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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その一) [光琳・乾山・蕪村]

その一 光琳書状(「光琳」の基本的姿勢)

書状一.jpg

(尾形光琳書状) 宝永五年八月四日付 上嶋源丞宛書状 大和文華館蔵

※ 上記書状の下段の「読みと意味の要約」は次のとおり。(参考文献『別冊太陽 尾形光琳』など)

有増ノ貌手足ノ
しるし斗して其余ハ
中にてぐわさ(ぐわさ)と
御書ならひ可被成候
雪舟之絵毎日
五七幅つヽ見申候 随分
写申候 とかくねぶり付
たる様ニ書申候ハ絵ニて
なく候 とかく我か物ニ
成やうニ御心へ何とそ(何とそ)
上手に御成可被成候
(以下略)

(要約) 顔とか手足は細かく描かず、「がさがさ」と大胆に描くようにしなさい。雪舟の絵を、毎日五・七幅を写しているとは、相当なものですが、「粘っこく」描くと、絵にはなりません。感ずるままに自分の心を満たすことを第一に、何とぞ頑張ってください。

 この文面の前に、次のような文面がある。

とかく常ノ消息を
相認候心ニ絵も書
候ハねば絵よくハ無之候
焼筆などもあまり
とくとあてぬがよく候

(要約) 日常の手紙を書くような心で絵も描かなければ絵はよくなりません。(下書きに用いる)焼筆などもあまりじっくりあてない方がいいのです。

(メモ) 

一 宝永五年(一七〇八、光琳・五十一歳)、光琳は江戸に居た。この前年に、「酒井家より十人扶持を受け、一時帰京したが、妻(多代)を伴って再下向している(この年に、富士山の噴火があった)。

二 この書状は、江戸(光琳)から京都(上嶋源丞宛)へのものである(上嶋源丞は、京都の町衆の光琳門の一人なのであろう)。

三 この書状に、光琳の「基本的な姿勢」が窺える。

「とかくねぶり付たる様に書申候ハ絵ニテなく候」(要約=粘っこい重たい線で作り込んだものは、絵にはならない。(伸びやかに大胆に生きた線で描くことが何よりも大切だ。)

四 この書状は、光琳の「基本姿勢。書体」などの基本となるとともに、「乾山」等の「基本姿勢・時代背景・書体」などの、その前提になるものとして、すべからく、ここからスタートとすることとしたい。

五 「光琳書状」などは極めて少ないが、「乾山書状・手控えもの」などは、いわゆる、「佐野乾山真贋論争」などに関して、極めて多く、その「肯定・否定」とは問わず、その意味でも、この書状を基本に据えたい。

六 そして、「光琳・乾山」と「蕪村」とのかかわりは、次のとおり。

1 享保元年(一七一六)、光琳が没した年(享年・五十九、この時、乾山、五十四歳)に、与謝蕪村(一歳)は誕生した。

2 元文二年(一七三七)、乾山(七十五歳、江戸へは六十九歳の時)、この九月に東国の「野州路(佐野)」を遊行していた。この頃、蕪村(二十二歳)は、西国(大阪・京都)から東国(江戸)へと移住している。

3 寛保三年(一七四三)、乾山は八十一歳の生涯を東国(江戸)にて閉じた。

4 寛保四年(延享元年=一七四四、蕪村、二十九歳)、東国(宇都宮)にて、『歳旦帖』を刊行して、ここで、終生の号となる、「蕪村」を名乗ることとなる。

5 すなわち、蕪村は、光琳が没した時に誕生し、そり光琳の後継者の乾山が没した時に、その終生の号の「蕪村」を得ることとなる。

6 「佐野乾山窯」の背景は、蕪村の東国出遊時代と重なる。しかし、あくまでも、この「覚書」の主たる狙いは、「乾山」その人にある。
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