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江戸の「金」と「銀」の空間(その九) [金と銀の空間]

(その九)宗達と光琳の「金と銀」(「松島図屏風」)

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

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尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)

 上記の「作品解説」のとおり、光琳の「松島図屏風」は何点かある。その代表的なものが、上記のボストン美術館蔵(六曲一隻・B図)もので、宗達作品の右隻(A-1図)を基としている。
その他に、大英博物館蔵(二曲一隻・C図)のものが知られているが、それは、宗達作品の右隻(A-1図)の一扇、上記の光琳作品(B図)の一・二扇に基づいている。
 現在では、これらの宗達作品(A-1図・A-2図)も光琳作品(B図・C図)も、「松島図屏風」の名で知られているが、これらは、日本三景の松島を描いた作品ではなく、かつては「荒磯屏風」と呼ばれていて、宗達作品は、堺の豪商・谷正安が作成を依頼し、堺の祥雲寺に寄贈されたもののようである(上記「特記事項」など)。
 そして、この「荒磯屏風」から「松島図屏風」の、このネーミングの改変には、どうやら、尾形光琳の後継者を自負して、その百回忌をも主催した「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」が絡んでいねようなのである。
 ここで、決定的なことは、「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」は、その元祖を「尾形光琳」に置き、その光琳が目標として「俵屋宗達」は、さほどの重きを置かなかったということに他ならない。
 抱一にとって、宗達が描いたとされる西国の堺周辺の「荒磯屏風」は、それを模した光琳の「荒磯屏風」を通して、「海(波)に浮かぶ『松・島(屏風)図』」として、西行・芭蕉に通ずる『東国』の『奥の細道』を象徴する『松島』」などは、思いも浮かばなかったのであろう。

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尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。

 この解説文の、「白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている」に注目したい。この「白い波濤」は、「金(ゴールド)」に比する「銀(シルバー)」の世界だったのである。
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