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江戸の「金」と「銀」の空間(その六) [金と銀の空間]

(その六) 呉春の「銀(浅黄地絹本)」(白梅図屏風)と蕪村・応挙の影

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 呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (右隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵

白梅図二.jpg

呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (左隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵
【 梅林で梅の木をよく眺めた上で、この屏風を見ると、よくもこれだけに描いたものと驚くほかはない。青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする。 】
(『呉春 財団法人逸翁美術館』)

 俳人・夜半亭二世蕪村(夜半亭一世=夜半亭宋阿=早野巴人)の後継者は、高井几董(夜半亭三世)で、画人・与謝蕪村の後継者は、上記の「白梅図屏風」の作者、呉春(松村月渓)その人ということになろう。

 「蕪村と呉春そして応挙」については、下記のアドレスなどで、陰に陽に触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 ここでは、それらの三者関係については、末尾に、上記のアドレスものの「抜粋」などを記述することにして、それらを省略し、上記の「白梅図屏風」関連に絞って、これらの三者の関係について、以下、記述して行くこととする。

 この呉春「白梅図屏風」が、前回の蕪村筆「白梅紅梅図」(四曲一隻屏風=襖四枚改装)を念頭に置いたということは、画人・蕪村の後継者としての所業として、一点の疑問を挟む余地もなかろう。
 ここに付け加えることとしたら、蕪村が絶命するときの、その臨終の三句のうちの一句「白梅の吟」を書き留めたのは、まさしく、呉春その人なのである。

 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり  (蕪村の絶吟)

 とすると、これは、上記の「白梅図屏風」の解説の、「青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする」の、「薄暮の白梅」ではなく、「夜明けの白梅」と解すべきであろう。

 さらに、この「白梅図屏風」は、銀箔などの「銀地」ではなく、「青い布地」(浅葱色の粗い紬裂(つむぎぎれ)を貼り合わせたもの)に描かれており、これも「薄暮の白梅」や「月下の白梅」ではなく、薄っすらと浅葱色に変化して行く「夜明けの白梅」をイメージしてのものと思われる。
 その上で、この呉春の「白梅図屏風」は、蕪村の「金」(ゴールド)を背景とした傑作「紅白梅図屏風」(四曲一隻)に対して、それを「銀」(シルバー)に近い「浅葱色」をもって反転させ、蕪村に捧げたオマージュ(追慕)的作品と解したい。

 ここで、この呉春の「白梅図屏風」は、呉春の、もう一人の師である円山応挙の傑作「雪松図屏風」を念頭においての作品であるとする説を紹介して置きたい。

【 この画面構成(注・呉春の「白梅図屏風」)は明らかに応挙の「雪松図屏風」に倣っている。すなわち左右端中程下方から中央に斜めに土坡(どは)を配し、その向かって右隻に画面いっぱいに大木の白梅を一本写し、左隻には同じく画面いっぱいにやや小ぶりの二本の白梅を描いている。そして、その背景には紬地の浅葱色である。この画面構成の原本になった応挙の「雪松図屏風」は、その右隻の画面いっぱいに一本の雪松を配し、左隻には二本の雪松を描写し、さらにその背景には金泥や金砂子を活用した金色の濃淡の輝としている。両者は土坡の構成にいたるまでその画面構成が近似しているのである。 】(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿))

雪松図屏風.jpg

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

 それよりも、応挙には、「老梅図襖」(東京国立博物館蔵)、「松竹梅図障壁画(東本願寺・桜下亭)・「白梅図襖(梅之間・北面)」そして「雪梅図襖・壁貼付」(草堂寺蔵)などの「梅図」関連の傑作障壁画が目白押しなのである。

雪梅図襖.jpg

応挙筆「雪梅図襖・壁貼付(部分画)」(草堂寺蔵) 

 上記は、下記のアドレスの、「芦雪指頭画」で触れた、草堂寺(南紀白浜・富田)の応挙の障壁画であるが、これなども、年代的に、呉春は、いわゆる、円山応挙工房で、これらの制作過程などを実見する機会は多々あったことであろう。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-17

 こうしたことからすると、「この『白梅図屏風』を蕪村の方から見ると、蕪村との決別を表象する作品と考えられ、応挙の側から見ると応挙画風への変容宣言ともとれるのである」
(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿)ということも、やはり、肯定的に解すべきものなのかも知れない。

(抜粋)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。
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