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「風神雷神図」幻想(その五) [風神雷神]

暁斎の「貧乏神図」と北斎の「風神図」

 河鍋暁斎をして、「”デラシネ”の哀しみを生き抜いた画家」((『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』所収「はじめに(狩野博幸稿)」)と喝破したものに出会った。その「”デラシネ”」とは「故郷喪失者」(フランス語=déraciné)とのことであった。
 この「”デラシネ”」は、そもそもは「根無し草」の意で、「故郷喪失者」は、その派生語ということになろう。そして、暁斎は、この派生語の「故郷喪失者」よりも、その本来の意味の「根無し草」の方が、より適切なような印象を受けるのである。
 その「根無し草」に関連して、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」との、その二刀流での「根無し草」との観点で、大雑把に鑑賞されるのが定石なのだが、この大雑把の見方に、「画狂人・葛飾北斎の継承者」という一刀流を加え、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」と「画狂人・葛飾北斎の継承者」との、「”デラシネ”」の三刀流の使い手という視点で、その「暁斎の世界」を見て行きたいのである。

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暁斎「貧乏神図」一幅 紙本着色 明治十九年(一八八六) 福富太郎コレクション資料室蔵 一〇二・五×二九・七cm 
【暁斎の作品のなかで唯一点選べと言われたら、苦しみながらもこの絵を挙げるだろう。かかる絵を描く画家も画家なら、描かせる注文主も相当な人物なのではなかろうか。貧乏神のアイコンの渋団扇を背中に背負い、墨とわずかばかりの胡粉のみで描かれた貧乏神のすがたは、掛軸を下ろしてゆくときでさえ、その貧乏が汚染(うつ)るような気がするほどだ。だが、想起しよう。蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない。 】
 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 

 この「作品解説」の「蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない」に。狩野探幽を加えて、逆説的に、「暁斎は、『探幽、蕭白、北斎、国芳』から『”デラシネ”』(根無し草)のように、多くのものを摂取した」と換言することも出来よう。
 この「貧乏神図」ですると、探幽から「筆力の冴え」を、蕭白から「破天荒な表現力」を、芦雪から「斬新な構図と機知力」を、北斎から「飽くなき追及力」を、国芳から「職人芸な巧みと諷刺力」を、この一図の中に、それこそ「”デラシネ”」(根無し草)のように、縦横無尽に取り入れているということになる。
 もっと、焦点を絞って具体的に指摘すると、この「貧乏神図」は、芦雪の「山姥」の世界を基調としている(その背中の「渋団扇」などは、「山姥」の背中の「破れ笠」そのものという感じである)。また、この衣などは、蕭白の「蝦蟇・鉄拐仙人図」などのアレンジの雰囲気で無くもない。そして、この人物のあばら骨などは、国芳の骸骨の「解剖図」を見る如しである。さらに、この人物の描線の正確無比さは、探幽の、その「探幽縮図」などが思い起こされて来る。そして、何よりも、この人物の表情などは、北斎の、十五編にわたる『北斎漫画』などの人物像を、自家薬籠中の物としている証左という印象を深くするのである。

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芦雪筆「山姥図」絹本着色 一五七・〇×八四cm 広島・厳島神社

 この芦雪の「山姥」と「金太郎」、そして、暁斎の「貧乏神」とを、根源一体化したような日本画に、未だにお目にかかったことはない。ただ一つ、ピカソの「青の時代」の「海辺の母子像」に、その余韻を感じるのは、これは「連想」というよりも、「幻想」ということなのかも知れない。


【パブロ・ピカソ 《海辺の母子像》 1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。
この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。】

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ピカソ「海辺の母子像」1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

www.polamuseum.or.jp/collection/highlights3/

 さて、冒頭の「貧乏神」に戻って、この「貧乏神」は、談林俳諧の大宗匠で浮世草子の元祖でもある井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するようである(巻六「祈る印の神の折敷」)。
北斎の『北斎漫画』には、この西鶴は出て来ないが、西鶴と同時代の、談林俳諧ならず蕉風俳諧の創始者「芭蕉之像」が出て来る。
 それは『北斎漫画七編』で、この序文は、戯作者の式亭三馬で、北斎より十六歳年下の三馬は、『浮世風呂』や『浮世床』などの滑稽本で、当時の有名作家の一人である。この三馬などは、元禄時代の西鶴の流れを汲む作家ということになろう。
 元禄時代の西鶴と芭蕉とは、まるで正反対のお二人で、三馬が西鶴派とすれば、北斎も暁斎も、「侘び・寂び・幽玄閑寂・風雅の誠」等々の、芭蕉派ではなく、「新奇・奇抜・奇計・
諷刺・駄洒落・夢幻の戯言」等々の、西鶴派ということになろう。
 何故に、『北斎漫画七編』に「芭蕉之像」かというと、この七編は、「国々名所の地風雨霜雪のけいしよくをうつす」ということで、「国々を放浪している漂泊・乞食の詩人・芭蕉」に対する、一種のパロディ(揶揄・諷刺)なのであろう。

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『北斎漫画七編』の「扉絵」(「芭蕉之像」)

 この「芭蕉之像」の、「竹の杖」は、何処となく「貧乏神図」の、その貧乏神が持っている杖と一脈通じ合っている印象と、それよりも、その貧乏神の、細長い顔が、この芭蕉の細長い顔の「パロディ」(逆説的な見立て=宗匠頭巾を取って、無精ひげを生やし、目を藪睨みにする)という印象すら抱くのである。

 実は、『北斎漫画三編』に、北斎の「風神雷神図」があり、この「風神図」が、どうにも、暁斎の「貧乏神図」の「貧乏神」に、これまた、何処となく、相通じているような印象を抱くのである。
 
 ここで、これらの一連の暁斎と北斎とを辿って行くと、次のような「ドラマ」(幻想)をフォローしていたということになる。

一 芭蕉は、『北斎漫画七編』で、しばし、「老樹の松」の下で、旅の疲れを癒している。

二 そこで、夢を見たのは、『北斎漫画三編』の、「貧乏神」さながらの「風神」の風体をして、宇宙の果て放浪している、「彷徨える一匹の鬼」の姿影であった。

三 そして、夢から覚めると、そこには、暁斎の描く「貧乏神図」の、その「貧乏神」さながらに、「狭い土俵で、そこから一歩も踏み出せない、己の自画像」の、それであった。

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『北斎漫画三編』の「風神雷神図」中の「風神図(一部・拡大)」
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