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「風神雷神図」幻想(その九) [風神雷神]

(その九)暁斎「風神雷神図」(「惺々狂斎戯画帖」)

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暁斎「風神雷神図」(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「惺々狂斎戯画帖」)

 「惺々狂斎戯画帖(全四十八図)』は、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」ということで、日本には存在しないようである(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』)。その中の一図に、上記の「風神雷神図」がある。
「風神」は、いかにも、狩野派の暁斎のそれという風姿なのだが、「雷神」は「行水」をしていると。何ともユーモア溢れる図柄で、これも暁斎の一面なのであろう。
 どのようなルートで、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」になったのかは定かではないが、次のような示唆に富んだ記述がある。

【 暁斎は生存中から外国の美術愛好家に注目されていた。パリにギメ美術館を作ることになるエミール・ギメが、友人の画家フェリックス・レガメーを伴って暁斎を訪問したのは明治九年九月である。お雇い外国人医師ウィリアム・アンダソンは暁斎に大量の作品を注文した。やはり建築家のジョサイア・コンダ―は、みずから暁斎に弟子入りし、暁英を名のった。暁斎に注目していた外国人は他にも沢山いた。イタリアの銅版画家エドアルド・キオソーネ、アメリカ人生物学者エドワード・モース、そして暁斎の死を看取ったドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ。
彼らが大量の作品を持ち去った結果、暁斎は正当な評価を受けぬまま、近世美術史と近代美術史のはざまに置き去りにされて来たことは事実である。しかしロンドンの大英博物館、ヴィクトリア・アルバート美術館、パリのギメ美術館、シュツットガルト・リンデン美術館のベルツ・コレクション、ライデンの国立民族博物館、アメリカのメトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア・ギャラリー等、世界各地の美術館に一千点を越す暁斎の本画、下絵、版画、版本が収蔵されて来たために、大震災も第二次大戦の空襲を免れることができ、今日なおその全貌を知ることが可能なのである。
文明開化や絵画の近代化というフィルターを通さずに、幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である。そして、そういう絵画こそ、絵画本来の姿ではなかっただろうか。】
(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「(解説)叛骨の絵師河鍋暁斎とその戯画(及川茂・山口静一稿)」)

 この末尾の指摘の、「幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である」、その暁斎は、今に、「過去一〇〇〇年で最も偉大業績を残した世界の一〇〇人」(アメリカの「Life」誌・1999年)の内の、その「八十六位」を占めた、唯一人の日本人・葛飾北斎(画狂人・北斎)の、その「狂と斎」とを画号とした「狂斎=暁斎」ということに相成る。

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(大津絵「鬼の行水」)

 北斎には、風神雷神図」も、例えば、上記の、大津絵の「鬼の行水」などをモチーフしたものは余り目にしない。それに比して、北斎の次の時代の暁斎には、この大津絵などの、いわゆる、民芸的な「民衆的エネルギー」を取り入れた、ポピュラー的なものを題材したものを、多く目にするという、「北斎と暁斎」との分岐点を目の当たりにする。
 すなわち、その分岐点というのは、「江戸から明治(東京)」への、その分岐点という思いを深くする。それは、同時に、「江戸(末期)」時代の「北斎」と、「江戸(末期)から東京(開明)」時代の「暁斎」との変遷ということになろう。
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