を右に向けながらも視線は逆向きで、「偶像の言葉に耳を貸しているよう」であり、その左には「死に近い一人の老婆が、全てを受け容れ」、「物語を完結させている」。老婆の足もとにいる、トカゲをつかんだ白い鳥は「言葉の不毛さを表している」(D参照)。】
 このゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の左端に、「トカゲをつかんだ白い鳥」が居て、それは、『言葉の不毛さを表している』」いうのは、やはり、暁斎の「髑髏と蜥蜴」にも等しくあてはまることであろう。
 として、この暁斎の「髑髏と蜥蜴」の、上部の「月とその下の遠景」に、このゴーギャンの、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を、ゴーギャンの母国語の「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」を加味したら、まさに、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の最後に相応しい思いが去来しているのである。
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